夜、野良仕事に疲れている筈なのに、珠璃は眠れなかった。
薄い掛け布団の下で、指先が落ち着かない。
袖の奥に隠した狐火の契りが、夜になると仄かに熱を持つ。
外では水音がしていた。
牡丹雪の降る真冬の夜に、九郎助と葛葉は裏庭の泉で身を清めているらしい。
先刻、葛葉が何でもないことのように言ったのだ。
兄さまは土の気を浴びすぎたゆえ、水で落とすのじゃ、と。
水で、落とす。
真冬に。
外の泉で。
人と妖は、本当に何もかも違う。
どこから驚けばよいのかも判らなかった。
まして妖の男の隣では、その残酷さがもっとはっきりするのだ。
珠璃のみが老いる。
珠璃のみが、あっという間に枯れる。
九郎助は変わらぬ顔で、百年後も柿の木に藁を巻くのかもしれない。
その隣に、珠璃は居ない。
居たとしても、今の、男という男に血湧き肉躍らせるような姿では居られない。
若い間には傍へ置く。
美しい娘だから眺める。
飽きれば返す。
返す場所がなくなっていれば、忘れる。
男とはそういうものだと、珠璃はそう学んできた。
なのに、妖の掟では、もう番の契りを結んでいると言われたのだ。
騙された、と言い切れたならよかった。
けれど、たぶん違う。
九郎助たちは、珠璃を欺こうとしたのではない。
ただ、妖同士では言わずとも通じることを、珠璃は知らなかったことからの行き違いだ。
ふいに広縁の辺りで、足音が止まった。
戻って来たのは、先に水浴びを終えた葛葉らしかった。
濡れた髪の匂いと、冬の水気が障子越しに近付いてくる。
その気配が一度通り過ぎかけ、止まった。
「何じゃ? 起きておったか」
珠璃は布団の下で固まった。
「……寝てる」
「起きておる者の返事じゃな」
障子の向こうで、葛葉がくつくつと笑った気配がした。
この里の者たちは、夜目も利く。気配にも敏い。
まして狐耳は、布団を被る音まで拾うらしい。誤魔化せる筈もなかった。
「出てこい」
「今……!?」
「今じゃ。布団の中で考えごとをすると碌な方へ転がらぬ。炉辺へ来い。温かい火を点けてやろう」
居間には、炉に火が熾っていた。
炭が赤く燃え、灰の底で息をしている。
鉄瓶から細い湯気が立ち、ぱち、と小さく火が鳴った。
葛葉は炉の向こうへ座り、火箸で炭を寄せる。
「そなた、眠れぬのか」
「……眠っていました」
「寝ておる者は、手首の狐火をあのように騒がせぬ」
珠璃は膝の上で、左手首を袖の中へ隠した。
「怖いのか」
いきなり問われ、答えを失った。
怖い。
けれど、その一言で済むものではなかった。
「……寿命のこと、なら」
「寿命?」
葛葉は首を傾げた。
「ああ、人間は短いからのう」
余りにあっさり言われて、珠璃は長く抱えたものを、いきなり掴まれた気がした。
「そんな風に、簡単に……」
「簡単ではない。じゃが、事実じゃ。春の花と秋の虫、どちらが偉いという話でもあるまい。ただ、持つ時が違う」
「わたしは花でも虫でもない……」
「判っておる。兄さまの番じゃ」
妖にとって、人間の番とは、どう見えるのだろう。
昼の柿の木が思い起こされた。
百年前の約束を、まだ百年だと言った金狐。
人間の一生を越える時の中で、変わらず木に藁を巻く男。
「わたしが先に老いたら、どうなるの……」
言ってしまった。
口にすると、思っていたより本当に惨めだ。
若さに値を付けられる軛から逃げて来たのに、また同じことを恐れている。
九郎助の隣に立つ自分の顔が、年々変わっていくところを想像してしまう。
髪も、肌も、目元も。
男の目が若い娘へ移ることを、朱籬廓で嫌というほど見て来た。
「そなたは、兄さまが老いたそなたを捨てると思うておるのか」
「男は、若い女が好きだから」
「人間の男は知らぬ。兄さまは、木を司る狐じゃぞ」
葛葉は炉の火を見た。
