「珠璃。怖いなら、調伏からも契りからも退いてよい」
珠璃は、弾かれたように顔を上げた。
「お前は人の娘だ。すべてを背負う謂れはない」
この人は、いつもそうだ。
答えを知っていて、必要なことも知っていて、それでも珠璃を差し出す側には回らない。
九郎助は、珠璃を見ていない。
炉の火を見据えたまま、すでに何かを決めている顔をしていた。
「水が要るなら、別の手を取るまでだ」
「別の手……?」
問い返した珠璃の方を、九郎助はようやく見た。
責める色はない。
急かす色もない。
ただ、珠璃が逃げるための道を、先に作っておこうとする眼だった。
「尾を一本、葭海へ奉納する。百年分の狐火を喰わせれば、一夜は持つだろう」
意味が、すぐには入って来なかった。
尾を一本。
百年分の狐火。
それは、この人が生きてきた歳月そのものだ。
柿の木を守った百年。
紅扇姐さまの願いを聞き続けた夜。
人の寿命を見送りながら、それでも忘れずに持ち続けてきた火。
それを、珠璃を軛にしないために、海へ沈めると言っている。
葛葉が色を失った。
「兄さま、それは」
「黙れ」
「百年で済まぬ。下手をすれば、尾の根まで腐る。九尾どころではない。眠りに落ちれば、里は」
「珠璃を犠牲にするよりはましだ」
その言葉は、叱責ではなかった。
ただ、動かしようのない決定だった。
珠璃の喉が詰まる。
百年前の柿の木。
紅扇姐さまの願い。
物の怪へ堕ちた女たち。
人の寿命を何度も見送り、それでも願いを聞き続けてきた金狐。
葛葉を嫁がせることも怖いと言った。
紅扇の祈りを長く聞いていた。
柿の木を、まだ百年だと言って守っていた。
その人が、今また独りで耐えようとしている。
珠璃に選べと言いながら。
珠璃を待つと言いながら。
怖いなら契らなくてよいと、道を開けながら。
その代わり、自分の尾を燃やすと言っている。
「どうして……」
言葉が零れた。
「どうして、そこまで」
九郎助は振り向かない。
炉の火を見たまま、短く答えた。
「お前を、もう二度と誰かのための道具にしたくない」
胸の奥で、何かが崩れた。
珠璃は木札を握った。
紅扇姐さまの願いが、まだ掌に残っている。
値でなく情で。
買われるのではなく、選ぶように。
名を奪われたまま終わらぬように。
ならば、選ばなければならない。
逃げるか、差し出されるかではなく。
自分から、誰の隣に立つのかを。
「九郎助さま」
金の眼がこちらを向いた。
「わたしは、まだ怖い」
「知っている」
「あなたのことも、契ることも、朱籬へ戻ることも。水の底に沈んだ女たちの手を取ることも、全部怖い」
言いながら、珠璃は掌の木札を胸元へ寄せた。
「でも、あなた一人に背負わせる方が、もっと厭です」
九郎助の金の眼が、僅かに揺れた。
脚は顫えていた。
けれど、座ったままではいられなかった。
この人は、珠璃を道具にしないために、自分の尾を葭海へ沈めようとしている。
百年分の狐火を失っても、九尾への道が遠のいても、珠璃に差し出せとは言わない。
それは優しさだ。
けれど、あまりに独りきりの優しさだった。
柿の木を守った百年も。
紅扇姐さまの願いを聞き続けた夜も。
葛葉を嫁がせる怖さも。
この人は、いつも自分の内側へ抱え込んで、最後にはひとりで耐える方を選ぶ。
そんな背中を、これ以上見ているのは厭だった。
「あなたが見てきた祈りを、わたしも一緒に拾いたい」
「珠璃」
「わたしは、あなたとの契りから逃げません」
言ってから、息が止まりそうになった。
それでも、目を逸らさなかった。
「抱かれるためではありません。使われるためでもありません。あなたの尾を燃やさせないために、あなたの隣で、わたしがわたしの役目を選ぶためです」
炉の火が、低く鳴った。
葛葉が息を呑む。
九郎助は、暫く何も言わなかった。
珠璃が必要だから、番として契ったのではない。
珠璃を必要としていてさえも、道具にしない男だ。
だからこそ、隣に立ちたいと思った。
この人に選ばれるためではない。
この人を独りで耐えさせないために。
やがて、九郎助の金の眼が伏せられる。
「……俺を支えると言うのか」
「はい」
「怖いというのに、か」
「はい、……怖いままです。知らないことばかりだから」
珠璃は、小さく息を吸った。
怖くないはずがない。
物の怪へ向かうことも、妖の理へ踏み込むことも、九郎助の天命を共に負うことも。
それでも、厭だと思わなかった。
「それでも、あなたを独りにしたくないと、今は思う」
九郎助は、すぐには答えなかった。
ただ、珠璃の手首へ結ばれた狐火を見る。
それから、珠璃の眼を見た。
美しい眼だと、九郎助は思った。
値を付けられ、見世へ立たされ、怖いものを怖いまま抱えてきた眼だった。
それでも、逃げるためではなく、隣に立つためにこちらを見ている。
「……困ったな」
低く掠れていた。
「お前にそんな風に言われたら、俺はもう、守るのみでは足りなくなる」
珠璃の指先が、僅かに顫えた。
九郎助はその顫えを包もうとして、途中で手を止める。
触れたいのだと、判った。
けれど、触れないのだとも判った。
「なら、先に知れ。俺が何を背負っているのか。お前が何を選ぼうとしているのか」
