橋姫は、その様子を凝視しながら鳥居の外に立っていた。
濡れた白い衣は、もう墨を帯びていない。
髪から落ちる水が、石畳へ細い輪を作る。
その後ろ姿は、見世の灯が消えたあと、誰にも見せずに一人で廊下を渡っていく紅扇姐さまに似ていた。
珠璃は、漸く息を吸った。
「……姐さま」
呼んでしまった。
呼ばずにはいられなかった。
橋姫の足が止まる。
九郎助も、葛葉も、蘭も、何も言わなかった。
大華通の灯りだけが、濡れた白い背を照らしている。
橋姫が、最後に振り向いた。
その顔は、紅扇姐さまそのものではなかった。
橋を守る水妖の顔だった。
嫉妬を帯び、怨みを知り、水底の女たちを抱えた、古い神の顔だった。
だが、古い和歌が、ふと橋姫の唇の形に乗せられる。
さむしろに 衣かたしき 今宵もや
我をまつらむ 宇治の橋姫
その時許りは、哀愁を帯びた面差しに、慈愛のような色が差していた。
待つらむ。
その音が、珠璃の内で、祀らむへ裏返る。
珠璃は花街きっての花魁になるべく育てられた身である。
三味線はもとより、ときに相伴する和歌の歌意までも仕込まれていた。
その歌を珠璃に教え込んだのは、他でもない紅扇姐さま自身だ。
――我を祀らむ、宇治の橋姫。
海に棲まう龍王の娘婿に盗られた男が、陸に置いてきた妻を思って詠った歌だ。
否、その男は和歌を二度読んだとされる。
本妻と新妻とにそれぞれ、全くこの同じ和歌を贈った。
そのために、激しい嫉妬を招いたのだという――
目もとが、あまりにも似ていた。
とすれば、紅扇姐さまにも、恋しい情人がいたのだろうか。
その情人にとって、真実の心は果たしてどちらにあったのだろう。
その目は、叱るでもない。慰めるでもない。
ただ九郎助と二人で、共に在りなさいと送り出していた。
そうして、橋姫は珠璃に背を向けた。
濡れた白い衣は、もう墨を帯びていない。
髪から落ちる水が、石畳へ細い輪を作る。
その後ろ姿は、見世の灯が消えたあと、誰にも見せずに一人で廊下を渡っていく紅扇姐さまに似ていた。
珠璃は、漸く息を吸った。
「……姐さま」
呼んでしまった。
呼ばずにはいられなかった。
橋姫の足が止まる。
九郎助も、葛葉も、蘭も、何も言わなかった。
大華通の灯りだけが、濡れた白い背を照らしている。
橋姫が、最後に振り向いた。
その顔は、紅扇姐さまそのものではなかった。
橋を守る水妖の顔だった。
嫉妬を帯び、怨みを知り、水底の女たちを抱えた、古い神の顔だった。
だが、古い和歌が、ふと橋姫の唇の形に乗せられる。
さむしろに 衣かたしき 今宵もや
我をまつらむ 宇治の橋姫
その時許りは、哀愁を帯びた面差しに、慈愛のような色が差していた。
待つらむ。
その音が、珠璃の内で、祀らむへ裏返る。
珠璃は花街きっての花魁になるべく育てられた身である。
三味線はもとより、ときに相伴する和歌の歌意までも仕込まれていた。
その歌を珠璃に教え込んだのは、他でもない紅扇姐さま自身だ。
――我を祀らむ、宇治の橋姫。
海に棲まう龍王の娘婿に盗られた男が、陸に置いてきた妻を思って詠った歌だ。
否、その男は和歌を二度読んだとされる。
本妻と新妻とにそれぞれ、全くこの同じ和歌を贈った。
そのために、激しい嫉妬を招いたのだという――
目もとが、あまりにも似ていた。
とすれば、紅扇姐さまにも、恋しい情人がいたのだろうか。
その情人にとって、真実の心は果たしてどちらにあったのだろう。
その目は、叱るでもない。慰めるでもない。
ただ九郎助と二人で、共に在りなさいと送り出していた。
そうして、橋姫は珠璃に背を向けた。