「芽のみを愛でるに非ず。花も、実も、幹も、根も見る。丸ごと愛でるのじゃ。枯れた枝も、すぐには捨てぬ。なぜ枯れたかを見、残すべきか、払うべきか、次の芽へどう渡すかを考える」
珠璃は何も言い返せなかった。
昼の柿の木が蘇る。
百年前の約束を、まだ百年だと言った金狐。
春も夏も秋も冬も、一つの木として見ている男。
そういう目で、人を見ることもあるのだろうか。
「それに、寿命のことを案じるなら、兄さまに訊けばよい」
「訊けるようなことでは……」
「訊け。訊かぬまま怖がるから、狐火がちりちり騒ぐのじゃ」
葛葉は小さな指で、珠璃の袖口を示した。
「兄さまの気を受ければ、そなたの身も少しずつ妖へ寄る。病にも冷えにも強くなる。時の流れも、いくらか緩む」
「それは、九郎助さまが決めることになるの……?」
「ん?」
「気を与えるかどうかを。若い間は与えて、気に入らなくなれば止めることも……」
葛葉の目が丸くなった。
「そなた、兄さまを何だと思っておるのじゃ」
「……妖狐かと」
「律儀すぎて面倒な妖狐じゃ。己の番に気を惜しむくらいなら、あの兄さまは先に自分の尾を噛む」
尾を噛む。
また、独特な表現だった。
「番に気を通すとは、相手に自分を与えることに近い。奪うことではない。預け合うことじゃ」
「預け合う……」
「うむ。いきなり深く交わるばかりではない。手首の狐火に息を通す。掌を重ねる。木の気を共に浴びる。そうして少しずつ、そなたの身が兄さまの気を怖がらなくなる」
珠璃は左手首に触れた。
狐火はまだ熱い。
けれど、先ほどより荒れてはいなかった。
「まだ、そういう話は……」
「まだ、のう」
葛葉は、にやりと笑った。
「兄さまと同じことを言うようになった」
「同じこと?」
「そなたも兄さまも、まだ、まだ、と門の前で足踏みしておる。ならばそれでよい。門前でも、手を取り合うことはできる」
珠璃は返事ができなかった。
炉の火だけが、ぱち、と小さく応じる。
「さあ、火に当たったなら戻るがよい。人間の身には、冬の夜は冷える」
「はい」
「今夜のことは黙っておいてやる。門前嫁は眠るがよい」
「門前嫁、だなんて」
「では、狐火つきの仮嫁じゃ」
葛葉は得意げに言って、火箸で炉の炭を寄せた。
「そなたはよいのう。兄さまと契りを深めれば、寿命は妖狐に寄る。兄さまも尾を増やす。めでたいこと尽くしじゃ」
ぱちり、と火の粉が散った。
めでたいこと尽くし。
そう言いながら、葛葉は火箸の先を炉の中へ置いたまま、暫し動かさなかった。
いつものように物知り気で、得意げな横顔である。
けれど、その得意さの端が、炉の赤に触れて僅かに剥がれたように見えた。
「葛葉は……人間へ嫁ぐのでしょう」
「うむ」
「お相手の旦那さまの寿命は、延びないのですか」
「延びぬ」
考える間もない答えだった。
「なら、相手の方が先に……」
「そうじゃな」
珠璃は言葉を失った。
自分は、先に老いることばかり怖がっていた。
九郎助だけが変わらぬまま、珠璃の顔や髪が先に年を取ることを。
けれど、葛葉は逆なのだ。
置いていかれるのではない。
見送るのだ。
嫁いだ先で、人間の夫が老いていく。
病み、衰え、土へ返るその日まで傍にいる。
その後も、葛葉だけはこの幼い姿のまま、長く生きる。
「怖くないの?」
「怖いに決まっておろう」
葛葉は笑った。
笑ったのに、その笑みは炉の火よりも淡かった。
「じゃが、それを兄さまに言えば面倒なのじゃ。ならば婚姻をやめよ、と言うに決まっておる。里のためにも、人間の世との結びのためにも、必要なことじゃと判っておるくせにのう」
「九郎助さまは、お優しいと思う……」
「うむ。兄さまは律儀で、頑固で、つまらぬほど優しい。そなたのことも、わしのことも、守るとなれば自分を後にする」
