里の外れには、小さな橋があった。
葦の茎を編み、水面へそっと寝かせたような細い橋だ。
朱籬廓では、葦は悪しに通じるからと、葭と呼び替えられていた。
けれど、九郎助の里では違う。
葦は、葦のまま水際に茂っていた。
屋根を葺き、簾となり、舟にまで編まれている。
悪しを葭と言い換えずとも、ここでは誰も困らない。
すべては在りのままの、穏やかで長閑な日々だった。
その葦の上に、人間の男の子が座り込んで泣いていた。
七つか八つほど、痩せ形で肚も空かしているだろうと思われた。
麻の着物は泥で汚れ、草履の片方は失くしている。
「おっかあが、居ない」
子どもは、騒ぎに寄って来た里の者たちを見ても怯えなかった。
角のある小鬼も、鱗の女も、狐火も、おそらく何もかも見えていないのだ。
結界が崩れかけて入り込んだが、妖を見る目までは開いていない。
その子の背後に狐がいた。
赤茶けた毛並みの小柄な狐だった。
濡れた葦の間から顔を出し、細い目でこちらを見ている。
人の言葉を解す眼だが、九郎助のような佇まいはない。
「野狐じゃ」
葛葉が言った。
赤茶けた狐は、ちろりと舌を出した。
「おお怖い怖い。葛葉姫は今日も角が立っておる」
「わしに角はない」
「では気が立っておる」
野狐は耳と尻尾を持った人間の男の姿へ変わった。
若い行商人のような姿だが、裾を見ると足元に細い葦の葉がまっすぐに散っている。
九郎助や葛葉の変化に比べると、どこか化け切れていない。
鼻は不自然に長く、目尻には狐の名残が長く引かれて残っていた。
「その子をどうする気だったか?」
九郎助が問う。
「道に迷うておったから、拾うたのよ」
「人の子を拾って、どこへ運ぶ」
「……母親のところへ」
「嘘を吐くと、尻尾の匂いが濃くなるぞ」
九郎助の指摘に、野狐は顔をしかめた。
「善狐はこれだから嫌いじゃ。すぐ匂いで物を言う」
善狐。
とすると、九郎助と葛葉とは、野狐と同じ狐ではないのか。
野狐が九郎助を見る目には、同じものへの親しみはなく、確かに何がしかの反発があった。
「匂いと言えば……何やら旨そうな匂いがする」
野狐の目が、珠璃へ流れた。
小袖は短い。腿から下が頼りなく露わになり、逃げてきた夜の傷もまだ癒えていない。
野狐の視線は、肉の柔らかいところを探し、舌なめずりするようにそこへ絡みつく。
「まだ誰にも触れられていない」
「俺が見つけた」
「まだ、誰のものでもないだろ」
「そうだ。――誰のものでもない」
九郎助は珠璃を振り返らない。
だが、金色の尻尾が警戒するようにぴんと立ち上がっている。
「だからこそ触れるな。あれが、自分で選ぶまでは俺でさえ待っている」
野狐の笑みが、薄く歪んだ。
「善狐の長は、喰えぬ肉まで囲うのか。ご立派なことで」
「さっさと去ね」
九郎助が鋭く言うと、野狐は鼻の長い顔を背け、肩を竦ませて去って行った。
ほどなくして葦原の向こうから女の呼び声が上がり始めた。
子どもは「おっかあ」と大声を張りながら駆け出し、霧の薄れた道で母親に抱き留められる。
母子は里の者の姿が人間にでも見えているのか、狐耳や尻尾には目もくれず何度も礼を言い、来た道を戻っていった。
葦の茎を編み、水面へそっと寝かせたような細い橋だ。
朱籬廓では、葦は悪しに通じるからと、葭と呼び替えられていた。
けれど、九郎助の里では違う。
葦は、葦のまま水際に茂っていた。
屋根を葺き、簾となり、舟にまで編まれている。
悪しを葭と言い換えずとも、ここでは誰も困らない。
すべては在りのままの、穏やかで長閑な日々だった。
その葦の上に、人間の男の子が座り込んで泣いていた。
七つか八つほど、痩せ形で肚も空かしているだろうと思われた。
麻の着物は泥で汚れ、草履の片方は失くしている。
「おっかあが、居ない」
子どもは、騒ぎに寄って来た里の者たちを見ても怯えなかった。
角のある小鬼も、鱗の女も、狐火も、おそらく何もかも見えていないのだ。
結界が崩れかけて入り込んだが、妖を見る目までは開いていない。
その子の背後に狐がいた。
赤茶けた毛並みの小柄な狐だった。
濡れた葦の間から顔を出し、細い目でこちらを見ている。
人の言葉を解す眼だが、九郎助のような佇まいはない。
「野狐じゃ」
葛葉が言った。
赤茶けた狐は、ちろりと舌を出した。
「おお怖い怖い。葛葉姫は今日も角が立っておる」
「わしに角はない」
「では気が立っておる」
野狐は耳と尻尾を持った人間の男の姿へ変わった。
若い行商人のような姿だが、裾を見ると足元に細い葦の葉がまっすぐに散っている。
九郎助や葛葉の変化に比べると、どこか化け切れていない。
鼻は不自然に長く、目尻には狐の名残が長く引かれて残っていた。
「その子をどうする気だったか?」
九郎助が問う。
「道に迷うておったから、拾うたのよ」
「人の子を拾って、どこへ運ぶ」
「……母親のところへ」
「嘘を吐くと、尻尾の匂いが濃くなるぞ」
九郎助の指摘に、野狐は顔をしかめた。
「善狐はこれだから嫌いじゃ。すぐ匂いで物を言う」
善狐。
とすると、九郎助と葛葉とは、野狐と同じ狐ではないのか。
野狐が九郎助を見る目には、同じものへの親しみはなく、確かに何がしかの反発があった。
「匂いと言えば……何やら旨そうな匂いがする」
野狐の目が、珠璃へ流れた。
小袖は短い。腿から下が頼りなく露わになり、逃げてきた夜の傷もまだ癒えていない。
野狐の視線は、肉の柔らかいところを探し、舌なめずりするようにそこへ絡みつく。
「まだ誰にも触れられていない」
「俺が見つけた」
「まだ、誰のものでもないだろ」
「そうだ。――誰のものでもない」
九郎助は珠璃を振り返らない。
だが、金色の尻尾が警戒するようにぴんと立ち上がっている。
「だからこそ触れるな。あれが、自分で選ぶまでは俺でさえ待っている」
野狐の笑みが、薄く歪んだ。
「善狐の長は、喰えぬ肉まで囲うのか。ご立派なことで」
「さっさと去ね」
九郎助が鋭く言うと、野狐は鼻の長い顔を背け、肩を竦ませて去って行った。
ほどなくして葦原の向こうから女の呼び声が上がり始めた。
子どもは「おっかあ」と大声を張りながら駆け出し、霧の薄れた道で母親に抱き留められる。
母子は里の者の姿が人間にでも見えているのか、狐耳や尻尾には目もくれず何度も礼を言い、来た道を戻っていった。



