昼餉の支度を手伝おうとして、珠璃はまた手持ち無沙汰になった。
竈の前に立てば、薪を焚べる加減が判らない。
団吾や葛葉の使う実子箒は珠璃には小さ過ぎる。
井戸端へ行けば、釣瓶の縄に手間取る。
畑へ出ても、霜の降りた畝や土の締まり具合を見て、皆が何を言っているのか少しも読めない。
その間にも、団吾の小さな背は、竈と膳の間を忙しなく往き来していた。
鍋の湯気を見、椀の向きを揃え、足りぬものがあればすぐに土間へ駆けていく。
珠璃は炉端へ戻り、懐へ残していた小さな包みを広げた。
古い九郎助稲荷の木札。
紅扇姐さまが格子越しに渡してくれたものだ。
その横で、逃げる夜に押し込んだびらびら簪が、炉の灯りを拾っていた。
珠璃は、指先で角ばった古い木札を撫でた。
表には、薄れかけた墨で九郎助稲荷の名が残っている。
どうして、これを渡してくれたのだろう。
苦しい夜の底で、誰にも言わずに握り、願を掛けてきた木札だっただろうに。
それを珠璃へ渡した。
よもや、もう願う心算がなくなったのか。
そう思うと、木札の薄さが急に頼りなく見えた。
簪は、草庵にあってもまだ華やかだった。
金具の先に揺れる薄い飾りは、少し欠けても灯りを拾う。
これの扱いなら判る。
歩く度、どれほど揺らせば客の目を引けるか。
どの角度で挿せば、顔がより華やかに、目がより深く見えるか。
判るものは、皆、廓の中で仕込まれたものだ。
今、珠璃は、九郎助から選ぶことを許されている。
紅扇姐さまもまた、この木札を渡して、珠璃に何かを委ねたのだ。
その時、木札が掌の上でかたりと鳴った。
「……」
珠璃は息を止めた。
古い木の割れ目に、金の火が一筋走っている。
「のう、珠璃」
いつの間にか葛葉が戻り、戸口に立っていた。
小さな姫は、壁に掛けられた硝子壺の狐火を見上げている。
火はどれも青い。
「人間の世に、乱れが生じておる」
「大結界師が死んだから……?」
「そうじゃ。隠していたもの、押し留めていたもの、区切っていたものが、いま一斉に緩んでおる」
葛葉の金の眼が、木札へ移った。
「朱籬廓も、じきに保たぬ」
その名を聞いた途端、珠璃の指先が木札を強く押した。
「紅扇姐さま……」
炉端で黙っていた九郎助が、顔を上げた。
「朱籬廓は、都の欲と穢れを受け止める器でもあった。恨み、病、妬み、金で流す欲。人の世はそれを座敷に押し込め、花と呼んでいた」
「花……」
よい花になれ。
高く咲け。
紅籬楼の大輪になれ。
何度も言われてきた言葉だった。
「その器に綻びが出れば、底から零れる。恨みを呑んだ者が、もう人間でいられなくなる。物の怪へ堕ちる者も増えるだろう」
珠璃の耳の奥で、あの黒い影の言葉が甦った。
名を奪われたもの。
売られたもの。
恨みを呑んだもの。
まだ堕ちきらぬもの。
格子に張り付いていた、指先の長い黒い手。
あれは、名を失い、願いを呑み下し、恨み節へ堕ちた、どこかの女たちだったのだ。
「では、あの物の怪は……」
「朱籬廓の綻びから出たものだろう。もしくは、呑もうと引き寄せられたものだ」
九郎助はそこで、苦いものを押し込むように言葉を切った。
「あれには幾つもの顔が混じっていた。恨みが重なり、名が解け、誰のものともつかぬ影になっていた」
珠璃は、膝の上の簪を見た。
金具の先のびらびら飾りが、狐火の灯りを拾って光る。
綺麗だった。
綺麗であるほど怖かった。
その裏側に、たくさんの女の怨みを隠して。
「わたし……あの物の怪に、もうすぐ堕ちそうな者、と言われた」
九郎助の金の眼が、珠璃へ向いた。
すぐには答えが返らない。
その間が怖いものに感じる。
九郎助は慰めるために嘘を置く性質ではない。
「だが、間に合った」
やがて九郎助は言った。
「お前の和魂は、荒魂に屈しなかった。紅扇が願い、お前が手を伸ばし、俺が見つけた。だから今は、ここにいる」
紅扇が願い、と九郎助が発した瞬間。
掌の中の木札の火がまた点った。
金の筋が、古い木目を走る。
ふっと、炉の熱とは違うものが掌へ流れ込んできた。
――この子が、値でなく情で結ばれますように。
――名を奪われたまま終わりませんように。
