「人間の帝に……妖力が?」
「そこが少し厄介なのじゃ」
葛葉は、炉の火を見た。
「人間には異能がある。物の怪の調伏に通るのは、異能者は異能者同士の五行」
葛葉の指先でふわりと狐火が生まれ、細く揺れた。
その炎だけが、人間と妖の間に引かれた見えぬ境を照らしている。
「我ら妖には妖の五行合わせの妖力じゃ。我らは、異能者とは垣根を越えて合わせられぬ」
表れたときと同じように狐火は音もなく消された。
「では、土御門さまは……」
「土御門の血には、神仙の巫女と古い妖が少しずつ混じっておる」
ただ血筋が古い、という話ではないのだろう。
人間でありながら、人間のみではない。
半妖であり、妖だけにも寄らず、神気をも併せ持つ。
三つの世の間に立てる者だからこそ、散った五行を一つの術へ結び直せる。
「だからこそ人間の世の王でありながら、妖とも合わせられる」
王。
人間の言葉では、帝――。
廓で聞くそれは、遠い御殿の飾り言葉でしかなかった。
けれど、ここでいう王とは、誰かの上に座る者ではない。
人間と妖の裂け目に立ち、裂け目ごと引き受ける者のことなのだ。
「問題は、水だ」
九郎助の金の眼に、思案の色が差した。
珠璃の記憶に、弁才天の手水の水面が揺れた。
花びらが浮き、大門橋に燈る灯りを映し、揺れてもすぐ形を取り戻していた水。
その橋を渡れば外へ出られるのだと、見えていたのに届かなかった場所。
「水は、弁才天?」
珠璃が問うと、葛葉は重々しく肯首した。
「だが、朱籬廓のどぶ溝の底には、芸事に長けた遊女がたくさん沈んでおる」
「……」
「それらが弁才天の足を引っ張る。おまけに橋姫も遊女らの嫉妬に誘い出され、大門の先の大橋から彷徨い出て来ておる。あやつも水妖の端くれだが、果たして何が目的かも判らん」
芸事に長けた遊女。
その言葉が、珠璃のうちで冷たく沈んだ。
弁才天は、芸事の神だ。
三味線も、琴も、舞も、歌も、――座敷で床で、男を喜ばせるために磨かされたものの先に、いつもその名を聞いた。
炉の火が、ぱち、と鳴った。
「どぶ溝に身を投げて絶命した者が多すぎるのじゃ」
珠璃の背を、冷たいものが撫でた。
――嫉妬。
それもまた、廓では珍しくもない言葉だった。
花の名をもらった女。よい衣を与えられた女。馴染みを取られた女。
笑って祝うふりをしながら、畳の下へ爪を立てるような夜はいくらでもあった。
けれど、死んでもなお水の底で誰かの足を引くほどの恨み、とは――。
「土地の水の守り神の座を、橋姫と弁才天とで分け合って来た上に、これではのう。……弁才天の力を発揮しきれるものかどうか」
橋姫。
あの夜、蒼白の顔で彷徨っていた水の女。禍々しさは一切感じられなかった。
古い橋の欄干のような木片を抱いて、下駄の音もなく、朱籬廓の夜を滑るように渡っていた。
「しかも芸事に長けた弁才天を、その身に引き受けられる妖もおらぬ」
九郎助は、物憂く言った。
朱籬廓の水――
水は、澄んでいるほどものを映す。
身を投げた遊女が多く、濁れば何を映しているのかさえ判らなくなるのだろう。
珠璃は、弁才天の社で見た手水を思い出した。
水面にまだらに浮いた、花と橋の灯り。
「水が欠ければ調伏は成らぬ」
珠璃の指先が冷えた。
稽古場の匂いが蘇る。
爪が割れても、三味の弦を押さえた夜。
笑えと言われ、流し目を作れと言われ、男の前で一番美しく見える角度を叩き込まれた日々。
芸事。
琴の音が、暫く胸の疼きを忘れさせてくれたこともある。
舞の足運びが決まった時、身体が一つの線になったように感じたこともある。
好きだと言えば廓を許すようで、嫌いだと言えば爪を割った日々まで棄てるようで。
そのどちらでもない場所に、珠璃はずっと立っていた。



