朱籬廓へ戻るのは、逃げ出した夜よりも怖かった。
葦舟が、音もなく葭津の桟橋へ寄る。
大華通を目にした途端、昔の景色が胸裏へ押し寄せた。
かつて女衒に荷物のように運ばれたときと、今とではまるで違う。
あの日は帰る家も、行く先もなく、物心もはっきりする前だった。
今の珠璃は、もう籠められた遊女ではない。
対峙するべき者の名を知っている。
楼主、遣り手婆、番頭新造。
そして、証文と帳面の重さ――。
紅籬楼は、以前と同じ顔をしていた。
否。
同じ顔をしているように見せかけているのみだと、近付くにつれて判って来た。
先ず、張見世の格子が焼け落ちていた。
黒く炭化した名残が、歯の抜けた口のように表へ並んでいる。
かつて遊女たちが膝を揃え、見世清搔の音に合わせて客を待っていた場所には、焼けた木片と灰が寄せ集められていた。
胡粉も、紅も、伽羅も、古い畳の湿った匂いも、焦げの臭いに押し潰されている。
けれど、朱籬廓で火事の跡など、然して珍しくもない。
足抜けを企てた遊女が、火を放つ。
客と揉めた男が、腹いせに行燈を倒す。
酔い潰れた誰かが、煙管の火を畳へ落とす。
色と金と怨みが詰まった場所では、火の手さえ、よくある騒ぎの一つとして数えられてしまう。
そのせいか、見世の前には相変わらず人垣が厚く、遠目には格子の焼け跡も見えなかった。
それ以外は、あの夜のままだった。
妓夫台の隣に、見張りとして居並ぶ若衆の顔ぶれも、極端に老け込んではいない。
見世番が座る台の脇から奥へ続く廊下の口まで、男たちは肩を並べ、客を迎えるためのみではない目で、遊女たちを見張っていた。
女が笑っているか。
客の機嫌を損ねていないか。
余計な荷を持っていないか。
誰かと目配せを交わしていないか。
焼け落ちた格子から逃げ出そうとしていないか。
息の継ぎ目からでも、そうした気配を見つけ出そうとする目だった。
あの夜から、さほど時は過ぎていない。
そう見えたことに、珠璃は胸裏の痞が少し溶けるのを覚えた。
紅扇姐さまとの時間は、ずれていない。
親の顔も忘れてしまった珠璃にとって、それは最後で唯一の現世との縁だった。
葦舟が、音もなく葭津の桟橋へ寄る。
大華通を目にした途端、昔の景色が胸裏へ押し寄せた。
かつて女衒に荷物のように運ばれたときと、今とではまるで違う。
あの日は帰る家も、行く先もなく、物心もはっきりする前だった。
今の珠璃は、もう籠められた遊女ではない。
対峙するべき者の名を知っている。
楼主、遣り手婆、番頭新造。
そして、証文と帳面の重さ――。
紅籬楼は、以前と同じ顔をしていた。
否。
同じ顔をしているように見せかけているのみだと、近付くにつれて判って来た。
先ず、張見世の格子が焼け落ちていた。
黒く炭化した名残が、歯の抜けた口のように表へ並んでいる。
かつて遊女たちが膝を揃え、見世清搔の音に合わせて客を待っていた場所には、焼けた木片と灰が寄せ集められていた。
胡粉も、紅も、伽羅も、古い畳の湿った匂いも、焦げの臭いに押し潰されている。
けれど、朱籬廓で火事の跡など、然して珍しくもない。
足抜けを企てた遊女が、火を放つ。
客と揉めた男が、腹いせに行燈を倒す。
酔い潰れた誰かが、煙管の火を畳へ落とす。
色と金と怨みが詰まった場所では、火の手さえ、よくある騒ぎの一つとして数えられてしまう。
そのせいか、見世の前には相変わらず人垣が厚く、遠目には格子の焼け跡も見えなかった。
それ以外は、あの夜のままだった。
妓夫台の隣に、見張りとして居並ぶ若衆の顔ぶれも、極端に老け込んではいない。
見世番が座る台の脇から奥へ続く廊下の口まで、男たちは肩を並べ、客を迎えるためのみではない目で、遊女たちを見張っていた。
女が笑っているか。
客の機嫌を損ねていないか。
余計な荷を持っていないか。
誰かと目配せを交わしていないか。
焼け落ちた格子から逃げ出そうとしていないか。
息の継ぎ目からでも、そうした気配を見つけ出そうとする目だった。
あの夜から、さほど時は過ぎていない。
そう見えたことに、珠璃は胸裏の痞が少し溶けるのを覚えた。
紅扇姐さまとの時間は、ずれていない。
親の顔も忘れてしまった珠璃にとって、それは最後で唯一の現世との縁だった。