薄い掛け布団の下で、指先が落ち着かない。
袖の奥に隠した狐火の契りが、夜になると仄かに熱を持つ。
外では水音がしていた。
牡丹雪の降る真冬の夜に、九郎助と葛葉は裏庭の泉で身を清めているらしい。
先刻、葛葉が何でもないことのように言ったのだ。
兄さまは土の気を浴びすぎたゆえ、水で落とすのじゃ、と。
水で、落とす。
真冬に。
外の泉で。
人と妖は、本当に何もかも違う。
どこから驚けばよいのかも判らなかった。
まして妖の男の隣では、その残酷さがもっとはっきりするのだ。
珠璃のみが老いる。
珠璃のみが、あっという間に枯れる。
九郎助は変わらぬ顔で、百年後も柿の木に藁を巻くのかもしれない。
その隣に、珠璃は居ない。
居たとしても、今の、男という男に血湧き肉躍らせるような姿では居られない。
若い間には傍へ置く。
美しい娘だから眺める。
飽きれば返す。
返す場所がなくなっていれば、忘れる。
男とはそういうものだと、珠璃はそう学んできた。
なのに、妖の掟では、もう番の契りを結んでいると言われたのだ。
騙された、と言い切れたならよかった。
けれど、たぶん違う。
九郎助たちは、珠璃を欺こうとしたのではない。
ただ、妖同士では言わずとも通じることを、珠璃は知らなかったことからの行き違いだ。
ふいに広縁の辺りで、足音が止まった。
戻って来たのは、先に水浴びを終えた葛葉らしかった。
濡れた髪の匂いと、冬の水気が障子越しに近付いてくる。
その気配が一度通り過ぎかけ、止まった。
「何じゃ? 起きておったか」
珠璃は布団の下で固まった。
「……寝てる」
「起きておる者の返事じゃな」
障子の向こうで、葛葉がくつくつと笑った気配がした。
この里の者たちは、夜目も利く。気配にも敏い。
まして狐耳は、布団を被る音まで拾うらしい。誤魔化せる筈もなかった。
「出てこい」
「今……!?」
「今じゃ。布団の中で考えごとをすると碌な方へ転がらぬ。炉辺へ来い。温かい火を点けてやろう」
居間には、炉に火が熾っていた。
炭が赤く燃え、灰の底で息をしている。
鉄瓶から細い湯気が立ち、ぱち、と小さく火が鳴った。
葛葉は炉の向こうへ座り、火箸で炭を寄せる。
「そなた、眠れぬのか」
「……眠っていました」
「寝ておる者は、手首の狐火をあのように騒がせぬ」
珠璃は膝の上で、左手首を袖の中へ隠した。
「怖いのか」
いきなり問われ、答えを失った。
怖い。
けれど、その一言で済むものではなかった。
「……寿命のこと、なら」
「寿命?」
葛葉は首を傾げた。
「ああ、人間は短いからのう」
余りにあっさり言われて、珠璃は長く抱えたものを、いきなり掴まれた気がした。
「そんな風に、簡単に……」
「簡単ではない。じゃが、事実じゃ。春の花と秋の虫、どちらが偉いという話でもあるまい。ただ、持つ時が違う」
「わたしは花でも虫でもない……」
「判っておる。兄さまの番じゃ」
妖にとって、人間の番とは、どう見えるのだろう。
昼の柿の木が思い起こされた。
百年前の約束を、まだ百年だと言った金狐。
人間の一生を越える時の中で、変わらず木に藁を巻く男。
「わたしが先に老いたら、どうなるの……」
言ってしまった。
口にすると、思っていたより本当に惨めだ。
若さに値を付けられる軛から逃げて来たのに、また同じことを恐れている。
九郎助の隣に立つ自分の顔が、年々変わっていくところを想像してしまう。
髪も、肌も、目元も。
男の目が若い娘へ移ることを、朱籬廓で嫌というほど見て来た。
「そなたは、兄さまが老いたそなたを捨てると思うておるのか」
「男は、若い女が好きだから」
「人間の男は知らぬ。兄さまは、木を司る狐じゃぞ」
葛葉は炉の火を見た。
