奥へ奥へ進むと、楠の森に抱かれるように、大きな寄棟造があった。
冬でも葉を落としきらぬ楠の陰に、藁葺きの屋根が低く佇んでいる。
森に埋もれるようなその建物を、九郎助は草庵と呼んだ。
隣には、小さな社がひっそり祀られている。
紅扇姐さんと通った、九郎助稲荷のお社に酷似だった。
周囲には、葉を落とした銀杏の木まである。
どうやら、ただの妖ではないようだ。
この里の名を冠し、お社にその名を祀られ、小鬼たちを従えている。
九郎助は、人ならざる妖狐の長なのだと、漸く思い至った。
門は朱塗りでも黒塗りでもなかった。
古い木の肌を、そのまま残している。
手前には、稲が植えられていたらしい水田が広がっていた。
垣根の端、門柱には狐の面が一つ掛けられている。
笑っているのか、怒っているのか判らない顔だ。
九郎助の背から伸びる尻尾について中へ入ると、広い土間があった。
奥には囲炉裏が切られている。
火は落ちていたが、灰の下にはまだ赤いものが眠っていた。
壁には、小さな硝子の壺が処々に掛けられている。
その中で、狐火が静かに点っていた。
胡粉の匂いはしない。香もない。
格子の嵌められた窓もない。
あるのはただ、木と灰と干した草、炊いた米の名残だった。
珠璃は、その匂いにかえって戸惑った。
ここには客を迎えるための飾りがない。
なのに、どこも空っぽではなく温かかった。
「誰も買わん」
「……え」
「ここでは、その座り方に値はつかない」
言われた途端、珠璃は身の置き場所を失った。
値がつかない座り方など、忘れてしまっていたのだ。
「俺の前でまで、客に見せる顔をするな」
それは叱責ではなかった。
九郎助の金の眼には、熱がある。
けれどその熱は、珠璃を値踏みするものではない。
見世から取り返そうとする、ひどく静かな所有欲だった。
そのとき、奥の障子が開いた。
「兄さま」
現れたのは、白い衣の少女だった。
ただ若いというだけではない。
軽く結わえたきりの髪は、銀色に見えた。
否、銀ではない。
九郎助と同じ、白い霞を纏った髪だった。
衣の裾には、狐火のような文様が淡く浮かんでいる。
金の眼は、九郎助によく似ていた。
少女は、先ず九郎助を見た。
次に、長襦袢姿で座る珠璃を見る。
炉端の近さ。
乱れた襦袢。
九郎助の差し出したままの手。
その場の形が、あまりにも出来すぎていた。
九郎助は片膝をつき、珠璃の前に身を低くしている。
片手は肩先へ届きかけ、もう片方は血の滲んだ膝へ差し伸べられていた。
珠璃は、その腕の間で息を詰めている。
身を引くことさえ忘れたような格好だった。
逃げる折に打掛も振袖も脱ぎ捨てたため、身に残るのは薄物きりだ。
裾は膝のあたりで乱れ、花魁座りの名残で片脚が斜めへ流れている。
解けかけた喉元。
交差した白い脚。
そこへ触れようとする、九郎助の手。
座り方を直していたきりとは、とても見えない。
灯りに切り取られたその一瞬は、男が今しも女を腕の内へ引き寄せ、褥へ誘おうとしている場面のようだった。
少女の金の眼が、すっと細くなる。
その視線と交わった瞬間、珠璃には判った。
――歓迎されていない。
「人間を、我らが屋へ入れたのか」
「葛葉」
「物の怪の匂いがする」
九郎助が名を呼んでも、葛葉の目は珠璃から離れなかった。
よく似た金色の眼が、ぎらぎらと光っている。
幼い顔立ちに不似合いなほど、冷えた眼差しだった。
薄物の襦袢、乱れた裾、泥のついた素足、崩れた髪。
そのすべてを、葛葉は一つずつ検めていく。
「しかも色街の女ではないか」
色街の女。
廓の外へ連れ出された筈なのに、その言葉は投げつけられた。
名ではなく場所で呼ばれたのだ。
「縁があったのだ」
葛葉の眉が動いた。
「その縁とやらに、物の怪が喰いついて来たのであろう」
「だから連れて来た」
「順が逆じゃ。連れて来たから、きっと喰いつかれるのじゃ」
珠璃は、姐さまの包みを握り込んだ。
実際、物の怪は珠璃を見つけたのだ。
名を奪われたもの。
売られたもの。
恨みを呑んだもの。
まだ堕ちきらぬもの。
