十四になった時、深朱は振袖新造になった。
禿の頃より袖は長く、髪には飾りが増え、赤襟の返し方一つにも姐さまたちの目が入る。けれど、それは自由を許された印ではなかった。一段見られる側へ近付いたという丈だった。
膝を揃える。指を伸ばす。背を丸めない。目を伏せすぎない。流し目で人を見る。
客の前へ出る前から、深朱の身体はいつか見られる客の眼に合わせて作り直されていった。
だのに、より一層、番頭新造の八つ当たりは厳しいものになった。
その年の春、同じ見世の先輩新造が、初めて見世張りに出されることになった。
紅扇姐さまのように、箱提灯を掲げ、金棒を鳴らし、長柄の傘の下を外八文字で進むわけではない。
その姐やは格子の内へ座らされ、燭台の灯に照らされ、通りがかる客に髪の艶から指先まで測られる。
紅扇は、歩けば道を従える。
先輩新造は、格子に座れば値になる。
同じ姐やでも、置かれる場所で意味が変わる。
深朱はそのことを、格子の陰で姐やの後ろに流した裾を直しながら胸に刻んだ。
そのとき、格子の外にいる一人の客と目が合った。
年嵩の男だった。派手ではない。
けれど袖の質も、脇に控える者の目つきも、ただの素見ではないことを示している。通人なのだろう。穴知りで訳知りと呼ばれる客だ。
遊郭の表も裏も知り尽くした顔をしている客だった。
「あの振新は、いずれ化けるな」
男は先輩新造ではなく、背後に身を縮こまらせるようにしていた深朱を見て言った。
番頭新造がすかさず話の腰を折る。
「あら、旦那。お目が高いこと。まだ格子にも据えちゃいない子でありんすよ。先々の水揚げまで唾をつけておきなんすか。高う付きんすよ」
「考えておこう」
それ丈で、深朱の背に冷たいものが落ちた。
水揚げという言葉の意味は、もう知らぬ年ではなかった。
知っていても、知らぬ顔をしなければならない年だった。
番頭新造の目が、一瞬こちらへ走った。
羨みとも憎しみともつかぬものが、白粉の下でぬらりと光る。
高く買われる娘を見る目だった。
かつて自分にはつかなかった値を、深朱の中に見付けてしまった女の目だった。
事が起きたのは、その夜だった。
深朱は姐さまに頼まれていた鬼灯の包みを、袖の奥に隠していた。
ふいに台所に続く廊下の角で、番頭新造に呼び止められた。
「袖が重そうだねェ」
逃げる暇はなかった。
包みは床に落ちた。
鬼灯の毒々しい赤が床に転がった。
番頭新造の唇が歪む。
「水揚げ前から、陰で不見転の荒稼ぎでもする気かい」
紅扇姐さまの名を言うこともできた。
頼まれたのだと言えば、深朱の咎ではなくなる。
けれど紅扇姐さまの名を出した途端、姐さまも済まされない。
番頭新造は、それを待っている。
この女は深朱丈が憎いのではない。
売れっ子花魁の紅扇姐さまが憎い。
紅扇姐さまの傍に置かれる深朱が憎い。
自分が座れなかった場所へ、まだ何も知らぬ娘が招かれている。その娘は招かれたことの重ささえ知らない。
年を重ねた女にはもう得られぬ席がある。遊女として選ばれる前の疵の浅さも、まだ値の定まらぬ余白も、深朱は知らぬ顔で全てを持っていた。
庇う相手がいること。庇われる丈のつながりがあること。
そのやり取り一つ一つを日々見ることさえ、女の疵口へ塩を塗るのだ。
それが、たまらないのだ。
男にも、女にも、見世にも、選ばれなかった年月が女の目の奥に澱んでいる。
欲しい場所へ呼ばれなかった、湿った怨念だった。
だから番頭新造は深朱の沈黙を内心喜んでいる。