「芽のみを愛でるに非ず。花も、実も、幹も、根も見る。丸ごと愛でるのじゃ。枯れた枝も、すぐには捨てぬ。なぜ枯れたかを見、残すべきか、払うべきか、次の芽へどう渡すかを考える」
珠璃は何も言い返せなかった。
昼の柿の木が蘇る。
百年前の約束を、まだ百年だと言った金狐。
春も夏も秋も冬も、一つの木として見ている男。
そういう目で、人を見ることもあるのだろうか。
「それに、寿命のことを案じるなら、兄さまに訊けばよい」
「訊けるようなことでは……」
「訊け。訊かぬまま怖がるから、狐火がちりちり騒ぐのじゃ」
葛葉は小さな指で、珠璃の袖口を示した。
「兄さまの気を受ければ、そなたの身も少しずつ妖へ寄る。病にも冷えにも強くなる。時の流れも、いくらか緩む」
「それは、九郎助さまが決めることになるの……?」
「ん?」
「気を与えるかどうかを。若い間は与えて、気に入らなくなれば止めることも……」
葛葉の目が丸くなった。
「そなた、兄さまを何だと思っておるのじゃ」
「……妖狐かと」
「律儀すぎて面倒な妖狐じゃ。己の番に気を惜しむくらいなら、あの兄さまは先に自分の尾を噛む」
尾を噛む。
また、独特な表現だった。
「番に気を通すとは、相手に自分を与えることに近い。奪うことではない。預け合うことじゃ」
「預け合う……」
「うむ。いきなり深く交わるばかりではない。手首の狐火に息を通す。掌を重ねる。木の気を共に浴びる。そうして少しずつ、そなたの身が兄さまの気を怖がらなくなる」
珠璃は左手首に触れた。
狐火はまだ熱い。
けれど、先ほどより荒れてはいなかった。
「まだ、そういう話は……」
「まだ、のう」
葛葉は、にやりと笑った。
「兄さまと同じことを言うようになった」
「同じこと?」
「そなたも兄さまも、まだ、まだ、と門の前で足踏みしておる。ならばそれでよい。門前でも、手を取り合うことはできる」
珠璃は返事ができなかった。
炉の火だけが、ぱち、と小さく応じる。
「さあ、火に当たったなら戻るがよい。人間の身には、冬の夜は冷える」
「はい」
「今夜のことは黙っておいてやる。門前嫁は眠るがよい」
「門前嫁、だなんて」
「では、狐火つきの仮嫁じゃ」
葛葉は得意げに言って、火箸で炉の炭を寄せた。
「そなたはよいのう。兄さまと契りを深めれば、寿命は妖狐に寄る。兄さまも尾を増やす。めでたいこと尽くしじゃ」
ぱちり、と火の粉が散った。
めでたいこと尽くし。
そう言いながら、葛葉は火箸の先を炉の中へ置いたまま、暫し動かさなかった。
いつものように物知り気で、得意げな横顔である。
けれど、その得意さの端が、炉の赤に触れて僅かに剥がれたように見えた。
「葛葉は……人間へ嫁ぐのでしょう」
「うむ」
「お相手の旦那さまの寿命は、延びないのですか」
「延びぬ」
考える間もない答えだった。
「なら、相手の方が先に……」
「そうじゃな」
珠璃は言葉を失った。
自分は、先に老いることばかり怖がっていた。
九郎助だけが変わらぬまま、珠璃の顔や髪が先に年を取ることを。
けれど、葛葉は逆なのだ。
置いていかれるのではない。
見送るのだ。
嫁いだ先で、人間の夫が老いていく。
病み、衰え、土へ返るその日まで傍にいる。
その後も、葛葉だけはこの幼い姿のまま、長く生きる。
「怖くないの?」
「怖いに決まっておろう」
葛葉は笑った。
笑ったのに、その笑みは炉の火よりも淡かった。
「じゃが、それを兄さまに言えば面倒なのじゃ。ならば婚姻をやめよ、と言うに決まっておる。里のためにも、人間の世との結びのためにも、必要なことじゃと判っておるくせにのう」
「九郎助さまは、お優しいと思う……」
「うむ。兄さまは律儀で、頑固で、つまらぬほど優しい。そなたのことも、わしのことも、守るとなれば自分を後にする」



