炉の向こうで障子が鳴り、珠璃は顔を上げた。
いつからそこにいたのか、九郎助が広縁に立っていた。
水浴びの後なのか、髪はまだ結ばれていない。
夜着の上に、珠璃へ貸したのとは別の羽織を掛けている。
「葛葉」
「ほれ、来た。面倒な兄さまじゃ」
「蔭口を言うからだ」
「蔭ではない。薄い障子一枚向こうじゃ」
葛葉は悪びれもせず、火箸を置いた。
「では、わしは部屋に戻る。兄さま、珠璃を怖がらせるでないぞ」
珠璃の横を通る時、小さな手が半肩を軽く叩く。
「怖いものが二つある時は、片方ずつ怖がればよい」
そう言って、葛葉は障子の向こうへ消えた。
残された炉辺に、九郎助が入って来る。
珠璃は火を見たまま、袖の奥の狐火を隠した。
「もしかして、聞いてた?」
「少し」
「……」
「悪かった」
九郎助は炉の向こうへ座った。
近すぎない。
けれど、遠すぎもしない。
その距離が、今夜は少し寂しかった。
「葛葉は、いつか旦那さまを見送るの?」
「ああ」
「それでも嫁ぐしかないの?」
「あいつが行くと言った」
火が、九郎助の横顔を照らした。
「止めても泣く。行かせても泣く。ならば、あいつが自分で選んだ涙を選ぶしかない」
「わたしも、選べるの?」
「ああ。選べる」
「寿命のことも」
九郎助は少し黙った。
珠璃は鉄瓶の湯気を見た。
細く立つ白い筋が、そろそろ湯の頃合いだと教えている。
土瓶へ茶葉を入れ、湯をゆっくり移す。
茶の香がふわりと立った。
廓で客の相手を務めるために覚えた手つきだった。
けれど今は、誰かに命じられたからではない。
珠璃は薄く出した茶を、九郎助の前へ置いた。
「お前が俺の気を受ければ、寿命は変わる。尾も、いずれ増えるかもしれぬ。それは事実だ。だが、お前に急げとは言えない」
「……でも、九尾になりたいよね?」
「なりたくないと言えば嘘になる」
「では、わたしでなくても?」
九郎助は迷わなかった。
「もう番だ」
心臓が、一度強く打った。
「九尾のために必要なのではない。物の怪調伏には他にも手段がある」
「では、何のために」
九郎助は、そこで漸く珠璃を見た。
「俺が、お前の隣にいたい」
炉の炭が崩れた。
ぱち、と火の粉が小さく跳ねる。
珠璃は、自分の茶碗へ目を落とした。
湯気の向こうで、茶の色が深く沈んでいる。
「紅扇は、長く願っていた」
その言葉は、茶の苦みのように響いた。
「九郎助稲荷の銀杏の下で、幾度も幾度も同じ名を置いていった。珠璃が、値でなく情で結ばれるように。誰かに買われるのではなく、自分の心で誰かを選べるように」
息が詰まった。
紅扇姐さまは、そんなことは悟らせなかった。
厭味も言うし、突き放されることもあった。
それなのに、社の前では、珠璃について願って来たという。
「俺はそれを聞いていた。どんな娘か、自分の眼で見たくなった」
炉の火が小さく鳴る。
「それで……助けてくれたの」
「それだけではない」
九郎助は、少し言葉を選んだ。
「格子に囚われたお前を見た時、判った。紅扇が願ったのは、ただ命を逃がすことではない。お前が己自身の心で誰かを見ること、そのものだったのだと」
袖の内で、金の狐火が仄かに揺れている。
縄ではない。
ただ、そこにいる灯りのように。
「身体は奪える。名も縛れる。匂いも、契りも、妖の理も、人間の婚姻の仕組みも同じだ」
奪える力を持つ者の言葉だった。
けれど、金の眼には欲ではなく、戒めの色がある。
「だから俺は、奪わぬ。珠璃が自分から与えたいと思うまで、待つ。それに足る我が身でありたい」
「身は、後でよいのですか」
「お前が望むなら」
「望まなければ?」
