その時、帳場の外から、軽やかな足音が近付いた。
この部屋に似合わぬ足取りだった。
畳の湿りも、銭の匂いも、墨の暗さも、平気で踏み越えてくる。
「勝手じゃないですよーだ」
遣り手婆が振り返るより早く、でっぷり太った身体の脇を、するりと何かが抜けた。
「帳尻合わせなら、あてしも見ましたにゃ」
そこに降り立ったのは、珠璃の知らない娘だった。
年頃は珠璃より少し上に見える。
紅の混じる先端娘風の短い髪に、ぴんと立った猫耳。
袴の尻から、赤茶の尻尾がゆらりと揺れている。
手には、小料理屋の角盆。
紅い和服に前掛の小柄な姿。
帳場に現れた猫耳娘は、尾の先まで紅く、この場に居合わせた全員にも見えているようだった。
余りに場違いで、誰もすぐには口を開けなかった。
紅籬楼の狭い帳場は、いつの間にか、人間の商いだけでは収まりきらぬ場所になっている。
「あてし、蘭。隣の小料理屋で二日ほど働いてたにゃ。潜入調査、だーい好きにゃ。ふふふ」
蘭は角盆を、ことりと畳へ置いた。
愛想のよい声だった。
けれど、猫耳はぴんと立ち、あくまで真剣な様子だ。
赤茶の尾の先が、焦れたようにゆっくりと揺れている。
番頭新造が立ち上がりかけた。
「猫畜生が、何を――」
「華族でもない、異能もない人間が」
蘭の尻尾が、ふわりと膨らんだ。
「あんまり妖を舐めると痛い目を見ますにゃ?」
同時に、帳場の灯が赤く揺れる。
やはり、ただの猫娘ではない。
火の気配がある。
もっと近く、もっと生活の底にある、竈で鍋を煮立てるような火。
九郎助の金の火とは違う、生き物じみた熱さを持つ赤だった。
「火は舌を持ってるにゃ」
蘭は番頭新造をちらりと見た。
「隣の土間の竈に聞きましたにゃ。番頭さんの悪巧みは沢山ある筈だそうでーす。納得できないと言うなら、ここの妓楼の格子の燃え滓みたいに、燃やしちゃいまーす」
番頭新造の顔が、更に崩れた。
九郎助は蘭を見て、すぐに問いを変えた。
「紅扇はどこだ。探せと言った筈だが」
その名が出た途端、珠璃の胸が縮んだ。
とすれば、九郎助は姐やを探してくれていたのだ。
楼主も遣り手婆も顔色を変えたのを見て、九郎助は無言で狐火を揺らした。
「こ、紅扇は戻らない。深朱が足抜けして、後追いかと思っていたが……」
戻らない。
後追い。
珠璃の指先から血の気が引いた。
「どこへ行った」
楼主を振り返った九郎助の金の眼は鋭かった。
楼主が更に何かを答えようとするより早く、蘭がひょいと立ち上がった。
猫耳がぴんと立っている。
先ほどまでのふざけた調子が、急に消えていた。
「待つにゃ。この帳場の火に聞いてみる」
蘭は、帳場の隅に置かれた燭台へ指をかざした。
赤い火が、芯からふっと伸びる。
それは狐火のように飛ばず、揺れる灯の中で舌の形を取った。
火が、何かを舐め取っている。
この妓楼に残った言葉、廊下を通った足音。
蘭はそれを聞いているのだ。
珠璃は息を潜めて待った。
暫くして、蘭が目を開いた。
「……水の祠にゃ」
「橋姫か」
九郎助が言った。
その名で、珠璃の記憶に水色の裳が揺れた。
濡れた黒髪。
蒼白の顔。
古い橋の欄干のような木片を抱いて、音もなく廓の夜を歩いていた女。
「そこにいるみたいにゃ」
蘭は角盆を抱え直し、わざと明るく笑った。
「それじゃ、紅扇さんと珠璃ちゃんは返して貰いまーす」
