そのとき奥の土間から、がたん、と鍋の蓋が鳴った。
「姫さまァ、腹が減っとると怒りっぽくなりますぞ」
場違いなほど間の抜けた調子で、誰かが口を挟んだ。
現れたのは、小鬼だった。
背丈は珠璃の腰ほどしかない。
頭は大きく、額には短い角が一本、頬は赤く、腕だけは妙に太い。
前掛けを締め、両手に湯気の立つ盆を抱えている。
盆の上には粥の椀と、焼いた葱、味噌を塗った握り飯、小さな漬物皿が並んでいた。
「誰が怒りっぽいのじゃ」
「姫さまですな」
「黙れ、団吾」
「黙ると飯が冷めますでな。九郎助さまも、お客人も、まず食ってから揉めなされ」
小鬼は悪びれもせず、炉端へ盆を置いた。
湯気が上がる。
米の匂いがする。
続いて葱の焦げた甘さと、味噌の香ばしさ。
珠璃の腹が、忘れていたように小さく鳴った。
恥ずかしくなって、袖の内で指を握る。
葛葉は、それを見逃さなかった。
「そんなにきつそうに腰紐を締めるからじゃ。腹が減っておるなら食べればよかろう」
「……頂いて、よいの」
「なぜわしに聞く」
「その、後で帳面に……」
言い終える前に、小鬼が目を丸くした。
「帳面? 飯を食うのに帳面が要りますかい」
珠璃は返事ができなかった。
朱籬廓では、何にせよ無料のことはなかった。
飯も、薬も、衣も、休み、情けも、すべてどこかで借りになった。
泣いた子は飯を減らされ、助けられれば誰かの借りが増えた。
だから差し出された椀を前にしても、まず考えてしまう。
これは誰の損になるのか。
後で、いくら返せと言われるのか。
九郎助が椀を一つ取り、珠璃の前へ置いた。
「飯は飯だ」
「……」
「食え」
珠璃は恐る恐る椀を持った。
熱が掌へ移る。
粥を一口含むと、煙に焼かれた喉へ染みた。
少し痛い。
けれど飲み込めた。米の甘さが、体の奥で解ける。
「泣くでないぞ」
葛葉が言った。
珠璃は反射的に椀を下ろしかけた。
「泣いたら、飯を下げられるの……?」
その場の空気が、ぴたりと止まった。
小鬼の団吾が、困ったように盆を抱え直す。
葛葉は何か言いかけて、口を閉じた。
九郎助が、珠璃を見た。
「下げぬ」
葛葉が、少し間を置いて言った。
「この里では、泣いた者から飯を取り上げたりせぬ」
珠璃は椀を見下ろした。
湯気で目元が熱くなる。
泣いているのではない。
粥の湯気が、目に触れただけだ。
そう思おうとしたが、うまくいかない。
「わしらは泉で水浴びするんでな。風呂は好きに使え」
そう言った葛葉は、わざとそっけなく顎をつんと逸らした。
けれど風呂場の戸を指す手つきには、優しい気遣いが籠っている気がした。
「姫さまァ、腹が減っとると怒りっぽくなりますぞ」
場違いなほど間の抜けた調子で、誰かが口を挟んだ。
現れたのは、小鬼だった。
背丈は珠璃の腰ほどしかない。
頭は大きく、額には短い角が一本、頬は赤く、腕だけは妙に太い。
前掛けを締め、両手に湯気の立つ盆を抱えている。
盆の上には粥の椀と、焼いた葱、味噌を塗った握り飯、小さな漬物皿が並んでいた。
「誰が怒りっぽいのじゃ」
「姫さまですな」
「黙れ、団吾」
「黙ると飯が冷めますでな。九郎助さまも、お客人も、まず食ってから揉めなされ」
小鬼は悪びれもせず、炉端へ盆を置いた。
湯気が上がる。
米の匂いがする。
続いて葱の焦げた甘さと、味噌の香ばしさ。
珠璃の腹が、忘れていたように小さく鳴った。
恥ずかしくなって、袖の内で指を握る。
葛葉は、それを見逃さなかった。
「そんなにきつそうに腰紐を締めるからじゃ。腹が減っておるなら食べればよかろう」
「……頂いて、よいの」
「なぜわしに聞く」
「その、後で帳面に……」
言い終える前に、小鬼が目を丸くした。
「帳面? 飯を食うのに帳面が要りますかい」
珠璃は返事ができなかった。
朱籬廓では、何にせよ無料のことはなかった。
飯も、薬も、衣も、休み、情けも、すべてどこかで借りになった。
泣いた子は飯を減らされ、助けられれば誰かの借りが増えた。
だから差し出された椀を前にしても、まず考えてしまう。
これは誰の損になるのか。
後で、いくら返せと言われるのか。
九郎助が椀を一つ取り、珠璃の前へ置いた。
「飯は飯だ」
「……」
「食え」
珠璃は恐る恐る椀を持った。
熱が掌へ移る。
粥を一口含むと、煙に焼かれた喉へ染みた。
少し痛い。
けれど飲み込めた。米の甘さが、体の奥で解ける。
「泣くでないぞ」
葛葉が言った。
珠璃は反射的に椀を下ろしかけた。
「泣いたら、飯を下げられるの……?」
その場の空気が、ぴたりと止まった。
小鬼の団吾が、困ったように盆を抱え直す。
葛葉は何か言いかけて、口を閉じた。
九郎助が、珠璃を見た。
「下げぬ」
葛葉が、少し間を置いて言った。
「この里では、泣いた者から飯を取り上げたりせぬ」
珠璃は椀を見下ろした。
湯気で目元が熱くなる。
泣いているのではない。
粥の湯気が、目に触れただけだ。
そう思おうとしたが、うまくいかない。
「わしらは泉で水浴びするんでな。風呂は好きに使え」
そう言った葛葉は、わざとそっけなく顎をつんと逸らした。
けれど風呂場の戸を指す手つきには、優しい気遣いが籠っている気がした。



