翌朝、珠璃は襦袢のまま草庵を出た。
肩には、九郎助の羽織を掛けている。
足許は、三和土にあった男物の日和下駄だった。
羽織は重く、土と夜露と、どこか焦げた狐火の匂いがした。
犬槐の林が見えてくる。
細くまっすぐな木と木の間、その奥に、一際大きな古い社が覗いていた。
苔むした鳥居が幾重にも並んでいる。
その先で、何かが紗のように揺れていた。
目にはっきりとは見えない。
それなのに、その周囲の空気が重いとでもいうように、ゆったりと凪いでいる。
社の奥、槻の大径木の下に黒衣の老人が座していた。
老人と見えたのは一瞬で、次には黒狐が蹲っているようにも見えた。
尾は土に溶けている。
その眼は、冥府の井戸のように深く黒く濡れていた。
「それが物の怪に狙われた、人間の廓の娘か」
長老の一言で、珠璃の足が止まった。
名ではない。また、場所で呼ばれた。
廓の娘。売られた娘。
いつも同じ鉤札になって、首に掛かる。
「珠璃だ」
九郎助が言った。
短い言葉なのに、社の奥まで刃のように通った。
黒狐の長老は、面倒そうに目を細めた。
名を呼ぶことそのものが、余計な情けであるかのようだった。
「名などどうでもよい。九郎助、お前は人間の社を気にし過ぎる」
長老の尾が、古い板敷の上をゆるりと払った。
埃と、乾いた獣の匂いが僅かに立つ。
その眼には、拝む者の顔など一つも映っていないようだった。
「信仰だけ妖力として吸い上げればいいものを」
吐き捨てるような物言いだった。
人間の祈りも、願いも、名前も、ただ妖力へ変えるためのもの。
そう言い切れる者の眼には、きっと社の前で手を合わせる紅扇姐さまの姿など映らない。
「人間を識ってこその妖力だ」
九郎助の返事は短かった。
けれど、そこに迷いはない。
ただ信仰を食うのみであれば、低級な妖と変わらぬ。
長老へ向けたまなざしには、そんな冷えた断じ方があった。
「……妖と人間とを隔てた結界が揺らいでおる」
「ああ」
「冥府へ落ちた者どもが、戻ろうとしている」
黒狐の長老の尾が、社の板敷を忌々しげに払った。
「廓に溜め込まれた怨念は、都の水路から噴き上がる寸前じゃ」
珠璃の背に、冷たいものが走った。
水路と聞いた途端、朱籬廓を囲む水の暗さが胸へ戻って来る。
売られた女。
捨てられた女。
病み、恨み、名もなく消えた女。
そのすべてが、水の底から戻ろうとしているのだとしたら。
「結界も、もう長くは持つまい」
廓の中で命を落としていった遊女たちの話だ。
名を奪われ、恨みを呑み、葭海の向こうで消えていった者たち。
一人一人は知らない筈なのに、なぜか知っている気がした。
「ならば、なおさら珠璃を手元に置く」
「愚かな――」
長老は立ち上がった。
黒い尾が床を擦る音が走った。
珠璃は九郎助から借りた羽織の端を、知らぬ間に握り締めていた。
「その娘はよい軛になる。まだ物の怪へ堕ちきってもいない。境を縫うには恰度よい」
軛。縫う。恰度よい。
またしても珠璃をものとして見ている言葉だ。
「もしくは九郎助、お前が正式に契ればよい。花嫁として縛れば、その娘は妖狐へ寄る。里も暫くは持ち堪える」
「暫く、か……」
「人間では済まぬだろうが、どうせ寿命は短い。死んだら即刻次を探せ」
長老はさも当然のように言った。
その当然さが、珠璃の喉を塞いだ。
廓の番頭も、楼主も、客も、みな同じ顔で言った。
一人で済む。少し我慢すればよい。皆が助かる。
遊女が死んだら、予てから育てていた者を次に披露して、客を取らせる。
花の命は短く、せいぜい十年だから、数年早く消えただけ。
「それに、もともと廓の娘であろう。九郎助の発情を受け止める花嫁になれるなら、上首尾ではないか」
九郎助の手の中に、狐火が生まれた。
それは一瞬、綺麗な玉のように光る。
