朱籬姫の嫁入り 〜売られた花魁は、大妖狐の番として囲われる〜

 草庵を発つ日、珠璃(しゅり)は包みに残していた乳歯を取り出した。
 一つは縁の下へ。
 一つは屋根へ。
 古いまじないの通り、そうして帰る場所と育つ先を願った。

 葭海(よしうみ)の水際には、あの(あし)(ふね)が待っていた。

 月の形に(たわ)められた舟は、昼の光の中で見てもやはり頼りない。
 けれど妖力を身の内から()った今は、沈みそうとは全く思わなくなっていた。

 九郎助(くろすけ)舳先(へさき)へ指を触れると、金の狐火が一つ灯る。
 (あし)(ぶね)は息をするように水へ浮かび、珠璃(しゅり)を迎え入れた。

「行くぞ」
「はい」

 草庵も、銀杏も、(あし)の群れも、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
 水上を渡る風は冷たい。
 けれど手首の狐火と、隣に座る九郎助(くろすけ)の気配がある。

 逃げる夜に渡った海を、今度は戻るために渡っている。
 同じ(はず)の水面が、まるで別のものに見えた。

 (あし)の穂が、舟の両側で擦れ合う。
 その音が、遠くなったり近くなったりした。
 水面に映る空も、昼の青から夕暮れの金へ、また薄い朝の色へと、瞬きの間に移ろって見える。

 珠璃(しゅり)は、思わず舟縁を掴んだ。

「……今、何が」
「ずれたな」

 九郎助(くろすけ)は、驚いた様子もなく答えた。
 行きのときには気付かなかった何かを、番となった今は感じる。

葭海(よしうみ)を渡るとき、あるいは霧の結界を抜けるとき、人間(ひと)の世と里の時間は同じではない。早いこともあれば、遅いこともある」

 珠璃(しゅり)は息を()んだ。

「では、あの草庵で過ごした日々は……」
朱籬(しゅり)では、今、何時かは判らぬ」

 ふいに紅扇(ねえ)さまのことが思い出された。

「里で流れた情が濃いほど、時は曖昧になる」

 九郎助の金の眼が、水の向こうを見た。

「恐れも、祈りも、恨みも。人間(ひと)の暦だけでは量れぬものがある」

 珠璃(しゅり)は、その言葉を胸の奥へ沈めた。

 ならば、(あやかし)の里に姿を消すとは、ただ人目から隠れることではない。
 人間(ひと)の暦からも、少し外れるということなのだ。

 やがて(あし)の果てに、朱い灯が(にじ)み始めた。

 朱籬廓(しゅりかく)
 名を奪われた場所。
 紅扇(ねえ)さまが、まだ待っているかもしれない場所。

 珠璃(しゅり)は木札の欠片を握りしめた。
 今度は、連れ戻されるのではない。