朱籬廓には、お社が五つあった。
紅扇姐さまは信心深く、月のうち幾度かは必ず深朱を連れて、その五つを巡った。
五つのお社とは――
縁を芽吹かせる九郎助の木。
火を鎮め、街を守る明石の火。
家と商いを支える榎本吉徳の土。
運を招き、幸福を齎す開運の金。
芸と弁舌を授ける弁才天の水。
東に木、南に火、西に金、中央に土。
そして水の社は、北の大門の脇に祀られている。
いつもその社の前へ立つと、大門の向こうに橋の欄干がちらりと見えた。
それとは別に、大門の内側に、橋姫という水妖の祠があるのだそうだ。
紅扇姐さまともなれば、花魁衣装で引手茶屋まで歩くだけで道中になる。
だが、参拝には箱提灯も立てず、金棒も鳴らさず、長柄の傘も用いない。
ただ髪を控えめに結い、古い小袖を羽織って、深朱に小さな包みを持たせる。
お供米、お榊、紙に包んだ銭、時には弁才天へ納める三味線の弦。
姐さまが祈るときは、いつも値が張る。
「お社に願う時はね、深朱」
九郎助稲荷の鳥居の前で、紅扇姐さまは言った。
「叶えて呉れとばかり思うんじゃありんせん。叶った後に、何を取られるかも考えるだんす」
木のお社は朱籬廓の隅に寄るように建っていた。
朱の鳥居はくっきりと目を引き、狐の像の足元には、油揚げや小さな菓子が供えられている。
秋も深くなった頃で、社の脇に立つ銀杏が、枝という枝に黄金を抱えていた。
風が通るたび、舞扇を返すように葉が翻り、はらはらと石畳へ落ちてくる。
「……願いが叶っても、取られるのでございますか」
「ただで叶う願いなんて、朱籬廓にはありんせん」
姐さまは笑った。
甘やかな笑みなのに、眼の底には冷たい一太刀がきらりと光る。
縁結びの九郎助稲荷に手を合わせる紅扇姐さまの横顔を、深朱は盗み見た。
すると、姐さまは身請けを密かに願っているのだろうか。
良い旦那に請出され、借りを払われ、廓の外へ出してもらうことを。
紅籬楼の頂点、花魁の座に在りながら。
縁とは、それほどまでに良いものなのか。
「大体、信心は後生の願いでありんしょう。今世のものじゃありんせん。次は花魁に売らんように、次は親に手放されんように、次は好きな情人を自分で選べますように――そう願うものでありんす」
それでも紅扇姐さまは、どのお社でも、とても長く祈った。
深朱は少しずつ、遊女は祈らずにいられないのだと理解していった。
美しさも、芸も、客運も、病まぬ体も、すべて祈らずには居られない。
「姐さまは、何をそれほど長くお願いしているのでございますか」
また別の日、弁才天の社で深朱が尋ねると、紅扇姐さまは舞扇でぱしりと深朱の額を軽く叩いた。
「他人の願いを聞くものじゃありんせん」
「……」
そう言われると、返す言葉がなかった。
深朱はただ、手水の縁に貼り付いた花びらを瞶める。
「労咳やらで、死んでいった姐さん達の来世のお頼み事や、色々さ」
紅扇姐さまの口ぶりは軽かった。
けれど、軽く言わなければ形を保てぬものが、そこにはある気がした。
「女は大切にされないと、恨み節に堕ちていって了うからねぇ」
深朱は姐さまの横顔を見る。
諦念に押し潰されそうで、だが未だ希望は捨てないでいる表情だ。
「一つ、教えてやりんす」
姐さまは花のたくさん浮いている手水の水面を見た。
大門橋に燈る灯りを合間に映しており、水面は揺れてはすぐに形を取り戻す。
その橋を渡れば、外へ出られる。
大門を抜け、橋板を踏み、向こう岸へ渡ると廓の外へ行ける。
「妾の今世の願いの一つは、あんたが安く売られぬようでありんす」
深朱はすぐに返事ができなかった。
高く売られることが救いなのか、不幸なのか、もう判らなかった。
ただ紅扇姐さまが自分のために願っていることがある。
そのことが嬉しくて、嬉しいと思う己がまた苦しかった。
帰り道、二人は居留地の煉瓦塀を見た。
「紅扇姐さま」
「何だんす」
「いつか、あちらへ行けることはありんすか」
紅扇姐さまは、その照柿色を見た。