あの言葉は、まだ耳の奥に残っている。
冬でも葉を落としきらぬ楠の陰に、藁葺きの屋根が低く佇んでいる。
森に埋もれるようなその建物を、九郎助は草庵と呼んだ。
隣には、小さな社がひっそり祀られている。
紅扇姐さんと通った、九郎助稲荷のお社に酷似だった。
周囲には、葉を落とした銀杏の木まである。
どうやら、ただの妖ではないようだ。
この里の名を冠し、お社にその名を祀られ、小鬼たちを従えている。
九郎助は、人ならざる妖狐の長なのだと、漸く思い至った。
門は朱塗りでも黒塗りでもなかった。
古い木の肌を、そのまま残している。
手前には、稲が植えられていたらしい水田が広がっていた。
垣根の端、門柱には狐の面が一つ掛けられている。
笑っているのか、怒っているのか判らない顔だ。
九郎助の背から伸びる尻尾について中へ入ると、広い土間があった。
奥には囲炉裏が切られている。
火は落ちていたが、灰の下にはまだ赤いものが眠っていた。
壁には、小さな硝子の壺が処々に掛けられている。
その中で、狐火が静かに点っていた。
胡粉の匂いはしない。香もない。
格子の嵌められた窓もない。
あるのはただ、木と灰と干した草、炊いた米の名残だった。
珠璃は、その匂いにかえって戸惑った。
ここには客を迎えるための飾りがない。
なのに、どこも空っぽではなく温かかった。
「誰も買わん」
「……え」
「ここでは、その座り方に値はつかない」
言われた途端、珠璃は身の置き場所を失った。
値がつかない座り方など、忘れてしまっていたのだ。
「俺の前でまで、客に見せる顔をするな」
それは叱責ではなかった。
九郎助の金の眼には、熱がある。
けれどその熱は、珠璃を値踏みするものではない。
見世から取り返そうとする、ひどく静かな所有欲だった。
そのとき、奥の障子が開いた。
「兄さま」
現れたのは、白い衣の少女だった。
ただ若いというだけではない。
軽く結わえたきりの髪は、銀色に見えた。
否、銀ではない。
九郎助と同じ、白い霞を纏った髪だった。
衣の裾には、狐火のような文様が淡く浮かんでいる。
金の眼は、九郎助によく似ていた。
少女は、先ず九郎助を見た。
次に、長襦袢姿で座る珠璃を見る。
炉端の近さ。
乱れた襦袢。
九郎助の差し出したままの手。
その場の形が、あまりにも出来すぎていた。
九郎助は片膝をつき、珠璃の前に身を低くしている。
片手は肩先へ届きかけ、もう片方は血の滲んだ膝へ差し伸べられていた。
珠璃は、その腕の間で息を詰めている。
身を引くことさえ忘れたような格好だった。
逃げる折に打掛も振袖も脱ぎ捨てたため、身に残るのは薄物きりだ。
裾は膝のあたりで乱れ、花魁座りの名残で片脚が斜めへ流れている。
解けかけた喉元。
交差した白い脚。
そこへ触れようとする、九郎助の手。
座り方を直していたきりとは、とても見えない。
灯りに切り取られたその一瞬は、男が今しも女を腕の内へ引き寄せ、褥へ誘おうとしている場面のようだった。
少女の金の眼が、すっと細くなる。
その視線と交わった瞬間、珠璃には判った。
――歓迎されていない。
「人間を、我らが屋へ入れたのか」
「葛葉」
「物の怪の匂いがする」
九郎助が名を呼んでも、葛葉の目は珠璃から離れなかった。
よく似た金色の眼が、ぎらぎらと光っている。
幼い顔立ちに不似合いなほど、冷えた眼差しだった。
薄物の襦袢、乱れた裾、泥のついた素足、崩れた髪。
そのすべてを、葛葉は一つずつ検めていく。
「しかも色街の女ではないか」
色街の女。
廓の外へ連れ出された筈なのに、その言葉は投げつけられた。
名ではなく場所で呼ばれたのだ。
「縁があったのだ」
葛葉の眉が動いた。
「その縁とやらに、物の怪が喰いついて来たのであろう」
「だから連れて来た」
「順が逆じゃ。連れて来たから、きっと喰いつかれるのじゃ」
珠璃は、姐さまの包みを握り込んだ。
実際、物の怪は珠璃を見つけたのだ。
名を奪われたもの。
売られたもの。
恨みを呑んだもの。
まだ堕ちきらぬもの。
あの言葉は、まだ耳の奥に残っている。