この部屋に似合わぬ足取りだった。
畳の湿りも、銭の匂いも、墨の暗さも、平気で踏み越えてくる。
「勝手じゃないですよーだ」
遣り手婆が振り返るより早く、でっぷり太った身体の脇を、するりと何かが抜けた。
「帳尻合わせなら、あてしも見ましたにゃ」
そこに降り立ったのは、珠璃の知らない娘だった。
年頃は珠璃より少し上に見える。
紅の混じる先端娘風の短い髪に、ぴんと立った猫耳。
袴の尻から、赤茶の尻尾がゆらりと揺れている。
手には、小料理屋の角盆。
紅い和服に前掛の小柄な姿。
帳場に現れた猫耳娘は、尾の先まで紅く、この場に居合わせた全員にも見えているようだった。
余りに場違いで、誰もすぐには口を開けなかった。
紅籬楼の狭い帳場は、いつの間にか、人間の商いだけでは収まりきらぬ場所になっている。
「あてし、蘭。隣の小料理屋で二日ほど働いてたにゃ。潜入調査、だーい好きにゃ。ふふふ」
蘭は角盆を、ことりと畳へ置いた。
愛想のよい声だった。
けれど、猫耳はぴんと立ち、あくまで真剣な様子だ。
赤茶の尾の先が、焦れたようにゆっくりと揺れている。
番頭新造が立ち上がりかけた。
「猫畜生が、何を――」
「華族でもない、異能もない人間が」
蘭の尻尾が、ふわりと膨らんだ。
「あんまり妖を舐めると痛い目を見ますにゃ?」
同時に、帳場の灯が赤く揺れる。
やはり、ただの猫娘ではない。
火の気配がある。
もっと近く、もっと生活の底にある、竈で鍋を煮立てるような火。
九郎助の金の火とは違う、生き物じみた熱さを持つ赤だった。
「火は舌を持ってるにゃ」
蘭は番頭新造をちらりと見た。
「隣の土間の竈に聞きましたにゃ。番頭さんの悪巧みは沢山ある筈だそうでーす。納得できないと言うなら、ここの妓楼の格子の燃え滓みたいに、燃やしちゃいまーす」
番頭新造の顔が、更に崩れた。
九郎助は蘭を見て、すぐに問いを変えた。
「紅扇はどこだ。探せと言った筈だが」
その名が出た途端、珠璃の胸が縮んだ。
とすれば、九郎助は姐やを探してくれていたのだ。
楼主も遣り手婆も顔色を変えたのを見て、九郎助は無言で狐火を揺らした。
「こ、紅扇は戻らない。深朱が足抜けして、後追いかと思っていたが……」
戻らない。
後追い。
珠璃の指先から血の気が引いた。
「どこへ行った」
楼主を振り返った九郎助の金の眼は鋭かった。
楼主が更に何かを答えようとするより早く、蘭がひょいと立ち上がった。
猫耳がぴんと立っている。
先ほどまでのふざけた調子が、急に消えていた。
「待つにゃ。この帳場の火に聞いてみる」
蘭は、帳場の隅に置かれた燭台へ指をかざした。
赤い火が、芯からふっと伸びる。
それは狐火のように飛ばず、揺れる灯の中で舌の形を取った。
火が、何かを舐め取っている。
この妓楼に残った言葉、廊下を通った足音。
蘭はそれを聞いているのだ。
珠璃は息を潜めて待った。
暫くして、蘭が目を開いた。
「……水の祠にゃ」
「橋姫か」
九郎助が言った。
その名で、珠璃の記憶に水色の裳が揺れた。
濡れた黒髪。
蒼白の顔。
古い橋の欄干のような木片を抱いて、音もなく廓の夜を歩いていた女。
「そこにいるみたいにゃ」
蘭は角盆を抱え直し、わざと明るく笑った。
「それじゃ、紅扇さんと珠璃ちゃんは返して貰いまーす」