「待つ」
「いつまで」
「お前が俺を信じられるまで」
信じられるまで。
それは一夜の約束ではない。
明日まででも、次の満月まででもない。
百年でも。
珠璃の一生でも。
幼い頃の約束を守り続けるように、この人は待つと言うのだろう。
ふいに、思ってしまった。
この人の腕の内へ、背中からすっぽり包まれてみたい。
縛られるのではなく、閉じ込められるのでもなく。
ただ、逃げなくてよい場所として。
「……背中」
「なんだ?」
言葉が喉でつかえた。
こんな願いを口にしてよいのか、まだ判らない。
「背中から、温めて」
言ってしまってから、炉の爆ぜる音がやけに耳についた。
ぱち、ぱち、と炭の内側で――珠璃のうちでも、何かがちりちり燃え立つ。
「待つと言われると、わたしの方から近付きたくなる……」
珠璃は返事を待つ間も怖く、目を伏せた。
「……よいのか」
低く問われて、珠璃は肯いた。
九郎助はすぐには動かなかった。
「嫌になったら、すぐ言え」
茶器を避け、炉端から少し離れたところへ腰を下ろし直す。
片膝を崩し、やがて胡坐をかいて、その内側を空けた。
珠璃は、おずおずと近付いた。
腰を下ろすと、九郎助の腕が背中から回る。
抱き締めるのではない。
閉じ込めるのでもない。
寒さが入り込まぬよう、両側からそっと囲うような腕だった。
長い尾も、包みたいとでもいうように、くるんと前へまわって来る。
背を向けて座るのは、いつも心許ない。
見えないところから触れられる。
けれど背後に在るのは、九郎助だ。
怖い筈なのに、逃げる場所を探さなくてよい。
硬い胸板が、背に触れている。
珠璃が思わず肩を預けると、九郎助の腕がそこで止まった。
抱き寄せることも、離すこともせず、ただ珠璃の答えを待っている。
「やめるか」
その一言に、却って息が詰まった。
やめると言えば、この人は本当にやめるのだろう。
廓で、そんなふうに訊かれたことはなかった。
嫌か。
怖いか。
やめるか。
そんな言葉は、珠璃のために用意されたものではなかった。
「……ううん」
自分の口から出た言葉に、珠璃の方が驚いた。
九郎助の腕が、ほんの少しだけ力を取り戻す。
閉じ込める強さではない。
逃げようと思えば逃げられる。
けれど離れれば、夜に呑まれてしまいそうな距離だった。
珠璃は、そっと息を吐いた。
その息が、九郎助の腕の中で温まる。
「……こういう触れ方も、あるのね」
「ああ」
「知らなかった」
「では、今から知ればよい」
さらりと言われて、胸の奥が詰まった。
今から。
まだ、取り返せるものがあるように。
知らなかったことを、汚れでも遅れでもなく、これから覚えるものとして扱われた。
珠璃は、背中をもう少しだけ預けた。
長い尾が、寒さを遮るように足元まで包む。
そこにある熱は、人の肌とは違う。
けれど、ひどく安心する。
「九郎助さま」
「何だ」
「今は、怖いものが一つ減った気がする」
背後で、九郎助が息を呑んだのが判った。
腕の力が、ほんの僅かに強くなる。
「そうか」
それきりだった。
けれど、その短さが却ってよかった。
草庵の外では、夜の虫が鳴いている。
知らない名の木々が揺れ、知らない土が冷えていく。
九郎助は眠らなかった。
妖狐は夜のものだと、葛葉が言っていた。
その横顔は闇に慣れていて、珠璃のみが眠りに引かれていく。
背にある温もりを確かめるうち、目蓋が重くなった。
男の腕の中で眠るなど、怖くない筈がなかった。
けれど、少しずつ身体から力が抜けていく。
小袖を握っていた指が解け、袖の奥の狐火が覗いた。
眠ってしまう。