――どうか、自分の心で誰かを選べますように。
朱い灯りの端。
九郎助稲荷の小さな社。
長く手を合わせる紅扇姐さまの後ろ姿。
願いの形が珠璃の内へ落ちて来る。
紅扇姐さまは、そんなことは一言も言わなかった。
安く売られぬように。
それだけを、いつも揶揄うように言った。
けれど本当は、ずっと。
珠璃が値でなく、心で結ばれることを願っていたのだ。
「姐さま……」
木札の角を握った指に、力が入る。
「朱籬廓が崩れれば、穢れは葭海を越えて来る」
葛葉の言葉が、炉の向こうから戻って来た。
「この里にも来る。物の怪は、そなたを目印にするじゃろう」
「わたしを」
「そうじゃ」
逃がされて終わる話では決してなかったのだ。
いずれにしても、あの物の怪は追ってくる。
珠璃は、木札の角を親指で撫でた。
擦れた木肌の奥から、朱籬の夜が立ち上がる。
格子。朱い灯り。三味線の糸。
姐やたちの胡粉の匂い。
朱籬廓から零れ出す穢れ。
物の怪へ堕ちる女たち。
五行の欠けた調伏。
水の底で揺れ、誘われて地上を彷徨い歩き始めた橋姫。
それらが一つずつ、珠璃の前で線を結んでいく。
「物の怪を祓うには、水を司る弁才天の芸を知り、朱籬廓の怨みを知り、なお物の怪へ堕ちきっていない者が要る」
葛葉は、それ以上を言わなかったが、言われなくても判ってしまった。
芸を知り、堕ちかけた者。
珠璃だ。
怖い、と先ず思った。
次に、逃げたいと思った。
それから、紅扇姐さまの木札が、掌の中で熱を返した。
九郎助は立ち上がった。
「やめろ」
低い一言だった。
葛葉が眉を上げる。
「兄さま」
「それ以上、珠璃へ向けるな」
「しかし」
「判っている」
九郎助の横顔に、冬の影が差した。
「水が欠ければ、調伏は成らぬ。朱籬廓の怨みは葭海を越える。……判っている」
珠璃は、あの夜の里を思い出した。
葦原の向こうから、紅い穢れが押し寄せた夜。
焼けば散り、散れば子狐の鼻先へ、井戸へ、飯へと紛れようとしていた。
あれが朱籬から零れたものの一端だったのなら、水を欠いたままでは、いずれまた、あの紅い穢れに覆われるのだろう。
竈の前に立てば、薪を焚べる加減が判らない。
団吾や葛葉の使う実子箒は珠璃には小さ過ぎる。
井戸端へ行けば、釣瓶の縄に手間取る。
畑へ出ても、霜の降りた畝や土の締まり具合を見て、皆が何を言っているのか少しも読めない。
その間にも、団吾の小さな背は、竈と膳の間を忙しなく往き来していた。
鍋の湯気を見、椀の向きを揃え、足りぬものがあればすぐに土間へ駆けていく。
珠璃は炉端へ戻り、懐へ残していた小さな包みを広げた。
古い九郎助稲荷の木札。
紅扇姐さまが格子越しに渡してくれたものだ。
その横で、逃げる夜に押し込んだびらびら簪が、炉の灯りを拾っていた。
珠璃は、指先で角ばった古い木札を撫でた。
表には、薄れかけた墨で九郎助稲荷の名が残っている。
どうして、これを渡してくれたのだろう。
苦しい夜の底で、誰にも言わずに握り、願を掛けてきた木札だっただろうに。
それを珠璃へ渡した。
よもや、もう願う心算がなくなったのか。
そう思うと、木札の薄さが急に頼りなく見えた。
簪は、草庵にあってもまだ華やかだった。
金具の先に揺れる薄い飾りは、少し欠けても灯りを拾う。
これの扱いなら判る。
歩く度、どれほど揺らせば客の目を引けるか。
どの角度で挿せば、顔がより華やかに、目がより深く見えるか。
判るものは、皆、廓の中で仕込まれたものだ。
今、珠璃は、九郎助から選ぶことを許されている。
紅扇姐さまもまた、この木札を渡して、珠璃に何かを委ねたのだ。
その時、木札が掌の上でかたりと鳴った。
「……」
珠璃は息を止めた。
古い木の割れ目に、金の火が一筋走っている。
「のう、珠璃」
いつの間にか葛葉が戻り、戸口に立っていた。
小さな姫は、壁に掛けられた硝子壺の狐火を見上げている。
火はどれも青い。
「人間の世に、乱れが生じておる」
「大結界師が死んだから……?」
「そうじゃ。隠していたもの、押し留めていたもの、区切っていたものが、いま一斉に緩んでおる」
葛葉の金の眼が、木札へ移った。
「朱籬廓も、じきに保たぬ」
