紅籬楼へ運び込まれたその夜。
深朱は就寝前に内証の手前、帳場へと連れて行かれた。
畳は古い。
墨と錆びた銭と、伽羅の匂いが染みついている。
番頭新造は、帳面に覆い被さるようにして文机に向かっていた。
遣り手婆は畳に座り、遊女たちの猩々緋の襦袢のほつれを繕っている。
その針を動かしながら、人を刺すように深朱を見た。
楼主は、火の落ちた煙管を膝の上で転がしていた。
やがて、その目が深朱へ向く。
「元の名は」
問われても、すぐには出てこなかった。
船底で泣いた。
青菜のように荷車に揺られた。
ここへ来るまでの間に、何度か呼ばれた筈の名だった。
けれど口にしようとすると、喉の奥で濁って了う。
その名を渡せば、村にいた自分まで、この帳場の帳面へ書きつけられる気がした。
飯代。
衣代。
支度金。
そして、元の名。
何もかも勘定に入れられて、二度と返らなくなる気がした。
「覚えていなんすなら、恰度ようござんす」
番頭新造が、こちらを振り返った。
鉛筆の先をちろちろと舐め、廓詞で言う。
すぐ脇で、遣り手婆が上体を伸ばした。
針を下へ向けたまま、皺でかさついた指先が、深朱の無防備な顎裏を持ち上げる。
「肌は白い。眼も悪くない。この子にするかねェ」
器を選ぶときのように、疵の有無を確かめる響きだった。
遣り手婆の指が顎を押さえたまま、深朱の顔を灯りへと向ける。
楼主までもが、品定めに加わった。
煙草と脂の匂う顔が寄って来る。
逃げる間もない。
目元。
鼻筋。
口元。
順に眺められ、やがて満足げに頷かれた。
「ほう。眼がいい。泣き腫らせば半値だな」
深朱はその言葉を舌の上で転がした。
半値。
自分の悲しみにまで、値がつくのだと思った。
「深い朱と書いて、深朱。どうだい」
番頭新造は、舐った鉛筆の先を帳面へ落とした。
紙の上に、二つの字が刻まれてゆく。
深朱。
その名が書きつけられた瞬間、墨でもない黒が、紙の目へじわりと沈んだ。
灯りが揺れ、帳面の文字が一瞬、虫のように蠢いた。
喉の奥で、何かが引っかかる。
親から貰った名を思い出そうとした。
けれど、音にならない。
舌の上へ上がる前に、するりと落ちた。
水底へ沈む小石のように、二度と掴めぬところへ遠ざかってゆく。
期待を込めた名だった。
花魁にするため、高く売るため。
大見世に肩を並べる夢を、一人の娘の細い肩へ載せるための名だった。
「よかろう」
楼主が帳面を覗き込み、満足げに頷いた。
「この紅籬楼の朱を背負わせる」
もう、戻れない。
元の名を呼ぶ者は、この先、誰もいない。
呼ばれても、きっと振り向けない。
楼主は少女を見下ろした。
「今日からお前は、深朱だ」
「泣くなら奥で泣きな。客に見せるにも、値のつく涙と値のつかぬ涙がある」
遣り手婆も続いて笑った。
その夜から、深朱は深朱になった。
名ごと朱籬廓へと縛られたのだ。
深朱は就寝前に内証の手前、帳場へと連れて行かれた。
畳は古い。
墨と錆びた銭と、伽羅の匂いが染みついている。
番頭新造は、帳面に覆い被さるようにして文机に向かっていた。
遣り手婆は畳に座り、遊女たちの猩々緋の襦袢のほつれを繕っている。
その針を動かしながら、人を刺すように深朱を見た。
楼主は、火の落ちた煙管を膝の上で転がしていた。
やがて、その目が深朱へ向く。
「元の名は」
問われても、すぐには出てこなかった。
船底で泣いた。
青菜のように荷車に揺られた。
ここへ来るまでの間に、何度か呼ばれた筈の名だった。
けれど口にしようとすると、喉の奥で濁って了う。
その名を渡せば、村にいた自分まで、この帳場の帳面へ書きつけられる気がした。
飯代。
衣代。
支度金。
そして、元の名。
何もかも勘定に入れられて、二度と返らなくなる気がした。
「覚えていなんすなら、恰度ようござんす」
番頭新造が、こちらを振り返った。
鉛筆の先をちろちろと舐め、廓詞で言う。
すぐ脇で、遣り手婆が上体を伸ばした。
針を下へ向けたまま、皺でかさついた指先が、深朱の無防備な顎裏を持ち上げる。
「肌は白い。眼も悪くない。この子にするかねェ」
器を選ぶときのように、疵の有無を確かめる響きだった。
遣り手婆の指が顎を押さえたまま、深朱の顔を灯りへと向ける。
楼主までもが、品定めに加わった。
煙草と脂の匂う顔が寄って来る。
逃げる間もない。
目元。
鼻筋。
口元。
順に眺められ、やがて満足げに頷かれた。
「ほう。眼がいい。泣き腫らせば半値だな」
深朱はその言葉を舌の上で転がした。
半値。
自分の悲しみにまで、値がつくのだと思った。
「深い朱と書いて、深朱。どうだい」
番頭新造は、舐った鉛筆の先を帳面へ落とした。
紙の上に、二つの字が刻まれてゆく。
深朱。
その名が書きつけられた瞬間、墨でもない黒が、紙の目へじわりと沈んだ。
灯りが揺れ、帳面の文字が一瞬、虫のように蠢いた。
喉の奥で、何かが引っかかる。
親から貰った名を思い出そうとした。
けれど、音にならない。
舌の上へ上がる前に、するりと落ちた。
水底へ沈む小石のように、二度と掴めぬところへ遠ざかってゆく。
期待を込めた名だった。
花魁にするため、高く売るため。
大見世に肩を並べる夢を、一人の娘の細い肩へ載せるための名だった。
「よかろう」
楼主が帳面を覗き込み、満足げに頷いた。
「この紅籬楼の朱を背負わせる」
もう、戻れない。
元の名を呼ぶ者は、この先、誰もいない。
呼ばれても、きっと振り向けない。
楼主は少女を見下ろした。
「今日からお前は、深朱だ」
「泣くなら奥で泣きな。客に見せるにも、値のつく涙と値のつかぬ涙がある」
遣り手婆も続いて笑った。
その夜から、深朱は深朱になった。
名ごと朱籬廓へと縛られたのだ。