次の瞬間、九郎助は狐火を握り潰した。
火は掌の中で砕け、金色の粉になって板へ落ちる。
社の奥から様子を覗き見していた妖たちが、ざわりと息を呑んだ。
長老の黒い眼が、また冥府の底のように暗くなる。
「この娘は軛になど、せぬ」
「九郎助」
「珠璃は結界の杭ではない」
珠璃は、九郎助の横顔を見上げた。
怒っている。
けれど、その怒りは珠璃へ向いていない。
「朱籬の女たちは、俺にとって知らぬ者ではない」
金の眼が、社の奥を射る。
黒狐の役目は、冥府へ落ちたものを逃さぬことだ。
生命を終えた人間も、妖も、境の向こうへ押し留める。
だから、これほど厳格に線を引こうとするのだと、珠璃にも判って来ていた。
「九郎助稲荷の前で、幾人も泣いていた。客を呪う者。病を隠す者。子を宿して震える者。身請けを願う者。死んだ姐の名を、誰にも聞こえぬように置いていく者」
お社の前で手を合わせる遊女たち。
灯りの届かぬ端に隠れ、絢爛な袖へ顔を伏せる。
願いなど叶わぬと知りながら、それでも祈らずにはいられぬ女たち。
その姿を、九郎助はすべて見ていたのだ。
「願いは、みな重かった。恨みも、猶深かった。どれも穢れなどと一言で片付けてよいものではない」
九郎助は、一歩前へ出た。
社の床板が軋む。
「里は守る。都も守る」
「――では、契れ。お前の色に染めて、里に馴染ませろ」
「珠璃が俺を選んでくれたら、だ」
その言葉に、珠璃の胸が強く鳴った。
契る。
色に染める。
どれも廓で聞けば、女から選ぶ権を奪う言葉だった。
けれど九郎助は、選べと言う。
珠璃に。
「たかが人間の女のために、里を危うくするか」
黒狐の長老の言葉に、社の奥で何かが蠢いた。
灯りの届かぬ闇が、ふと呼吸したように見える。
「たかが、ではない」
「結界が揺らげば、集まって来るぞ。……まだ物の怪にも至らぬ、名を忘れた者どもが」
九郎助が長老を睥睨した。
その眼に、珠璃は初めて妖狐の強い気配を見た。
いつもの気遣いでもない。
庇護でもない。
触れれば燃える、刃のような怒りだった。
長老は暫し黙った。
やがて、調子を変える。
「お前は九尾になる妖狐だぞ」
「知っている」
「狐を束ね、物の怪どもと渡り合う」
「……そうだ」
「ならば、一刻も早く番を選べ。寿命の長い妖狐の姫を迎えよ。早う契って、契って、妖気を養い、尾を増やせ。人間の娘など、すぐに老いる」
珠璃は目を伏せた。
すぐに老いる。
その言葉は、どの罵倒よりも深く刺さった。
廓での価値は、若さだった。
肌の張り。
まだ誰にも触れられていないこと。
水揚げを済ませ、引付座敷で三々九度の真似事をし、床入りの手練手管を覚えて客を喜ばせること。
そこでは婚礼に似せた杯事さえ、男を繋ぎ止めるための道具だった。
その全てを、別の価値観から容易く踏み抜かれた気がした。
人間だから老い易い。
老い易いから、価値は殆どない。
珠璃は、九郎助の隣に長くは居られない。
ならば、物の怪へ堕ちかけた娘を軛に使えばよい。
匂いなり、気配なりで、妖の里の目くらましにしてしまえばよい。
長老の言葉は、そうした理屈へ向かっているようだった。
珠璃は、自分が責められているのだと思った。
判っているのに、逃げ出せない。
妖の里からも、九郎助の横からも。
あの物の怪が、どうやら自分を狙ったものらしいということもある。
けれど、それだけではない。
九郎助が、それでも珠璃を救うと言い切る理由が判らなかった。
物の怪へ堕ちかけたから。
結界の軛になるから。
契れば力が増すから。
そういう理由なら、まだ判る。
けれど、そうではないと言われたら、尚更判らない。
泣きたい気持ちに似ていた。
けれど、涙にはならなかった。
何しろ、泣き方さえ商売道具にされた身である。
