朱籬姫の嫁入り 〜売られた花魁は、大妖狐の番として囲われる〜

 その日、珠璃(しゅり)は畑の端で立ち尽くしていた。

 黒い土に、(うね)が並んでいる。
 枯れた草の切れ端が処々(ところどころ)に刺さり、花もなく、実もなく、何が眠っているのかも判らない。

 妖狐の里の者たちは、眠たげに目を細めながらも、朝からせっせと働いていた。

 土を返す者、堆肥(たいひ)を運ぶ者、霜除けの覆いを掛ける者。
 普段は草庵周りの雑事をこなす団吾(だんご)さえ、今日は陽の下へ借り出されている。

 狐は本来、夜のものだと聞く。
 それでも一声掛かれば、皆こうして互いの畑を手伝うものらしい。

 珠璃(しゅり)には、何をどう手伝えばよいのか皆目(かいもく)判らなかった。

「そこの(わら)は柿ではなく梅へ回すのじゃ。柿は(あに)さまが見るゆえ、手を出すでないぞ」

 袖をたすき掛けにした葛葉(くずは)が、(かご)いっぱいの種袋を抱えたまま言った。
 幼い外見に如何(いか)にも偉そうな態度だが、誰も笑わない。
 みな、はいはいと返事をして、当たり前のように動いている。

「冬なのに、畑の世話をするの」

 思わず口にすると、葛葉(くずは)がこちらを見た。

「冬だからじゃ。眠っておるものほど、世話を誤れば春に起きぬ」

 そう言われても、珠璃(しゅり)には畑が眠っているようには見えなかった。
 ただ黒く、冷たく、飾り気のない土があるばかりだ。

 朱籬廓(しゅりかく)で覚えたことならある。
 書道、華道、茶道、琴に三味線。
 男相手の囲碁、将棋。狐拳や花札の勝ち筋。
 髪の飾り方、袖の落とし方、目許(めもと)の使い方。

 だが、この里の畑で役に立つものは一つもない。

「……わたし、邪魔では」
「邪魔なら退かす。立っておるなら使う」

 葛葉(くずは)は、あっさり言った。
 それから畑の奥にいる九郎助(くろすけ)へ顔を向ける。

(あに)さま」

 呼ばれて、九郎助(くろすけ)がこちらへ来た。
 冬の陽の下では、金の尾もどこか重そうに見える。
 けれど歩みは少しも乱れない。

珠璃(しゅり)に木の衣を見せるのじゃ」
「木の衣?」
「この娘は畑を知らぬ。だが衣なら判る。ならば(わら)巻きは衣で教えればよい」

 九郎助(くろすけ)は少し考え、成程(なるほど)(うなず)いた。

 珠璃(しゅり)は、柿の木の前へ誘われる。

 葉は一枚もない。
 枝は黒く、冬空へ細い筋を引いている。
 美しいかと問われれば、よく判らない。
 花も実もない木を褒める言葉を、珠璃(しゅり)は持ち合わせていなかった。

「……寒そう」

 やっと出たのは、それきりだった。

 九郎助(くろすけ)は、むしろ真剣な顔になる。

「だから着せるのだ」

 そう言って、(わら)の束を持ち上げた。

「冬の木は裸に見えるが、死んでいるのとは違う。根は土の中で息をしている。枝の先では春の支度をしている。だが霜にやられることもある。幹を冷やしすぎることもある。そのため(わら)を巻く」
「人に綿入れを着せるようなもの?」
「近い」
「それなら判る」

 珠璃(しゅり)漸く(ようやく)息をついた。

 九郎助(くろすけ)(わら)を幹へ当てる。

「巻いてみるか」
「わたしが?」
「お前のほうが衣は判るのだろう」

 そう言われると、断る理由がなくなった。

 珠璃(しゅり)は素直に(わら)を受け取った。
 ざらざらした束が、指に引っかかる。
 綺麗なものではない。
 けれど重ねて持つと、不思議に頼もしい厚みがあった。
 確かに、温かな空気を抱え込むものなのだろう。

「どこから巻けば……」
「下から。腹を冷やさぬように」
「木にも腹が?」
「あると思って扱えばよい」

 思って扱う。

 帯も衣も、締めすぎれば苦しく、(ゆる)ければ乱れる。
 けれど木は、苦しいとも乱れるとも言わない。

「思って、と」
「最初はそれでよい」

 珠璃(しゅり)は幹へ手を添えた。
 木の肌は冷たい。
 (わら)を、帯を胴へ回すようにして当てる。

「締めすぎ?」
「少し」
「木が言ったの?」
「俺が見た」

 そう言って、九郎助(くろすけ)が一歩近付いた。

 珠璃(しゅり)の肩越しに手を伸ばし、幹へ(てのひら)を添える。
 (てのひら)(てのひら)が隣り合い、(わず)かに触れた。

 前には柿の木。
 背には九郎助(くろすけ)の気配。

 借り物の小袖は丈が足りず、珠璃(しゅり)が幹へ身を寄せた拍子に裾がつれた。
 冬気が、ひやりと白い太腿(ふともも)の内へ触れる。

 しまったと思うより早く、背後の気配が止まった。

 (あら)わになった脚先へ、ふわりと狐の尾が寄る。
 金を溶かしたような毛並みが(かす)め、そこでぴたりと固まった。

「……動くな」
「わたし?」
「尾が驚く」

 そんなことを言われても、困る。
 珠璃(しゅり)の方こそ、背中の近さと(てのひら)の熱に驚いているのだ。

 九郎助(くろすけ)は木を見ている。
 それは判る。
 判るのに、耳の(そば)を過ぎる息の温かさに、指が(わら)を握ったまま止まる。

「……ずるい」
「何がだ」
「わたしには、見えないのに」
「そのうち見える」
「どうすれば」
「俺の気を、お前の身が受けるようになればな」

 受ける。

 木の話の(はず)だった。
 それなのに、その言い方は肌の奥へ落ちた。

 珠璃(しゅり)は返事を探せず、斜め上へ視線を逃がす。
 すぐ傍の九郎助(くろすけ)の眼は、不思議な色をしていた。
 いつもの金に浮かぶ瞳孔が冬の枝より細くなり、木の内を流れるものを追っているように揺れている。