艶冶な姐さまが、すぐには言葉を返さず思案している姿は、いつもの余裕とは違って見えた。
「行く丈なら、行けるだんしょう」
「なら」
「売られて行くのと、選んで行くのは違うだんす」
その言葉で、深朱は黙った。
その報せが来たのは、五つの社を巡った身揚りの翌日のことだった。
紅扇姐さまの部屋で、深朱はいつものように煙管を磨いていた。
すると廊下の向こうから遣り手婆の足音が近づいた。
襖が開くより早く、部屋の空気が強張る。
「紅扇」
遣り手婆は深朱を見ずに言った。
「楼主が決めなすったよ。お大尽の三津田様が、深朱をご所望だ」
拭いていた煙管が、深朱の指の間で止まった。
紅扇姐さまは文机で馴染み客に手紙を書いていたが、さらさらと走っていた筆先が、紙の上でふつりと止まり、墨が一点、黒く太った。
「深朱はまだ早うござんす」
姐さまは振り返らずに言った。
その背はいつものようにしどけなく見えたのに、どこか硬質だ。
「早い遅いは、あんたが決めることじゃないよ。この娘はお大尽の通人が育てると言ってる。見世にとっちゃァ願ったり叶ったりだ」
「育てる、ねえ」
姐さまの声は、怜悧な響きだった。
女を育てるなどと綺麗に言いながら、借金地獄で雁字搦めにする、廓の賢しらさに対してだろう。
遣り手婆は、はん、と鼻で笑った。
返事を待つ気など、初めからないらしい。
それは頼みでも相談でもなく、ただの通達だった。
遣り手婆は癇の立ったような顔を見せて踵を返す。
畳を擦る鈍い音を残し、重たい背が襖の向こうへ消えていった。
姐さまはとうとう筆を置いた。
深朱の頭は、うまく働かなかった。
いつかこの日が来ることは、知っていた。
水揚げ。
通人。
育てる。
どれも廓では値のつく、目出度い言葉だ。
幼い頃なら意味も分からず聞き流せた。
けれど今の深朱は、それらが自分の身へ向けられた時、もう何を指すのか知っている。
そこへ、番頭新造が入れ替わりのように入って来た。
入って来た――というより、ずっと機会を窺っていたのだろう。
部屋の中の空気が沈み、紅扇姐さまの手が止まり、深朱が何も言えなくなった、その隙を選んで。
狙い定めていたものを、漸く運んで来た顔だった。
「あらァ、恰度よいところへ。深朱に、もう一つ話がありんす」
番頭新造の目は陰険に光っている。
「何でありんす」
紅扇姐さまの問いは機嫌の悪さを隠そうともしていない。
それへ番頭新造はすぐには答えず、姐の苛立ちさえ吝嗇に独り愉しんでいる。
袖口を整え、帯の端を撫で、深朱の方へちらりと目を流す。
廊下とんびの覗き窓のある割床での御開帳でさえ、客の取れなかった女の笑みだ。
誰かに見せるための笑みではなく、もっと薄暗い残忍さがあった。
同じ檻の中にいる女を、更に狭い処へ押し込める時のような――。
「西河岸の伽羅売りがねェ、水揚げ日にもう一件どうかって」
「どういうこと――」
「黙りなんし」
番頭新造は楽しげに遮った。
「あんたは水揚げの日、陰でもう一人、相手をするんだよ。妾が段取りしてやる。なァに、天井の染みを数えて四半刻ほどで済むさ。同じ日に披露目を済ませちまえば、どちらにも判りゃしんせん。銭子は二倍だんす」
深朱は煙管拭きの布をぎゅっと握り締めた。
何か大事なものを、売られる前から踏み荒らされるような気がした。
「婆ァに言い付けんじゃないよッ」
番頭新造の狙いは、陰銭稼ぎ丈ではない。
花魁にとって尤も華々しく大事な日に、深朱を座敷から引き剥がし、見世とお大尽との話へ泥を混ぜる。
高く買われるのが憎くて仕方がないのだ。
ならば最高値がつくその日に、値そのものを濁して了えばよい。
上がりを掠めとっちまって、懐へ入れて減らせばよい。
銭子が二倍だ、悪い話じゃなかろう、と手薬煉を引きながら。
「深朱」
そのとき隣の紅扇姐さまが、番頭新造に聞こえぬよう、小声で言った。
「九郎助さんへ行きなんし」
え、と思う間もなかった。
