九郎助は、陽が高くなっても戻らなかった。
代わりに団吾が来て、炉に粥の鍋を吊り、湯を沸かし、何かと世話を焼いてくれた。
ただ、団吾は珠璃へ近付く時、少し距離を置く。
気を遣われているのだと、暫くしてから判った。
夕暮れ近く、草庵の外で枝の折れる音がした。
戸は叩かれもせず開き、九郎助が入って来る。
「明朝、長老の前へ」
「わたしも?」
「ああ」
眠っていないらしい九郎助の目が、緋の襦袢に落ちた。
一瞬、金の眼の奥を、苛立ちに似たものが走る。
珠璃は咄嗟に袖を合わせた。
隠すほどの肌は見えていない。
それでも、この妖の里で襦袢一枚のまま人前に出ることが、どれほどの恥なのか。
それすら、珠璃には皆目見当が付かない。
「着物を仕立てる暇がない」
九郎助は短く言った。
苛立っているのは、珠璃にではないらしい。
この姿のまま他の者の前へ出さねばならぬことに、腹を立てているようだった。
「俺の羽織を羽織っていろ」
そう言って、九郎助は自分の肩から羽織を外した。
怒りでも、哀れみでもない。
何かを押し殺している顔だった。
羽織を掛ける手は、珠璃の肩先へ触れる寸前で止まる。
襦袢越しの肌へ触れぬよう、布だけをそっと落とした。
欲なのか、怒りなのか。
それとも、もっと別のものなのか。
ただ、男がそんな顔をしながら触れてこないことが、珠璃には不思議だった。
「長老って?」
「黒狐だ。泉下と行き来ができる。人間の言葉で言えば黄泉の下、つまり冥府だ」
「冥府……」
「俺が社を通して人間と交信するようなものだ。もっとも、滅多に返事はせぬが」
九郎助はそこで一度、唇を引き結んだ。
次に出た言葉は、珠璃の身を冷やした。
「お前を野に放てと、言われた」
野に放つ。
人間の娘に向けるには、あまりに不似合いな言葉だった。
否、廓ではいつも、人ではないもののように扱われてきた。
飼えぬ獣。傷んだ荷。火のついた藁。
値で頷く女。抱けば逆らわず黙る女。
どれでも同じだと告げられた気がした。
九郎助は珠璃の前に膝をついた。
伸びかけた手が、肩先の少し手前で止まる。
その一拍が、珠璃には奇妙に映った。
「明日は、嫌なら出なくてよい」
「でも、わたしを出せと言われた?」
「……俺が一人で場を荒らせば済む」
荒らす。
その言い方は、冗談に聞こえなかった。
長老のお社でも、妖狐の里でも、気に入らなければ本能のままに爪を立てる。
それが妖狐のやり方なのだろう。
「ううん、出る」
「無理はするな」
どのみち廓での扱いと、そう大して違いがあるまい。
けれど、知らぬまま決められるのは、もう厭だった。
売られる時も、水揚げの日も、珠璃はいつも後から知るばかりだった。
「……そうか。そなたは強い娘だ」
九郎助は、意外そうに珠璃を見た。
それから、金の眼が僅かに和らぐ。
今度は、自分の目で見る。
ここで自分が何者として扱われるのか。
そして九郎助が、自分のために何を背負おうとしているのかを。
代わりに団吾が来て、炉に粥の鍋を吊り、湯を沸かし、何かと世話を焼いてくれた。
ただ、団吾は珠璃へ近付く時、少し距離を置く。
気を遣われているのだと、暫くしてから判った。
夕暮れ近く、草庵の外で枝の折れる音がした。
戸は叩かれもせず開き、九郎助が入って来る。
「明朝、長老の前へ」
「わたしも?」
「ああ」
眠っていないらしい九郎助の目が、緋の襦袢に落ちた。
一瞬、金の眼の奥を、苛立ちに似たものが走る。
珠璃は咄嗟に袖を合わせた。
隠すほどの肌は見えていない。
それでも、この妖の里で襦袢一枚のまま人前に出ることが、どれほどの恥なのか。
それすら、珠璃には皆目見当が付かない。
「着物を仕立てる暇がない」
九郎助は短く言った。
苛立っているのは、珠璃にではないらしい。
この姿のまま他の者の前へ出さねばならぬことに、腹を立てているようだった。
「俺の羽織を羽織っていろ」
そう言って、九郎助は自分の肩から羽織を外した。
怒りでも、哀れみでもない。
何かを押し殺している顔だった。
羽織を掛ける手は、珠璃の肩先へ触れる寸前で止まる。
襦袢越しの肌へ触れぬよう、布だけをそっと落とした。
欲なのか、怒りなのか。
それとも、もっと別のものなのか。
ただ、男がそんな顔をしながら触れてこないことが、珠璃には不思議だった。
「長老って?」
「黒狐だ。泉下と行き来ができる。人間の言葉で言えば黄泉の下、つまり冥府だ」
「冥府……」
「俺が社を通して人間と交信するようなものだ。もっとも、滅多に返事はせぬが」
九郎助はそこで一度、唇を引き結んだ。
次に出た言葉は、珠璃の身を冷やした。
「お前を野に放てと、言われた」
野に放つ。
人間の娘に向けるには、あまりに不似合いな言葉だった。
否、廓ではいつも、人ではないもののように扱われてきた。
飼えぬ獣。傷んだ荷。火のついた藁。
値で頷く女。抱けば逆らわず黙る女。
どれでも同じだと告げられた気がした。
九郎助は珠璃の前に膝をついた。
伸びかけた手が、肩先の少し手前で止まる。
その一拍が、珠璃には奇妙に映った。
「明日は、嫌なら出なくてよい」
「でも、わたしを出せと言われた?」
「……俺が一人で場を荒らせば済む」
荒らす。
その言い方は、冗談に聞こえなかった。
長老のお社でも、妖狐の里でも、気に入らなければ本能のままに爪を立てる。
それが妖狐のやり方なのだろう。
「ううん、出る」
「無理はするな」
どのみち廓での扱いと、そう大して違いがあるまい。
けれど、知らぬまま決められるのは、もう厭だった。
売られる時も、水揚げの日も、珠璃はいつも後から知るばかりだった。
「……そうか。そなたは強い娘だ」
九郎助は、意外そうに珠璃を見た。
それから、金の眼が僅かに和らぐ。
今度は、自分の目で見る。
ここで自分が何者として扱われるのか。
そして九郎助が、自分のために何を背負おうとしているのかを。