 幹に添えた珠璃(しゅり)の手の近くで、九郎助(くろすけ)の手に熱が籠った気がした。

 慌てて力を抜くと、今度は(わら)が頼りなく浮いてしまう。

「……この木は、大切な木なの?」

 何気なく聞いた心算(つもり)だった。
 九郎助(くろすけ)も、何気ない調子で答えた。

「ああ。百年前に人間(ひと)の子から頼まれた」

 百年前。

 珠璃(しゅり)の手から(わら)が滑りかけた。

「百年前……」
「そうだ」

 九郎助(くろすけ)の顔に、特別な気負いはない。
 昨日の夕餉の話でもするようだった。

「この里に迷い込んだ子がいた。病がちで長く歩けぬ子だったが、よくここまで来た」
「その子が、この木を?」
「ああ。秋に柿を食わせたら、旨いと言ってくれてな。……それから毎年、境の石まで来るようになった」

 懐かしむような目だった。
 けれどその底には、もう手の届かぬものを見送った者の(かげ)りも混じっている。

「十年ほど続いた。最後の年は、もう自分では歩けなかったらしい。兄に背負われて来た」
「十年……」

 苦界十年という言葉が、ふと胸へ浮かんだ。

 朱籬廓(しゅりかく)での十年は長い。
 娘が娘でなくなり、値が変わり、客の目が変わるには十分過ぎる時間だ。
 けれど九郎助(くろすけ)にとっては、百年前の、十年間なのだ。

「その子が言った。自分はもう来られないが、この木が実るなら、来年も秋が来る気がすると」
「それで、守っているの?」
「頼まれたからな」
「百年も?」
「まだ百年だ」

 まだ。

 人間(ひと)なら、寿命が尽きるのに十分な時間だ。
 子どもだった者は老い、老いた者は土へ返り、その名を呼ぶ者も減っていく。

 けれど九郎助(くろすけ)は変わらず、この柿の木に(わら)を巻く。

 であれば、珠璃(しゅり)は――。

 この人の傍にいても、先に老いるのは自分ではないか。

 朱籬廓(しゅりかく)で一等怖れられていたものが、違う形で顔を出した。
 若さが過ぎること。
 見られなくなること。
 選ばれなくなること。

 衣をどれほど整えても、男の目が若い娘へ移ること。

 九郎助(くろすけ)も、いつかそうなるのだろうか。
 もしも、九郎助(くろすけ)とずっと共にあることを選ぶのであれば。

 百年後も、この人は今のままなのだろう。
 珠璃(しゅり)のみが変わる。
 肌も髪も、目も声も、今のままではいられなくなる。

珠璃(しゅり)

 呼ばれて、珠璃(しゅり)(わら)を握ったまま顔を上げた。

「手が止まっている」
「あ……」

 足元へ落ちかけた(わら)を拾い直す。

「済みません」
「謝らずともよい」
「でも」
「考えごとをする時は、手が止まるものだ」

 見抜かれている。

 問いかけたいことはあった。
 百年は長くないのか。
 人間(ひと)が老いるのは、あなたにとってどう見えるのか。
 若くなくなった女も、この柿の木のように守る価値があるのか。

 けれど、どれも口にすると(みじ)めだった。

 心変わりを責めたとて、心が戻ることはない。

 (つま)()いの夜を重ね、やがて通って来なくなった男を、それでも待ち続けた女なら、みな知っている道理だ。
 足音を待ち、几帳(きちょう)の陰で夜を数え、恨み、泣き、なお待つ。
 そうした女たちが、千年も前から骨身に刻んできた道理だった。

「この木を頼んだ子は、もう居ない」

 九郎助(くろすけ)は柿の幹へ目を戻した。

「だが、あの子の秋はここに残っている。短いものは、消えるのが早いのではない。残し方が違うのだ」

 すぐには信じられなかった。
 信じられないまま、聞いていた。

「お前が今日、この木に(わら)を巻いたことも残る。春に芽が出る時、夏に葉が茂る時、秋に実がつく時、この木は今日の冬を使う」
「わたしが巻いたものでも?」
「そうだ」
「下手なのに」
「下手なら、俺が直す」

 その余りに平然とした答えに、珠璃(しゅり)は今度こそ少し笑った。

「それでは、わたしがしたことにならない」
「なる。直されながら覚えたことも、その者の手柄だ」

 横合いから、満足そうな息が聞こえた。

 様子を見に来た葛葉(くずは)が、どうやら今のやり取りを聞き(かじ)っていたらしい。
 小さな姫は腕を組み、うんうんと(うなず)いている。

「そうじゃ。(あに)さまは良いことを申した。さすが(つがい)じゃ」

 (わら)を結ぶ珠璃(しゅり)の指が、ぴたりと止まった。

 (つがい)

 聞き間違いではない。
 男女、夫婦よりももっと獣めいた、逃げ場のない結びつきの名だった。

「……つがい?」

 思わず聞き返すと、葛葉(くずは)はきょとんとした。

「そうじゃ。(ちぎ)りを結んだろう」