朱籬姫の嫁入り 〜売られた花魁は、大妖狐の番として囲われる〜

「入るぞ」
「はい」

 若衆(わかしゅ)誰何(すいか)するより早く、九郎助(くろすけ)の狐火が足元を走った。
 床板を焦がさず、廊下の奥までまっすぐ伸びる。
 この見世に隠れていた悪い筋を照らすようだった。

「な、何だい、あんたらは――あ、(あやかし)……」

 遣り手婆が奥から出て来た。
 その顔が、珠璃(しゅり)を見た途端に凍り付く。

 足抜けした娘。
 それが、(あやかし)を連れて戻ってきたのだ。

深朱(みあけ)……あんた、よく戻ったじゃない」
珠璃(しゅり)です」

 自分でも驚くほど、すんなり名乗りが出た。
 もう珠璃(しゅり)は、深朱(みあけ)ではない。

 玻璃(はり)の宝石眼を持つ、半()半妖の娘だ。

 今は、手首の狐火が、違う名を支えている。

珠璃(しゅり)と名乗っております」

 遣り手婆の目が、珠璃(しゅり)の宝石眼から廊下の狐火へ落ちた。
 口元が引きつる。

「足抜けして、二晩で戻って来るとはねえ」

 二晩。
 あの里で過ごした時間は、もっと長かった。
 なのに朱籬廓(しゅりかく)では、まだ数えられるほどの夜しか経っていない。
 葭海(よしうみ)の向こうと現世では、時の流れが噛み合わない。
 それでも、紅扇姐さまと離れていた時間が短いということでもある。

楼主(ろうしゅ)はどこだ」

 九郎助(くろすけ)は荒げた調子ではない。
 それでも老婆は、行く手を(ふさ)ぎ切れぬと見て逆らわなかった。

 答えを待たず、九郎助(くろすけ)は店の奥へ踏み入る。

 内証(ないしょう)と呼ばれる奥向きの一角。
 帳場の座敷には、帳簿を前にした男の姿があった。

 その途端、珠璃(しゅり)の足が一瞬止まった。

 古い畳。
 墨と、錆びた銭と、伽羅(きゃら)の匂い。

 売られて来た夜、ここで元の真名(まな)を奪われた。
 名を替えられ、値を付けられ、帳面の中へ押し込められた。

 けれど今、ここに立っているのは、あの夜の娘ではない。
 人間(ひと)(あやかし)の間に立つ、半()(よう)珠璃(しゅり)だ。

 文机(ふづくえ)の向こうに、楼主(ろうしゅ)が座っていた。
 その脇で、番頭新造(しんぞう)が帳面を抱え込んでいる。
 遣り手婆は入口近くに座り、逃げ道を塞ぐように背を丸めた。

「これはこれは」

 楼主(ろうしゅ)は、怒鳴らなかった。
 (いぶ)し責めの折檻(せっかん)を下した、あの時と同じだ。
 いつも温厚そうな顔をして、いちばん冷たい決定を下す。

「戻って来るとは殊勝だねえ。これで三津田様への話も取り返しがつく」

 珠璃(しゅり)の肩が、反射で(ふる)えかけた。

 けれど、隣には九郎助(くろすけ)がいる。

 ただ、その気配が(そば)にある。
 それだけで、崩れかけた心の芯が、辛うじて立ち直った。

「取り返すのは、こちらだ」

 九郎助(くろすけ)は、低く言った。
 明らかな恫喝を用いず、相手の逃げ道を一つずつ塞いでいく者の目だ。

「帳面を出せ」
「帳面?」

 高価な紬を着込んだ楼主(ろうしゅ)の眉が動いた。

 その一瞬で、珠璃(しゅり)にも判った。

 帳面はある。

 この家に来た日から、何を食べ、何を着せられ、誰に稽古を付けられたか。
 髪油や薬の値に至るまで、折檻(せっかん)のあとに巻かれた布切れ一枚さえ、細大漏らさず記されたもの。

「この娘へ積んだ借り。すべて書いてあるのだろう」

 すると、番頭新造(しんぞう)が振り返り、嘲笑(わら)った。

「おやまあ。妖狐さまは、お女郎(じょろう)の借りまでお支払いなさる気で」

 その(わら)いに、珠璃(しゅり)の指先が冷えた。

 何度も聞いた調子だった。
 逃げたいと言った禿(かむろ)を笑うとき。
 痛いと訴えた新造(しんぞう)を笑うとき。
 客を盗られた花魁(おいらん)へ、これでまた借りが増えたねェと告げるとき。