その言葉に、葛葉が深く頷いた。
珠璃は、弾かれたように顔を上げた。
「お前は人の娘だ。すべてを背負う謂れはない」
この人は、いつもそうだ。
答えを知っていて、必要なことも知っていて、それでも珠璃を差し出す側には回らない。
九郎助は、珠璃を見ていない。
炉の火を見据えたまま、すでに何かを決めている顔をしていた。
「水が要るなら、別の手を取るまでだ」
「別の手……?」
問い返した珠璃の方を、九郎助はようやく見た。
責める色はない。
急かす色もない。
ただ、珠璃が逃げるための道を、先に作っておこうとする眼だった。
「尾を一本、葭海へ奉納する。百年分の狐火を喰わせれば、一夜は持つだろう」
意味が、すぐには入って来なかった。
尾を一本。
百年分の狐火。
それは、この人が生きてきた歳月そのものだ。
柿の木を守った百年。
紅扇姐さまの願いを聞き続けた夜。
人の寿命を見送りながら、それでも忘れずに持ち続けてきた火。
それを、珠璃を軛にしないために、海へ沈めると言っている。
葛葉が色を失った。
「兄さま、それは」
「黙れ」
「百年で済まぬ。下手をすれば、尾の根まで腐る。九尾どころではない。眠りに落ちれば、里は」
「珠璃を犠牲にするよりはましだ」
その言葉は、叱責ではなかった。
ただ、動かしようのない決定だった。
珠璃の喉が詰まる。
百年前の柿の木。
紅扇姐さまの願い。
物の怪へ堕ちた女たち。
人の寿命を何度も見送り、それでも願いを聞き続けてきた金狐。
葛葉を嫁がせることも怖いと言った。
紅扇の祈りを長く聞いていた。
柿の木を、まだ百年だと言って守っていた。
その人が、今また独りで耐えようとしている。
珠璃に選べと言いながら。
珠璃を待つと言いながら。
怖いなら契らなくてよいと、道を開けながら。
その代わり、自分の尾を燃やすと言っている。
「どうして……」
言葉が零れた。
「どうして、そこまで」
九郎助は振り向かない。
炉の火を見たまま、短く答えた。
「お前を、もう二度と誰かのための道具にしたくない」
胸の奥で、何かが崩れた。
珠璃は木札を握った。
紅扇姐さまの願いが、まだ掌に残っている。
値でなく情で。
買われるのではなく、選ぶように。
名を奪われたまま終わらぬように。
ならば、選ばなければならない。
逃げるか、差し出されるかではなく。
自分から、誰の隣に立つのかを。
「九郎助さま」
金の眼がこちらを向いた。
「わたしは、まだ怖い」
「知っている」
「あなたのことも、契ることも、朱籬へ戻ることも。水の底に沈んだ女たちの手を取ることも、全部怖い」
言いながら、珠璃は掌の木札を胸元へ寄せた。
「でも、あなた一人に背負わせる方が、もっと厭です」
九郎助の金の眼が、僅かに揺れた。
脚は顫えていた。
けれど、座ったままではいられなかった。
この人は、珠璃を道具にしないために、自分の尾を葭海へ沈めようとしている。
百年分の狐火を失っても、九尾への道が遠のいても、珠璃に差し出せとは言わない。
それは優しさだ。
けれど、あまりに独りきりの優しさだった。
柿の木を守った百年も。
紅扇姐さまの願いを聞き続けた夜も。
葛葉を嫁がせる怖さも。
この人は、いつも自分の内側へ抱え込んで、最後にはひとりで耐える方を選ぶ。
そんな背中を、これ以上見ているのは厭だった。
「あなたが見てきた祈りを、わたしも一緒に拾いたい」
「珠璃」
「わたしは、あなたとの契りから逃げません」
言ってから、息が止まりそうになった。
それでも、目を逸らさなかった。
「抱かれるためではありません。使われるためでもありません。あなたの尾を燃やさせないために、あなたの隣で、わたしがわたしの役目を選ぶためです」
炉の火が、低く鳴った。
葛葉が息を呑む。
九郎助は、暫く何も言わなかった。
珠璃が必要だから、番として契ったのではない。
珠璃を必要としていてさえも、道具にしない男だ。
だからこそ、隣に立ちたいと思った。
この人に選ばれるためではない。
この人を独りで耐えさせないために。
やがて、九郎助の金の眼が伏せられる。
「……俺を支えると言うのか」
「はい」
「怖いというのに、か」
「はい、……怖いままです。知らないことばかりだから」
珠璃は、小さく息を吸った。
怖くないはずがない。
物の怪へ向かうことも、妖の理へ踏み込むことも、九郎助の天命を共に負うことも。
それでも、厭だと思わなかった。
「それでも、あなたを独りにしたくないと、今は思う」
九郎助は、すぐには答えなかった。
ただ、珠璃の手首へ結ばれた狐火を見る。
それから、珠璃の眼を見た。
美しい眼だと、九郎助は思った。
値を付けられ、見世へ立たされ、怖いものを怖いまま抱えてきた眼だった。
それでも、逃げるためではなく、隣に立つためにこちらを見ている。
「……困ったな」
低く掠れていた。
「お前にそんな風に言われたら、俺はもう、守るのみでは足りなくなる」
珠璃の指先が、僅かに顫えた。
九郎助はその顫えを包もうとして、途中で手を止める。
触れたいのだと、判った。
けれど、触れないのだとも判った。
「なら、先に知れ。俺が何を背負っているのか。お前が何を選ぼうとしているのか」
その言葉に、葛葉が深く頷いた。



