草庵へ戻ると、炉端に団吾が腕を組んで待っていた。
何があろうと次こそは食べさせる、という顔である。
戻ってくる気配を先に読んでいたらしく、根菜汁を温めてよそい直し、稲荷を乗せた皿を並べ、箸の向きまで揃えて、すっかり三人分のお膳立てを済ませていた。
「まったく、朝餉の途中に捕物豚箱騒ぎとは。お稲荷が拗ねますぞ」
「ほんに団吾は気苦労の多い性格じゃのう」
それぞれ低い膳には青い葉を敷いた平皿があり、その上に油揚げで包んだお稲荷が並べられている。隣に根菜汁の椀だ。
焦げ目のついた油揚げの甘い匂いがした。
ところが九郎助は平皿を一つ掴むや否や、また外へ駆け出していく。
それを見て団吾は鼻を鳴らし、竈のある土間の方へと引っ込んだ。
「兄さまは優しいのじゃ」
葛葉は根菜汁の椀へ手を伸ばした。
それを見て、珠璃も箸を持ち上げる。
食べられる時に食べる。
それは廓でも妖の里でも、きっと変わらない。
それに、残したら団吾にどやしつけられそうだった。
「野狐を探し出して飯をやるのじゃろう。腹を空かせた野狐は碌でもないことを考えるからの。……子どもが喰われんようにの用心じゃな」
珠璃は箸を止めた。
追い払った相手に、飯を持って行く。
きっと九郎助らしいのだろう。
葛葉が根菜汁に口をつけたので、珠璃も稲荷を持ち上げて口に運んだ。
壁に掛かった硝子壺の狐火は、なお青く、金へは戻っていない。
偉い方の卒去が契機なら、戻ることはないのだろう。
「こんな時に、困ったものじゃ」
葛葉は根菜汁を一口含んで飲み込み、ふいに珠璃を見た。
「そなたには、兄さまと契ってもらう」
珠璃は飲み下し損ね、危うくお稲荷を喉に詰まらせかけた。
「……何を、おっしゃる」
「契りじゃ。妖狐の匂いを纏う。それで応急処置ができる筈じゃ」
葛葉は、当然と言わんばかりの顔をしている。
「また、匂い……」
「田舎者丸出しに嫌そうな顔をするでない。お前からは甘い人間の女の匂いと、あと朱籬廓の伽羅と焦げた物の怪の匂いがする。兄さまの匂いを重ねるのじゃ」
団吾が横から小さく咳払いした。
「姫さま、その言い方ではお客人がお稲荷を美味しくいただけませんぞ」
「では何と言えばよい。野狐が嗅ぎつけた。面倒じゃ」
「もう少し、こう、護符とか、仮の縁結びとか」
「まあ、そんなものじゃ」
葛葉はおざなりに涼しい顔で箸を遣わせて、葉の上の稲荷を一つ取った。
珠璃はすっかり食欲を失くしてしまった。
契る。
その一語に、身体が勝手に強張る。
――ああ結局、廓で売られるか、妖に売られるかの違いなのだ、と。
葛葉は妖の理で言っている。
けれど値を付けられたことのある珠璃の身体は、そうは聞けなかった。
水揚げを済ませた娘なら、一度も二度も同じ。
誰かのものにされた娘なら、次にまた別の誰かのものにされても同じ。
――否、違う。同じではない。
一度奪われたからといって、次も差し出してよいことにはならない。
それは、番頭新造が珠璃へ投げた理屈に似ていた。
一度きりだからこそ高く売れるものなら、裏で二度売ればよい。
相手の背景も深く考えぬのが客で、すべて責任を負うのは珠璃だ。
けれど首尾よく周りの者は得をする。
そう、言いたかった。
元はといえば借金のある生まれが悪い。
金子で証文を取った側が如何様にもして何が悪い。
けれど、言えば言うほど、借金を清算しないまま色街から逃げ出した遊女の、虫のいい言い分として聞かれる気がした。盗人猛々しいと言われても可笑しくはないのだ。
――だが、生まれが卑賎だとして、その後も苛まれることが当然とされ、二度と這い上がれぬのは、果たして正しいことなのだろうか。
否、苦界十年を勤め上げ、年季が明けたとしても、その頃にはもう身体を壊している者の方が多いのだ。
「名を変えた程度では足りぬ。結界が崩れた今、そなたは見つかりやすい。ならば眷属を被せるのが早い」
「ほら姫さま、よく見なすって。食欲を失くしちまってる」
血の気の引いた頬。膝の上で固まった指先。
団吾にとって、それは一大事なのだろう。
葛葉はそこでようやく、珠璃の顔色を見た。
「……なんじゃ、何を想像した。猥らがましいものではないぞ」
「……」
「わしの言い方が悪かった。人間は、簡単に他人と縁を結んだり、大らかに咬合わったりしないのだったな」
「……」
不本意そうな様子だ。
だが、言い直す分別はあるらしい。
「房事をせよ、と言うておるのではない。名と匂いを結ぶきりじゃ。兄さまは優しいからの」