その名を聞いた途端、珠璃の指先が木札を強く押した。
「紅扇姐さま……」
炉端で黙っていた九郎助が、顔を上げた。
「朱籬廓は、都の欲と穢れを受け止める器でもあった。恨み、病、妬み、金で流す欲。人の世はそれを座敷に押し込め、花と呼んでいた」
「花……」
よい花になれ。
高く咲け。
紅籬楼の大輪になれ。
何度も言われてきた言葉だった。
「その器に綻びが出れば、底から零れる。恨みを呑んだ者が、もう人間でいられなくなる。物の怪へ堕ちる者も増えるだろう」
珠璃の耳の奥で、あの黒い影の言葉が甦った。
名を奪われたもの。
売られたもの。
恨みを呑んだもの。
まだ堕ちきらぬもの。
格子に張り付いていた、指先の長い黒い手。
あれは、名を失い、願いを呑み下し、恨み節へ堕ちた、どこかの女たちだったのだ。
「では、あの物の怪は……」
「朱籬廓の綻びから出たものだろう。もしくは、呑もうと引き寄せられたものだ」
九郎助はそこで、苦いものを押し込むように言葉を切った。
「あれには幾つもの顔が混じっていた。恨みが重なり、名が解け、誰のものともつかぬ影になっていた」
珠璃は、膝の上の簪を見た。
金具の先のびらびら飾りが、狐火の灯りを拾って光る。
綺麗だった。
綺麗であるほど怖かった。
その裏側に、たくさんの女の怨みを隠して。
「わたし……あの物の怪に、もうすぐ堕ちそうな者、と言われた」
九郎助の金の眼が、珠璃へ向いた。
すぐには答えが返らない。
その間が怖いものに感じる。
九郎助は慰めるために嘘を置く性質ではない。
「だが、間に合った」
やがて九郎助は言った。
「お前の和魂は、荒魂に屈しなかった。紅扇が願い、お前が手を伸ばし、俺が見つけた。だから今は、ここにいる」
紅扇が願い、と九郎助が発した瞬間。
掌の中の木札の火がまた点った。
金の筋が、古い木目を走る。
ふっと、炉の熱とは違うものが掌へ流れ込んできた。
――この子が、値でなく情で結ばれますように。
――名を奪われたまま終わりませんように。
――どうか、自分の心で誰かを選べますように。
朱い灯りの端。
九郎助稲荷の小さな社。
長く手を合わせる紅扇姐さまの後ろ姿。
願いの形が珠璃の内へ落ちて来る。
紅扇姐さまは、そんなことは一言も言わなかった。
安く売られぬように。
それだけを、いつも揶揄うように言った。
けれど本当は、ずっと。
珠璃が値でなく、心で結ばれることを願っていたのだ。
「姐さま……」
木札の角を握った指に、力が入る。
「朱籬廓が崩れれば、穢れは葭海を越えて来る」
葛葉の言葉が、炉の向こうから戻って来た。
「この里にも来る。物の怪は、そなたを目印にするじゃろう」
「わたしを」
「そうじゃ」
逃がされて終わる話では決してなかったのだ。
いずれにしても、あの物の怪は追ってくる。
珠璃は、木札の角を親指で撫でた。
擦れた木肌の奥から、朱籬の夜が立ち上がる。
格子。朱い灯り。三味線の糸。
姐やたちの胡粉の匂い。
朱籬廓から零れ出す穢れ。
物の怪へ堕ちる女たち。
五行の欠けた調伏。
水の底で揺れ、誘われて地上を彷徨い歩き始めた橋姫。
それらが一つずつ、珠璃の前で線を結んでいく。
「物の怪を祓うには、水を司る弁才天の芸を知り、朱籬廓の怨みを知り、なお物の怪へ堕ちきっていない者が要る」
葛葉は、それ以上を言わなかったが、言われなくても判ってしまった。
芸を知り、堕ちかけた者。
珠璃だ。
怖い、と先ず思った。
次に、逃げたいと思った。
それから、紅扇姐さまの木札が、掌の中で熱を返した。
九郎助は立ち上がった。
「やめろ」
低い一言だった。
葛葉が眉を上げる。
「兄さま」
「それ以上、珠璃へ向けるな」
「しかし」
「判っている」
九郎助の横顔に、冬の影が差した。
「水が欠ければ、調伏は成らぬ。朱籬廓の怨みは葭海を越える。……判っている」
珠璃は、あの夜の里を思い出した。
葦原の向こうから、紅い穢れが押し寄せた夜。
焼けば散り、散れば子狐の鼻先へ、井戸へ、飯へと紛れようとしていた。
あれが朱籬から零れたものの一端だったのなら、水を欠いたままでは、いずれまた、あの紅い穢れに覆われるのだろう。