そう思った時には、もう抗えなかった。
いつからそこにいたのか、九郎助が広縁に立っていた。
水浴びの後なのか、髪はまだ結ばれていない。
夜着の上に、珠璃へ貸したのとは別の羽織を掛けている。
「葛葉」
「ほれ、来た。面倒な兄さまじゃ」
「蔭口を言うからだ」
「蔭ではない。薄い障子一枚向こうじゃ」
葛葉は悪びれもせず、火箸を置いた。
「では、わしは部屋に戻る。兄さま、珠璃を怖がらせるでないぞ」
珠璃の横を通る時、小さな手が半肩を軽く叩く。
「怖いものが二つある時は、片方ずつ怖がればよい」
そう言って、葛葉は障子の向こうへ消えた。
残された炉辺に、九郎助が入って来る。
珠璃は火を見たまま、袖の奥の狐火を隠した。
「もしかして、聞いてた?」
「少し」
「……」
「悪かった」
九郎助は炉の向こうへ座った。
近すぎない。
けれど、遠すぎもしない。
その距離が、今夜は少し寂しかった。
「葛葉は、いつか旦那さまを見送るの?」
「ああ」
「それでも嫁ぐしかないの?」
「あいつが行くと言った」
火が、九郎助の横顔を照らした。
「止めても泣く。行かせても泣く。ならば、あいつが自分で選んだ涙を選ぶしかない」
「わたしも、選べるの?」
「ああ。選べる」
「寿命のことも」
九郎助は少し黙った。
珠璃は鉄瓶の湯気を見た。
細く立つ白い筋が、そろそろ湯の頃合いだと教えている。
土瓶へ茶葉を入れ、湯をゆっくり移す。
茶の香がふわりと立った。
廓で客の相手を務めるために覚えた手つきだった。
けれど今は、誰かに命じられたからではない。
珠璃は薄く出した茶を、九郎助の前へ置いた。
「お前が俺の気を受ければ、寿命は変わる。尾も、いずれ増えるかもしれぬ。それは事実だ。だが、お前に急げとは言えない」
「……でも、九尾になりたいよね?」
「なりたくないと言えば嘘になる」
「では、わたしでなくても?」
九郎助は迷わなかった。
「もう番だ」
心臓が、一度強く打った。
「九尾のために必要なのではない。物の怪調伏には他にも手段がある」
「では、何のために」
九郎助は、そこで漸く珠璃を見た。
「俺が、お前の隣にいたい」
炉の炭が崩れた。
ぱち、と火の粉が小さく跳ねる。
珠璃は、自分の茶碗へ目を落とした。
湯気の向こうで、茶の色が深く沈んでいる。
「紅扇は、長く願っていた」
その言葉は、茶の苦みのように響いた。
「九郎助稲荷の銀杏の下で、幾度も幾度も同じ名を置いていった。珠璃が、値でなく情で結ばれるように。誰かに買われるのではなく、自分の心で誰かを選べるように」
息が詰まった。
紅扇姐さまは、そんなことは悟らせなかった。
厭味も言うし、突き放されることもあった。
それなのに、社の前では、珠璃について願って来たという。
「俺はそれを聞いていた。どんな娘か、自分の眼で見たくなった」
炉の火が小さく鳴る。
「それで……助けてくれたの」
「それだけではない」
九郎助は、少し言葉を選んだ。
「格子に囚われたお前を見た時、判った。紅扇が願ったのは、ただ命を逃がすことではない。お前が己自身の心で誰かを見ること、そのものだったのだと」
袖の内で、金の狐火が仄かに揺れている。
縄ではない。
ただ、そこにいる灯りのように。
「身体は奪える。名も縛れる。匂いも、契りも、妖の理も、人間の婚姻の仕組みも同じだ」
奪える力を持つ者の言葉だった。
けれど、金の眼には欲ではなく、戒めの色がある。
「だから俺は、奪わぬ。珠璃が自分から与えたいと思うまで、待つ。それに足る我が身でありたい」
「身は、後でよいのですか」
「お前が望むなら」
「望まなければ?」
「待つ」
「いつまで」