肩には、九郎助の羽織を掛けている。
足許は、三和土にあった男物の日和下駄だった。
羽織は重く、土と夜露と、どこか焦げた狐火の匂いがした。
犬槐の林が見えてくる。
細くまっすぐな木と木の間、その奥に、一際大きな古い社が覗いていた。
苔むした鳥居が幾重にも並んでいる。
その先で、何かが紗のように揺れていた。
目にはっきりとは見えない。
それなのに、その周囲の空気が重いとでもいうように、ゆったりと凪いでいる。
社の奥、槻の大径木の下に黒衣の老人が座していた。
老人と見えたのは一瞬で、次には黒狐が蹲っているようにも見えた。
尾は土に溶けている。
その眼は、冥府の井戸のように深く黒く濡れていた。
「それが物の怪に狙われた、人間の廓の娘か」
長老の一言で、珠璃の足が止まった。
名ではない。また、場所で呼ばれた。
廓の娘。売られた娘。
いつも同じ鉤札になって、首に掛かる。
「珠璃だ」
九郎助が言った。
短い言葉なのに、社の奥まで刃のように通った。
黒狐の長老は、面倒そうに目を細めた。
名を呼ぶことそのものが、余計な情けであるかのようだった。
「名などどうでもよい。九郎助、お前は人間の社を気にし過ぎる」
長老の尾が、古い板敷の上をゆるりと払った。
埃と、乾いた獣の匂いが僅かに立つ。
その眼には、拝む者の顔など一つも映っていないようだった。
「信仰だけ妖力として吸い上げればいいものを」
吐き捨てるような物言いだった。
人間の祈りも、願いも、名前も、ただ妖力へ変えるためのもの。
そう言い切れる者の眼には、きっと社の前で手を合わせる紅扇姐さまの姿など映らない。
「人間を識ってこその妖力だ」
九郎助の返事は短かった。
けれど、そこに迷いはない。
ただ信仰を食うのみであれば、低級な妖と変わらぬ。
長老へ向けたまなざしには、そんな冷えた断じ方があった。
「……妖と人間とを隔てた結界が揺らいでおる」
「ああ」
「冥府へ落ちた者どもが、戻ろうとしている」
黒狐の長老の尾が、社の板敷を忌々しげに払った。
「廓に溜め込まれた怨念は、都の水路から噴き上がる寸前じゃ」
珠璃の背に、冷たいものが走った。
水路と聞いた途端、朱籬廓を囲む水の暗さが胸へ戻って来る。
売られた女。
捨てられた女。
病み、恨み、名もなく消えた女。
そのすべてが、水の底から戻ろうとしているのだとしたら。
「結界も、もう長くは持つまい」
廓の中で命を落としていった遊女たちの話だ。
名を奪われ、恨みを呑み、葭海の向こうで消えていった者たち。
一人一人は知らない筈なのに、なぜか知っている気がした。
「ならば、なおさら珠璃を手元に置く」
「愚かな――」
長老は立ち上がった。
黒い尾が床を擦る音が走った。
珠璃は九郎助から借りた羽織の端を、知らぬ間に握り締めていた。
「その娘はよい軛になる。まだ物の怪へ堕ちきってもいない。境を縫うには恰度よい」
軛。縫う。恰度よい。
またしても珠璃をものとして見ている言葉だ。
「もしくは九郎助、お前が正式に契ればよい。花嫁として縛れば、その娘は妖狐へ寄る。里も暫くは持ち堪える」
「暫く、か……」
「人間では済まぬだろうが、どうせ寿命は短い。死んだら即刻次を探せ」
長老はさも当然のように言った。
その当然さが、珠璃の喉を塞いだ。
廓の番頭も、楼主も、客も、みな同じ顔で言った。
一人で済む。少し我慢すればよい。皆が助かる。
遊女が死んだら、予てから育てていた者を次に披露して、客を取らせる。
花の命は短く、せいぜい十年だから、数年早く消えただけ。
「それに、もともと廓の娘であろう。九郎助の発情を受け止める花嫁になれるなら、上首尾ではないか」
九郎助の手の中に、狐火が生まれた。
それは一瞬、綺麗な玉のように光る。
