「珠璃も団吾も、行くぞ」
葛葉が言うなり立ち上がった。
団吾は蓋を盾のように構える。
「姫さま、わしもでございますか」
「結界がない。離れた者から喰われる」
葛葉の白い尾が、畳の上で大きく膨らんだ。
団吾が転がるように駆け、土間の壁際から紅い大傘を引っ張り出す。
珠璃も立ち上がった。
ここに独り残されることは怖い。
「皆、兄様の後ろじゃ。離れるでない」
「葛葉」
九郎助が振り返る。
「判っておる。珠璃は兄様の影の中。団吾はその後ろじゃ」
九郎助は一瞬、珠璃を見た。
金の眼が、叱る色と案じる色の間で揺れる。
来るなと言いたいのだろう。
けれど、来させねば危ういとも判っている。
「俺の影から出るな」
短い命令だった。
珠璃は答える代わりに、九郎助の背へしがみ付くように近寄った。
袖の先が彼の衣へ触れたが、九郎助は何も言わなかった。
草庵の外へ出ると、夜の里は底冷えしていた。
葦原は黒く沈み、田の畦のみが僅かな月明かりを受けて白い。
朝には見えていた人道も、今は夜霧に呑まれている。
その霧が妙だった。
白いばかりではない。
薄墨に紅を垂らしたような色が、水路の上でたゆたっている。
近付くにつれ、水面からふわりと浮かび上がるものに気付いた。
灰に似て、花びらに似て、燃え損ねた紙片にも似ている。
形はない。
けれど、九郎助の狐火の金に照らされるたび、端から赤く染まった。
一つ。
二つ。
数えようとする間にも、水路の奥から次々に浮かび上がる。
それらは畦を越え、葦の茎の上を滑り、里の灯りへ寄っていった。
家の外へ出て来た子狐の鼻先へ触れようとしたものを、九郎助の金の火が弾く。
ぱち、と火が鳴った。
弾かれた穢れは消えない。
細かな綿となって散り、また膨らみ、里の内側へ入り込もうとする。
「焼けぬ」
九郎助は、狐火から目を離さず短く断じた。
「焼けば増える」
葛葉の尾が大きく膨らんでいる。
いつもの高慢な顔ではない。
幼い目蓋が顫え、唇から色が失せていた。
「まだ物の怪ではないな。……形になる前の穢れじゃ。焼けば、切れ端ごと里へ散る」
葛葉が、青ざめた唇で言葉を継いだ。
「散った先で、子狐に憑く。井戸に落ちる。飯へ混じる。……夜明けまでに、里中の腹が穢されるぞ」
「封じる」
「五行が揃わぬ! おのれ、物の怪め」
里の者たちが、畦の外で身を寄せ合っていた。
小鬼。鱗の女。狐耳の子ら。
誰もが火を持っているのに、その火を向けられない。
紅いものは、ふわりふわりと近付いてくる。
穢れと呼ばれているのに、荒々しくはない。
ただ、寒い夜に灯へ寄る羽虫のように、温かいものを探している。
その一つが、九郎助の脇を抜けた。
そのまま珠璃の方へ流れてくる。
「下がれ」
九郎助が腕を伸ばしたが、間に合わない。
紅く流れる魂のようなものが、珠璃の手の甲へ触れた。
熱い。
けれど火傷ではない。
肌ではなく、もっと奥へ入ってくる。
髪に染みついた伽羅の匂い。
客の酒息。
泣き損ねた夜の汗。
何度洗っても覚えている匂いが、掌の下から蘇る。
「こいつら……! 珠璃にばかり」
葛葉の白い尾が、吃と逆立った。
葛葉が言うなり立ち上がった。
団吾は蓋を盾のように構える。
「姫さま、わしもでございますか」
「結界がない。離れた者から喰われる」
葛葉の白い尾が、畳の上で大きく膨らんだ。
団吾が転がるように駆け、土間の壁際から紅い大傘を引っ張り出す。
珠璃も立ち上がった。
ここに独り残されることは怖い。
「皆、兄様の後ろじゃ。離れるでない」
「葛葉」
九郎助が振り返る。
「判っておる。珠璃は兄様の影の中。団吾はその後ろじゃ」
九郎助は一瞬、珠璃を見た。
金の眼が、叱る色と案じる色の間で揺れる。
来るなと言いたいのだろう。
けれど、来させねば危ういとも判っている。
「俺の影から出るな」
短い命令だった。
珠璃は答える代わりに、九郎助の背へしがみ付くように近寄った。
袖の先が彼の衣へ触れたが、九郎助は何も言わなかった。
草庵の外へ出ると、夜の里は底冷えしていた。
葦原は黒く沈み、田の畦のみが僅かな月明かりを受けて白い。
朝には見えていた人道も、今は夜霧に呑まれている。
その霧が妙だった。
白いばかりではない。
薄墨に紅を垂らしたような色が、水路の上でたゆたっている。
近付くにつれ、水面からふわりと浮かび上がるものに気付いた。
灰に似て、花びらに似て、燃え損ねた紙片にも似ている。
形はない。
けれど、九郎助の狐火の金に照らされるたび、端から赤く染まった。
一つ。
二つ。
数えようとする間にも、水路の奥から次々に浮かび上がる。
それらは畦を越え、葦の茎の上を滑り、里の灯りへ寄っていった。
家の外へ出て来た子狐の鼻先へ触れようとしたものを、九郎助の金の火が弾く。
ぱち、と火が鳴った。
弾かれた穢れは消えない。
細かな綿となって散り、また膨らみ、里の内側へ入り込もうとする。
「焼けぬ」
九郎助は、狐火から目を離さず短く断じた。
「焼けば増える」
葛葉の尾が大きく膨らんでいる。
いつもの高慢な顔ではない。
幼い目蓋が顫え、唇から色が失せていた。
「まだ物の怪ではないな。……形になる前の穢れじゃ。焼けば、切れ端ごと里へ散る」
葛葉が、青ざめた唇で言葉を継いだ。
「散った先で、子狐に憑く。井戸に落ちる。飯へ混じる。……夜明けまでに、里中の腹が穢されるぞ」
「封じる」
「五行が揃わぬ! おのれ、物の怪め」
里の者たちが、畦の外で身を寄せ合っていた。
小鬼。鱗の女。狐耳の子ら。
誰もが火を持っているのに、その火を向けられない。
紅いものは、ふわりふわりと近付いてくる。
穢れと呼ばれているのに、荒々しくはない。
ただ、寒い夜に灯へ寄る羽虫のように、温かいものを探している。
その一つが、九郎助の脇を抜けた。
そのまま珠璃の方へ流れてくる。
「下がれ」
九郎助が腕を伸ばしたが、間に合わない。
紅く流れる魂のようなものが、珠璃の手の甲へ触れた。
熱い。
けれど火傷ではない。
肌ではなく、もっと奥へ入ってくる。
髪に染みついた伽羅の匂い。
客の酒息。
泣き損ねた夜の汗。
何度洗っても覚えている匂いが、掌の下から蘇る。
「こいつら……! 珠璃にばかり」
葛葉の白い尾が、吃と逆立った。