廊下の向こうから、衣擦れの音が荒く近付いてくる。
先刻去ったはずの遣り手婆が、もう取って返して来ていた。
その後ろには若衆が二人。
深朱が立ち上がるより早く、両脇から腕を掴まれる。
痛い、と言う暇もない。
肩が抜けるほど強く引かれ、膝が畳を擦って切れた。
じわりと血が噴き出るのが判った。足がついていかない。
それでも若衆は歩みを緩めず、深朱の身体を廊下へ引き摺り出した。
「逃げられちゃ困るからね」
遣り手婆は、何でもないことのように言った。
「三津田様のお目に留まった子だ。明日までに疵でもついたら見世の大損になる。――なァに、寝る場所がちょいと変わる丈さ」
若衆たちは、深朱を梯子段へ向かわせた。
一段目で足がもつれる。
爪先が板を掻き、踵が浮いた。
腕を掴む手丈で身体を吊られ、梯子の角が踵に当たる。
どん、と骨に響いた。
二段、三段。
降りているのではない。
落ちる身体を、両側から無理やり運ばれている。
座敷の賑わいが、段ごとに遠ざかる。
紅扇姐さまのいる部屋も、筆も、鏡も、襦袢の緋も、あっという間に上へ置き去りにされた。
階下へ下りると、見世の空気が肌へ纏わりついた。
伽羅と胡粉、煙草と人熱れ。
通りへ向いた張見世には、格子が幾本も嵌められている。
若衆の一人が戸を開け、もう一人が深朱の背を突いた。
本来なら、そこに並ぶ者は客へ向けて笑う。
値踏みされるために、綺麗な顔を作って。
その格子の内へ、深朱は押し込まれた。
今夜は通行人に見られながら眠れ、ということだ。
眠る姿まで見世物にされる。
そう思った途端、畳よりも格子の冷たさの方が身に迫った。
よろめいた身体が、敷居を越える。
血の滲んだ膝が、冷えた畳へ落ちた。
ここは雑魚寝ですらない、客に見せるための場所だ。
かちり、と背後に留め金の落ちる音がして、戸が閉まった。
格子の内から見る外の光景は、細い黒い線で幾つにも裂けていた。
裏から周って来た遣り手婆の皺と皺の合間にまで胡粉を塗りたくった顔も、若衆の下卑た笑いも、通りを行く灯も、みな格子の目に切られて遠くなる。
手を伸ばせば届きそうなのに、もうそこは外だった。
「まあァ、似合うこと」
遅れて来た番頭新造が、格子越しに嗤った。
「花は、花籠に入れておくものだァねえ」
「明日の支度まで、そこで頭を冷やしておいで」
遣り手婆が最後通牒を言い渡す。
深朱は返事をしようとした。
けれど、もう何を言っていいのか判らなかった。
紅籬楼は、気概だけは一足早く、大見世然とした総籬である。
牢獄のような格子の向こうで、遠くの仲之町の灯りが一つ、また一つと落とされていくのを眺めながら、何刻が過ぎただろうか。
大華通の大見世の笑い声は遠のき、煙草の匂いと胡粉の残り香が、格子の間にまで滑り込んで来ていた。
夜半過ぎになって、紅扇姐さまが様子を見に来た。
深朱を閉じ込めている夜に限って、いつもなら妓夫台に目を光らせている見世番の姿が、どこにもない。
姐さまは外の格子の前に腰を落とすと、袖から小さな包みを出した。
中には古い守り木札が入っているようだ。
「九郎助稲荷へ。そこが一等近うござんす。お行きなんし」
深朱は格子の縦桟の合間から捻じ込まれた包みを受け取った。
指先に、姐さまの指が一瞬触れた。
「見張りの若衆は……」
「言いつけを疑うんじゃありんせん」
紅扇姐さまは嫣然と笑った。
見張りの若衆が、紅扇姐さまを通す筈がない。
金を握らせたのか。
それとも、金では足りなかったのか。
そこから先は、考えたくなかった。
「これで、お別れかもしれないね」
その言葉の意味を、深朱はすぐには取れなかった。
問い返すより先に、姐さまは立ち上がる。
左右に分けた長い緞子に金襴のふきの裾が格子の前を流れ、やがて闇の方へ消えていった。
残されたのは、格子の内の深朱と、外へ続く夜丈だった。
暫くして深朱は、紅扇姐さまの言葉の意味を遅れて悟った。
逃げろ。
そう言われたのだ。



