そこへ、初めに異変を告げたのは狐火だった。
九郎助の屋敷の壁に掛けられていた硝子壺の火が、一つ、また一つと青く変っていく。
「人間の大結界師が現世を去ったのじゃ」
葛葉が音もなく居間に滑り込んで来た。
炉の鍋では、根菜汁がまだ湯気を立てている。
珠璃は立ったまま動けなかった。
「結界師が消えると、何が?」
「隠しておったものが、人間の目へ戻る」
葛葉は庭に面した木戸へ歩み寄り、小さな手で桟に触れた。
「この里は、人間の地図帳では空白だった。葭海の向こうは湿地帯の葦原。家も田も道も、誰も見つけぬ筈の場所じゃった。佐伯公なる者が大霧を用いて、そう見せておったのじゃ」
古い戸が、から、と乾いた音を立てて開く。
朝の冷えた気配が土間へ流れ込んだ。
戸の外で、みるみるうちに朝霧が晴れていく。
昨日は見えなかったものが見え始めていた。
葭海の向こう、朱籬廓のある方角とは別の岸に、人の道が細く伸びている。
「寒い朝が堪えたのだろう。人間の身体はか弱いからな」
九郎助が言った。
その時、里の外れで子どもが泣いた。
人間の子の泣き方だった。
誰より先に、九郎助が動いた。
戸口を抜ける背が、一瞬低く沈む。
考えるより早く身体が前へ出る、守る獣の動きだった。
葛葉も続いていく。
珠璃は少し遅れて立ち上がり、椀を置いた。
「お前は来んでもいい」
葛葉は戸口で履物に手間取っていた。
小さな足が鼻緒を拾えず、草履を何度も摺っている。
その間に、珠璃が追いついた。
「そなたは物の怪を寄せる。結界が無くなった今、それが一等まずいのじゃ」
「否、連れて来い。もう結界はない。独り置いてはゆけぬ」
「……兄さまは、さすが用心深い」
その間にも、外の騒めきは近付いていた。
人間の子が泣く気配に、耳の敏い里そのものが戸惑っているようだった。
珠璃は土間へ足を下ろしかけ、一瞬迷った。
廓を抜ける時、履くものなど持って来られなかった。
素足では、また石や葦の根に足を裂かれる。
昨日の日和下駄では、走るには不都合だ。
それでも、短い小袖に男物の下駄を合わせる可笑しさを、まだ気にしてしまう。
こんなことに拘る場合ではないのに、身体は人前へ出る時の身装を覚えていた。
土間の隅に、誰かの古い草履が脱ぎ置かれていた。
鼻緒は擦れ、藁は毛羽立っているが、素足で飛び出すより余程いい。
珠璃はありがたく借りることにして、急いで爪がけた。
九郎助の屋敷の壁に掛けられていた硝子壺の火が、一つ、また一つと青く変っていく。
「人間の大結界師が現世を去ったのじゃ」
葛葉が音もなく居間に滑り込んで来た。
炉の鍋では、根菜汁がまだ湯気を立てている。
珠璃は立ったまま動けなかった。
「結界師が消えると、何が?」
「隠しておったものが、人間の目へ戻る」
葛葉は庭に面した木戸へ歩み寄り、小さな手で桟に触れた。
「この里は、人間の地図帳では空白だった。葭海の向こうは湿地帯の葦原。家も田も道も、誰も見つけぬ筈の場所じゃった。佐伯公なる者が大霧を用いて、そう見せておったのじゃ」
古い戸が、から、と乾いた音を立てて開く。
朝の冷えた気配が土間へ流れ込んだ。
戸の外で、みるみるうちに朝霧が晴れていく。
昨日は見えなかったものが見え始めていた。
葭海の向こう、朱籬廓のある方角とは別の岸に、人の道が細く伸びている。
「寒い朝が堪えたのだろう。人間の身体はか弱いからな」
九郎助が言った。
その時、里の外れで子どもが泣いた。
人間の子の泣き方だった。
誰より先に、九郎助が動いた。
戸口を抜ける背が、一瞬低く沈む。
考えるより早く身体が前へ出る、守る獣の動きだった。
葛葉も続いていく。
珠璃は少し遅れて立ち上がり、椀を置いた。
「お前は来んでもいい」
葛葉は戸口で履物に手間取っていた。
小さな足が鼻緒を拾えず、草履を何度も摺っている。
その間に、珠璃が追いついた。
「そなたは物の怪を寄せる。結界が無くなった今、それが一等まずいのじゃ」
「否、連れて来い。もう結界はない。独り置いてはゆけぬ」
「……兄さまは、さすが用心深い」
その間にも、外の騒めきは近付いていた。
人間の子が泣く気配に、耳の敏い里そのものが戸惑っているようだった。
珠璃は土間へ足を下ろしかけ、一瞬迷った。
廓を抜ける時、履くものなど持って来られなかった。
素足では、また石や葦の根に足を裂かれる。
昨日の日和下駄では、走るには不都合だ。
それでも、短い小袖に男物の下駄を合わせる可笑しさを、まだ気にしてしまう。
こんなことに拘る場合ではないのに、身体は人前へ出る時の身装を覚えていた。
土間の隅に、誰かの古い草履が脱ぎ置かれていた。
鼻緒は擦れ、藁は毛羽立っているが、素足で飛び出すより余程いい。
珠璃はありがたく借りることにして、急いで爪がけた。