「お前が俺を信じられるまで」
信じられるまで。
それは一夜の約束ではない。
明日まででも、次の満月まででもない。
百年でも。
珠璃の一生でも。
幼い頃の約束を守り続けるように、この人は待つと言うのだろう。
ふいに、思ってしまった。
この人の腕の内へ、背中からすっぽり包まれてみたい。
縛られるのではなく、閉じ込められるのでもなく。
ただ、逃げなくてよい場所として。
「……背中」
「なんだ?」
言葉が喉でつかえた。
こんな願いを口にしてよいのか、まだ判らない。
「背中から、温めて」
言ってしまってから、炉の爆ぜる音がやけに耳についた。
ぱち、ぱち、と炭の内側で――珠璃のうちでも、何かがちりちり燃え立つ。
「待つと言われると、わたしの方から近付きたくなる……」
珠璃は返事を待つ間も怖く、目を伏せた。
「……よいのか」
低く問われて、珠璃は肯いた。
九郎助はすぐには動かなかった。
「嫌になったら、すぐ言え」
茶器を避け、炉端から少し離れたところへ腰を下ろし直す。
片膝を崩し、やがて胡坐をかいて、その内側を空けた。
珠璃は、おずおずと近付いた。
腰を下ろすと、九郎助の腕が背中から回る。
抱き締めるのではない。
閉じ込めるのでもない。
寒さが入り込まぬよう、両側からそっと囲うような腕だった。
長い尾も、包みたいとでもいうように、くるんと前へまわって来る。
背を向けて座るのは、いつも心許ない。
見えないところから触れられる。
けれど背後に在るのは、九郎助だ。
怖い筈なのに、逃げる場所を探さなくてよい。
硬い胸板が、背に触れている。
珠璃が思わず肩を預けると、九郎助の腕がそこで止まった。
抱き寄せることも、離すこともせず、ただ珠璃の答えを待っている。
「やめるか」
その一言に、却って息が詰まった。
やめると言えば、この人は本当にやめるのだろう。
廓で、そんなふうに訊かれたことはなかった。
嫌か。
怖いか。
やめるか。
そんな言葉は、珠璃のために用意されたものではなかった。
「……ううん」
自分の口から出た言葉に、珠璃の方が驚いた。
九郎助の腕が、ほんの少しだけ力を取り戻す。
閉じ込める強さではない。
逃げようと思えば逃げられる。
けれど離れれば、夜に呑まれてしまいそうな距離だった。
珠璃は、そっと息を吐いた。
その息が、九郎助の腕の中で温まる。
「……こういう触れ方も、あるのね」
「ああ」
「知らなかった」
「では、今から知ればよい」
さらりと言われて、胸の奥が詰まった。
今から。
まだ、取り返せるものがあるように。
知らなかったことを、汚れでも遅れでもなく、これから覚えるものとして扱われた。
珠璃は、背中をもう少しだけ預けた。
長い尾が、寒さを遮るように足元まで包む。
そこにある熱は、人の肌とは違う。
けれど、ひどく安心する。
「九郎助さま」
「何だ」
「今は、怖いものが一つ減った気がする」
背後で、九郎助が息を呑んだのが判った。
腕の力が、ほんの僅かに強くなる。
「そうか」
それきりだった。
けれど、その短さが却ってよかった。
草庵の外では、夜の虫が鳴いている。
知らない名の木々が揺れ、知らない土が冷えていく。
九郎助は眠らなかった。
妖狐は夜のものだと、葛葉が言っていた。
その横顔は闇に慣れていて、珠璃のみが眠りに引かれていく。
背にある温もりを確かめるうち、目蓋が重くなった。
男の腕の中で眠るなど、怖くない筈がなかった。
けれど、少しずつ身体から力が抜けていく。
小袖を握っていた指が解け、袖の奥の狐火が覗いた。
眠ってしまう。
そう思った時には、もう抗えなかった。