 大体、珠璃(しゅり)は、芸事で魅せるのが本分の花魁(おいらん)だ。
 西河岸(かし)の長屋見世で、身体一つを畳の上へ転がして開く鉄砲女郎(じょろう)ではない。

「でもォ、旦那ァ。見世の帳面は外へ見せるもんじゃありんせんよ。まして足抜け女郎(じょろう)のために――」

 その時、狐火が一筋、番頭新造(しんぞう)の抱えた帳面の上へ落ちた。
 表紙に染みた墨が、じわりと浮き上がる。

 隠した数字。
 削った揚代。
 誰にも見せぬ陰銭(かげぜに)
 火は文字を焦がさず、嘘の上に金の縁をつけていく。

 番頭新造(しんぞう)の顔は、胡粉(おしろい)を塗ってなお血の気を失った。

「やめなんし、それは――」
「お前の粉飾の跡だ」

 九郎助(くろすけ)が言う。
 我が刀で首を切るとはこのことだ。
 楼主(ろうしゅ)の目が素早く、番頭新造(しんぞう)へ動いた。

 風もないのに帳面が次々と開かれる。
 名よりも重く、肌よりも深く、帳面の黒い文字と線とで、珠璃(しゅり)を縛っていたもの。
 番頭新造(しんぞう)の指が震えている。

 九郎助(くろすけ)の狐火が、(ページ)の端を撫でる。
 墨の一部が、ふっと青黒く変わった。

「これは何だ」

 九郎助(くろすけ)が指したのは、珠璃(しゅり)の水揚げ前夜の日付だった。

 同じ箇所に突出した額が二つ浮かんでいる。
 受取先の一つは三津田。
 もう一つは、西河岸(かし)伽羅(きゃら)売り。
 同じ商いの内に収まっているかのように、後から追記されているようにも見えた。

「番頭、お前……ッ」

 上前(うわまえ)()ねるための、阿漕(あこぎ)な二重取引だと悟った瞬間、遣り手婆の顔へかあっと血が上った。

 番頭新造(しんぞう)に負けず劣らず、遊女を縛ってきたこの婆も、銭の流れを汚されることだけは許さない。
 遊女の苦しみなどどうでもよくとも、見世の体面を汚され、知らずの内に中抜きされたとなれば話は別だ。

(ぜに)()は二倍だと、わたしに誘いかけたのは、この女だった……! 逃げるしか」

 言い終えた途端、帳場の空気が変わった。

 楼主(ろうしゅ)の顔から、珍しく温厚そうなものが消える。
 怒りではない、憐れみでもない。
 深朱(みあけ)一人どころではない大損を見つけた商人の顔だった。

「お、お前、まさか深朱(みあけ)以外にも……ッ」

 遣り手婆が戸口を離れ、番頭新造(しんぞう)へにじり寄った。

 それを(さえぎ)るように、九郎助(くろすけ)の狐火が帳面から伸びる。
 金の火は番頭新造(しんぞう)の指先まで這い上がる。
 熱くはない(はず)なのに、番頭新造(しんぞう)は喉の奥で悲鳴を噛み殺した。

「やめ、やめなんし……!」
珠璃(しゅり)を汚そうとし、紅扇の顔を潰し、見世の上がりの横領分を補填させていた」

 九郎助(くろすけ)の金の眼が、冷えていく。
 番頭新造(しんぞう)の醜さを一つずつ帳面の上へ並べ、逃げられぬ形にしていく。

「よくここまで腐ったものだ」

 番頭新造(しんぞう)の唇が、醜く(ゆが)んだ。

「小娘があッ! こんな(おとこ)ォ、作って戻ってきやがってええェ!」

 それは珠璃(しゅり)へ向けたものか。
 自分より若く、高く売られたすべての娘へ向けたものか。

 その憎しみは、帳面の墨より黒かった。
 女の形をしたまま、長い年月をかけて腐っていた。

 またしても、泥の底から白い手で(すく)い上げられる娘。
 またしても、妖力(ちから)のある男に選ばれた娘。
 またしても、自分ではない娘。

 その悔しさが、番頭新造(しんぞう)の顔を歪ませる。
 胡粉(おしろい)の下で皮膚がひび割れ、紅を引いた唇の端から、黒いものが滲んだ。

 若いから。
 美しいから。
 高く売れるから。
 男が救いたがる顔をしているから。
 そんなものの全部が憎かった。

 かつては、誰かに選ばれると番頭新造(しんぞう)も思っていた。
 値を付けられ、競られ、褒めそやされると信じた夜もあった。
 けれど、誰も来なかった。

 この女に残ったのは帳面だけ。
 名前と値と借金と、使った髪油の銭まで書き付けた、女を縛る墨の列だけだった。

「紅扇の超過払い分は、珠璃(しゅり)の分を差し引いても、もう借りはない」

 九郎助(くろすけ)楼主(ろうしゅ)を正面から捉えて(のたま)った。

「二人は自由にさせてもらう」
「そんな……勝手な」