朱籬姫の嫁入り 〜売られた花魁は、大妖狐の番として囲われる〜

 それでもきっと、いずれもが切り離せぬことなのだ。

 最も美しい女が、清濁(せいだく)(あわ)せ呑むように。
 可憐で清廉でもあり、奔放で淫蕩(いんとう)でもあるように。
 祈りの前に立つ白い肌と、夜の畳へ沈む紅の裾とが、一人の女から切り離せぬことのように。

 芸事を仕込まれる日々は辛かった。
 それでも、型を重ねるほど()ぎ澄まされる感性があり、その果てにしか見えぬ景色がある。

 人間(ひと)の魂には、和魂(にきたま)荒魂(あらたま)が共に宿る。
 帝の血にもまた、神仙と(あやかし)とが混じり合っている。

 心が先か、身が先か。
 (ちぎ)りとは何か。
 房事(ぼうじ)とは、ただ身体を重ねることなのか。
 それとも相手へと心を向けると決めた、その一瞬から、既に始まっているものなのか。

 一度の(ちぎ)りで決まるのではない。
 何を契機に(えにし)が結ばれるのだとしても、大切なのは、その先で何を選び続けるか、だ。

 毎瞬、毎瞬、差し出すのか、拒むのか、信じるのか、逃げるのか。
 その小さな決定の積み重なった先に、道はできる。
 そうでなくてはならない。



 珠璃(しゅり)はその夜、(えにし)を結ぶ女として、九郎助(くろすけ)の座敷に向かった。

 草庵の奥へ続く廊は、昼に見るよりも長い。
 柱の影が畳の縁へ沈み、燈台(とうだい)の灯りが板敷の上に細く伸びている。

 座敷の前で、九郎助は待っていた。
 急かすでもなく、手を引くでもなく、(ふすま)の脇に立っている。

 金の眼が珠璃(しゅり)を見た。
 その奥には、獣の熱がある。

 けれど、それを押し隠そうとする理性もまた、同じだけ深く沈んでいた。

「入らぬなら、それでよい」

 珠璃(しゅり)は、喉の奥が詰まるような心地で首を振った。

「入ります」

 自分で言った。
 それだけで、足元の畳が少し違って見えた。

 九郎助はすぐには動かなかった。
 珠璃(しゅり)(ふすま)の内へ入るのを、ただ見届ける。
 背を押さない。
 逃げ道を塞がない。
 まるで、ここから先のすべてを、珠璃(しゅり)自身の歩みに任せるように。

 座敷には、余計なものがなかった。
 炉の残り火に似た金の狐火が、燈台(とうだい)のそばで小さく(とも)っている。
 畳の香。古い木の匂い。水を浴びた後の、冬の夜気を含んだ九郎助(くろすけ)の気配。

 珠璃(しゅり)は、敷居から一歩、奥へ進んだ。

 朱籬(しゅり)の夜とは違う。
 笑い声も、三味の音も、酒の匂いもない。
 誰も珠璃(しゅり)の髪や肌や仕草を、品定めする目で見ていない。

 それなのに、息が(せわ)しくなる。

 廓で仕込まれた所作なら、ここでどのように見せればよいかを知っている。
 目許(めもと)を伏せ、指先を細く見せ、衣の乱れさえ美しく扱う方法も。

 けれど今夜、そんなものは要らなかった。
 珠璃(しゅり)は、飾るためではなく、隠すためでもなく、ただ自分の怖さを確かめるように、袖を握った。

「上手には、できません」
「上手でなくてよい」
「知らないことばかりです」
「今から知ればよい。きっと里暮らしにも慣れる」

 今から。
 その言い方が、不思議に聞こえた。

 畑で何もできなかった珠璃(しゅり)を、九郎助は責めなかった。
 叱ることも、急かすこともない。
 知らぬなら、今から知ればよい、と言う。

 珠璃(しゅり)はいつも、出来上がった姿を求められてきた。
 客の前へ出る時には、髪も、衣も、笑みも、すべて整っていなければならない。
 知らないことは恥で、拙いことは値を下げる傷だった。

 けれど九郎助(くろすけ)は、知らないままの珠璃(しゅり)を前にして、今から知ればよいと言う。

 背中の奥で、何かが(ほど)ける。

 あの日、紅扇(ねえ)さまが結ってくれた髪。
 格子の前で作った笑み。売られるために覚えた仕草。
 そうしたものが、一つずつ指から離れていくようだった。

 九郎助(くろすけ)が、手を差し出した。

 大きな(てのひら)だった。
 爪を隠した、獣の手。
 奪うことも、縛ることもできる手。
 けれど今は、珠璃(しゅり)が重ねるまで、何も(つか)まない手だった。

 珠璃(しゅり)は、その手を見た。
 それから、木札のある胸元へもう一度触れる。

 紅扇(ねえ)さま。
 わたしは、選びます。

 そう胸の内で告げて、珠璃(しゅり)は九郎助へ手を伸ばした。