次の瞬間、九郎助は狐火を握り潰した。
火は掌の中で砕け、金色の粉になって板へ落ちる。
社の奥から様子を覗き見していた妖たちが、ざわりと息を呑んだ。
長老の黒い眼が、また冥府の底のように暗くなる。
「この娘は軛になど、せぬ」
「九郎助」
「珠璃は結界の杭ではない」
珠璃は、九郎助の横顔を見上げた。
怒っている。
けれど、その怒りは珠璃へ向いていない。
「朱籬の女たちは、俺にとって知らぬ者ではない」
金の眼が、社の奥を射る。
黒狐の役目は、冥府へ落ちたものを逃さぬことだ。
生命を終えた人間も、妖も、境の向こうへ押し留める。
だから、これほど厳格に線を引こうとするのだと、珠璃にも判って来ていた。
「九郎助稲荷の前で、幾人も泣いていた。客を呪う者。病を隠す者。子を宿して震える者。身請けを願う者。死んだ姐の名を、誰にも聞こえぬように置いていく者」
お社の前で手を合わせる遊女たち。
灯りの届かぬ端に隠れ、絢爛な袖へ顔を伏せる。
願いなど叶わぬと知りながら、それでも祈らずにはいられぬ女たち。
その姿を、九郎助はすべて見ていたのだ。
「願いは、みな重かった。恨みも、猶深かった。どれも穢れなどと一言で片付けてよいものではない」
九郎助は、一歩前へ出た。
社の床板が軋む。
「里は守る。都も守る」
「――では、契れ。お前の色に染めて、里に馴染ませろ」
「珠璃が俺を選んでくれたら、だ」
その言葉に、珠璃の胸が強く鳴った。
契る。
色に染める。
どれも廓で聞けば、女から選ぶ権を奪う言葉だった。
けれど九郎助は、選べと言う。
珠璃に。
「たかが人間の女のために、里を危うくするか」
黒狐の長老の言葉に、社の奥で何かが蠢いた。
灯りの届かぬ闇が、ふと呼吸したように見える。
「たかが、ではない」
「結界が揺らげば、集まって来るぞ。……まだ物の怪にも至らぬ、名を忘れた者どもが」
九郎助が長老を睥睨した。
その眼に、珠璃は初めて妖狐の強い気配を見た。
いつもの気遣いでもない。
庇護でもない。
触れれば燃える、刃のような怒りだった。
長老は暫し黙った。
やがて、調子を変える。
「お前は九尾になる妖狐だぞ」
「知っている」
「狐を束ね、物の怪どもと渡り合う」
「……そうだ」
「ならば、一刻も早く番を選べ。寿命の長い妖狐の姫を迎えよ。早う契って、契って、妖気を養い、尾を増やせ。人間の娘など、すぐに老いる」
珠璃は目を伏せた。
すぐに老いる。
その言葉は、どの罵倒よりも深く刺さった。
廓での価値は、若さだった。
肌の張り。
まだ誰にも触れられていないこと。
水揚げを済ませ、引付座敷で三々九度の真似事をし、床入りの手練手管を覚えて客を喜ばせること。
そこでは婚礼に似せた杯事さえ、男を繋ぎ止めるための道具だった。
その全てを、別の価値観から容易く踏み抜かれた気がした。
人間だから老い易い。
老い易いから、価値は殆どない。
珠璃は、九郎助の隣に長くは居られない。
ならば、物の怪へ堕ちかけた娘を軛に使えばよい。
匂いなり、気配なりで、妖の里の目くらましにしてしまえばよい。
長老の言葉は、そうした理屈へ向かっているようだった。
珠璃は、自分が責められているのだと思った。
判っているのに、逃げ出せない。
妖の里からも、九郎助の横からも。
あの物の怪が、どうやら自分を狙ったものらしいということもある。
けれど、それだけではない。
九郎助が、それでも珠璃を救うと言い切る理由が判らなかった。
物の怪へ堕ちかけたから。
結界の軛になるから。
契れば力が増すから。
そういう理由なら、まだ判る。
けれど、そうではないと言われたら、尚更判らない。
泣きたい気持ちに似ていた。
けれど、涙にはならなかった。
何しろ、泣き方さえ商売道具にされた身である。



