朱籬姫の嫁入り 〜売られた花魁は、大妖狐の番として囲われる〜

 九郎助(くろすけ)の金の眼が、見開かれていた。

 驚き。
 (おそ)れ。
 それから、もっと熱いもの。

 守るべき娘だと思っていた。
 (くるわ)から連れ出し、物の()から隠し、里の影に置いておくべき娘だと。

 だが、紅い傘を手に夜の水際へ立つ珠璃(しゅり)は、誰かの背に庇われるだけの娘ではなかった。

 廓で売られるために仕込まれた舞。
 男の目を引くために磨かされた指先。
 値を上げるために整えられた身の運び。

 そのすべてを、今、里を守るために使っている。

 珠璃(しゅり)が傘を返すたび、紅い(けが)れが夜にほどけた。
 小袖の裾が揺れる。
 白い足首が月明かりを拾う。

 美しい。

 そう思った自分を、九郎助(くろすけ)は自ら戒める。

 値踏みするな。
 奪うな。
 これは、見世の灯りの下に置かれた花ではない。

 自ら夜へ踏み出し、(けが)れを引き受け、こちらへ火を求めている娘だ。

 珠璃(しゅり)は、その顔を見た。
 なぜか、今なら頼んでよいと思った。

九郎助(くろすけ)さま」

 九郎助(くろすけ)の耳がぴんと立つ。

「火を、ください」

 火を渡す。
 妖狐にとって、それはただ力を貸すことではない。
 自分の内側を、相手の手へ預けることだ。

 それでも九郎助(くろすけ)躊躇(ためら)わなかった。

「受け取れ、珠璃(しゅり)

 金の狐火が指先へ集まる。
 獣の息のように揺れた火は、一筋の金となり、珠璃(しゅり)の紅い傘へ伸びた。

 傘の骨へ、火が宿る。

 骨の一本一本が淡く光り、紅い(けが)れがその光へ吸い寄せられていく。
 珠璃(しゅり)が傘を返すたび、金の火もまた彼女の動きに従った。

 それは九郎助(くろすけ)の狐火でありながら、もう珠璃(しゅり)の舞の一部だった。

「狐火を、舞わせておる」

 (あぜ)の外で、誰かが(ひざ)をついた。

九郎助(くろすけ)さまの、()連れさまじゃ……」

 その一語が、夜の里へ波紋のように広がっていく。

 一人、また一人と(こうべ)を垂れた。
 九郎助(くろすけ)の金の狐火を預かり、(けが)れを(はら)った人間(ひと)の娘。
 その娘を見つけ、背に庇い、火を与えた金狐。

 二人の間に結ばれたものを、誰もまだ名付けられなかった。

 珠璃(しゅり)の耳に、そうした(ざわ)めきはどこか遠かった。

 今あるのは、傘の重み。
 柄を握る(てのひら)の痛み。
 それから、暫く(しばらく)忘れていた、舞う心地のよさだった。

 珠璃(しゅり)は傘を返し、赤い(けが)れを一つ、また一つと金の狐火へ渡していく。

 紅は傘の縁を伝い、骨に宿った火へ触れ、薄金に変わって空へ(ほど)ける。

 最後の一つが消えた。

 珠璃(しゅり)は傘を閉じる。

 ばさ、と紅い傘が細くなった。

 夜の水際に、珠璃(しゅり)だけが立っている。
 肩で息をし、乱れた小袖の裾を押さえることも忘れ、ただ傘の柄を握っていた。

 九郎助(くろすけ)は、すぐには動けなかった。

 守りたいと思った。
 それは前からだ。

 だが今は、それだけではなかった。
 この娘の隣に立ちたい。
 この娘が怖いものへ向かうなら、背ではなく、横にいたい。

 その思いが、九郎助(くろすけ)の中で金の火のように膨れ上がる。

「なんという……」

 言いかけて、九郎助(くろすけ)は言葉を失った。

 美しい、と言えば足りない。
 強い、と言っても足りない。
 憐れむなど、もうできる(はず)がない。

 珠璃(しゅり)は、己の傷を抱えたまま光を通す娘だった。

「なんという娘を、九郎助は見つけたのじゃ」

 (あぜ)の外には、いつの間にか野狐(やこ)たちも伏せていた。

 だが、後を引き取るように言葉を発したのは、その更に奥、長老の黒狐だった。