何があろうと次こそは食べさせる、という顔である。
戻ってくる気配を先に読んでいたらしく、根菜汁を温めてよそい直し、稲荷を乗せた皿を並べ、箸の向きまで揃えて、すっかり三人分のお膳立てを済ませていた。
「まったく、朝餉の途中に捕物豚箱騒ぎとは。お稲荷が拗ねますぞ」
「ほんに団吾は気苦労の多い性格じゃのう」
それぞれ低い膳には青い葉を敷いた平皿があり、その上に油揚げで包んだお稲荷が並べられている。隣に根菜汁の椀だ。
焦げ目のついた油揚げの甘い匂いがした。
ところが九郎助は平皿を一つ掴むや否や、また外へ駆け出していく。
それを見て団吾は鼻を鳴らし、竈のある土間の方へと引っ込んだ。
「兄さまは優しいのじゃ」
葛葉は根菜汁の椀へ手を伸ばした。
それを見て、珠璃も箸を持ち上げる。
食べられる時に食べる。
それは廓でも妖の里でも、きっと変わらない。
それに、残したら団吾にどやしつけられそうだった。
「野狐を探し出して飯をやるのじゃろう。腹を空かせた野狐は碌でもないことを考えるからの。……子どもが喰われんようにの用心じゃな」
珠璃は箸を止めた。
追い払った相手に、飯を持って行く。
きっと九郎助らしいのだろう。
葛葉が根菜汁に口をつけたので、珠璃も稲荷を持ち上げて口に運んだ。
壁に掛かった硝子壺の狐火は、なお青く、金へは戻っていない。
偉い方の卒去が契機なら、戻ることはないのだろう。
「こんな時に、困ったものじゃ」
葛葉は根菜汁を一口含んで飲み込み、ふいに珠璃を見た。
「そなたには、兄さまと契ってもらう」
珠璃は飲み下し損ね、危うくお稲荷を喉に詰まらせかけた。
「……何を、おっしゃる」
「契りじゃ。妖狐の匂いを纏う。それで応急処置ができる筈じゃ」
葛葉は、当然と言わんばかりの顔をしている。
「また、匂い……」
「田舎者丸出しに嫌そうな顔をするでない。お前からは甘い人間の女の匂いと、あと朱籬廓の伽羅と焦げた物の怪の匂いがする。兄さまの匂いを重ねるのじゃ」
団吾が横から小さく咳払いした。
「姫さま、その言い方ではお客人がお稲荷を美味しくいただけませんぞ」
「では何と言えばよい。野狐が嗅ぎつけた。面倒じゃ」
「もう少し、こう、護符とか、仮の縁結びとか」
「まあ、そんなものじゃ」
葛葉はおざなりに涼しい顔で箸を遣わせて、葉の上の稲荷を一つ取った。
珠璃はすっかり食欲を失くしてしまった。
契る。
その一語に、身体が勝手に強張る。
――ああ結局、廓で売られるか、妖に売られるかの違いなのだ、と。
葛葉は妖の理で言っている。
けれど値を付けられたことのある珠璃の身体は、そうは聞けなかった。
水揚げを済ませた娘なら、一度も二度も同じ。
誰かのものにされた娘なら、次にまた別の誰かのものにされても同じ。
――否、違う。同じではない。
一度奪われたからといって、次も差し出してよいことにはならない。
それは、番頭新造が珠璃へ投げた理屈に似ていた。
一度きりだからこそ高く売れるものなら、裏で二度売ればよい。
相手の背景も深く考えぬのが客で、すべて責任を負うのは珠璃だ。
けれど首尾よく周りの者は得をする。
そう、言いたかった。
元はといえば借金のある生まれが悪い。
金子で証文を取った側が如何様にもして何が悪い。
けれど、言えば言うほど、借金を清算しないまま色街から逃げ出した遊女の、虫のいい言い分として聞かれる気がした。盗人猛々しいと言われても可笑しくはないのだ。
――だが、生まれが卑賎だとして、その後も苛まれることが当然とされ、二度と這い上がれぬのは、果たして正しいことなのだろうか。
否、苦界十年を勤め上げ、年季が明けたとしても、その頃にはもう身体を壊している者の方が多いのだ。
「名を変えた程度では足りぬ。結界が崩れた今、そなたは見つかりやすい。ならば眷属を被せるのが早い」
「ほら姫さま、よく見なすって。食欲を失くしちまってる」
血の気の引いた頬。膝の上で固まった指先。
団吾にとって、それは一大事なのだろう。
葛葉はそこでようやく、珠璃の顔色を見た。
「……なんじゃ、何を想像した。猥らがましいものではないぞ」
「……」
「わしの言い方が悪かった。人間は、簡単に他人と縁を結んだり、大らかに咬合わったりしないのだったな」
「……」
不本意そうな様子だ。
だが、言い直す分別はあるらしい。
「房事をせよ、と言うておるのではない。名と匂いを結ぶきりじゃ。兄さまは優しいからの」