「不見転だってェ!?」
そのとき、遣り手婆が血相を抱えて板間から滑り出て来た。
深朱は答えなかった。不見転の意味を知らなかったのだ。
ただ、それが女をひどく汚す言葉なのだということ丈は、番頭新造の笑い方でわかった。
楼主は怒鳴らなかった。
奥から出て来て、床に転がった鬼灯を一つ見た丈だった。
「顔は残せ。手も残せ。膝もだ。疵になる折檻はするな」
それから深朱を見る。
「余計な計算丈、削げ」
連れて行かれたのは、見世の蔵の奥だった。
壁際に大きな桶が置かれていた。
客が揚代を払えぬ時に晒す、桶伏せの話は聞いたことがある。飯丈は与えられ、身を動かすことも許されず、家の者が金を持ってくるまで置かれるのだと。
深朱に与えられたのは、それに似た罰だった。
手首を結ばれ、膝を折らされ、腰を浮かせることも、倒れることもできぬ姿にされる。桶をかぶせられると、暗がりが顔のすぐ近くまで落ちてきた。内側には古い木と湿気とが染みついている。深朱は口を閉じた。閉じていれば、何とかなると思った。
外で何かを焚く音がした。
最初は藁の匂いだった。
次に山椒。乾いた莨の葉。最後に少し唐辛子が混じった。
燻し責めだ。
息を吸った瞬間、喉の奥が焼けた。
咳が出る。咳をすると、桶の内側で熱が跳ね返る。
目から涙があふれ、鼻の奥が裂けるように痛む。
顔を覆いたくても、手は動かない。
膝がしびれ、爪先の感覚が薄れていく。
助けて、と言おうとしても、咳に切られて声にならない。
桶の外で番頭新造が凄絶に嗤っている。
「あは、あァ……鄙女にはよく似合うじゃないか」
都生まれ。
この女に最後まで残った自慢は、おそらくそれきりなのだ。
事あるごとに深朱を田舎娘扱いしてくる。
もう八年近くも廓にいるのに。
もうすぐ水揚げからの苦界十年に入る。
生まれ落ちた境遇だけは、生涯変えようがないのだから、この先どれほど廓暮らしを重ねようと言い続けるのだろう。
――鄙女、と。
この女の前で丈は泣きたくない。
なのに煙が目に滲み、涙が止まらない。
苦しい。熱い。息が足りない。
逃げることは敵わない。
身体の自由は全て奪われていた。
どれほど経ったのかわからない。
桶の前を行き来する足音が変わった。
「そこまでにしなんし」
紅扇姐さまだった。
お座敷をほっぽり出して来てくれたのだ。
「この子は、妾の預かりだんす」
「なら、あんたの仕込みが悪いんじゃァないのかい」
「そうでありんすね。預かりの子に、鬼灯を持たせたのは妾だんす」
桶の内で、深朱は息を詰めた。
紅扇姐さまが、自分から名乗り出ている。
「けれど鬼灯を持っていたことと、お前が口にした咎とは別でありんしょう」
「……」
「濡れ衣の上へ、誤解まで被せるのはおよしなんし。重くて、子どもが潰れんす」
鬼灯を持っていた。それは確かだ。
けれど、番頭新造が口にしたような使い道ではない。
そのことを、深朱は後になって紅扇姐さまから聞かされた。
番頭新造は黙っていた。
もう目的を果たしている。
弁解などする気もないようだ。
「金なら払うだんす」
じゃらり、と金の音がした。
深朱は桶の内で目を開けた。
涙で何も見えない。
けれど、その音丈は聞こえた。
姐さまが金を払っている。
折り合いの悪い番頭新造に。
深朱のために――。
助かった、と思った途端、その言葉は胸の内で潰れた。
ここで動く金は、誰かが払えば誰かの帳面に乗る。
姐さまが深朱を桶から出すために払った金は、姐さまの自由をまた一つ遠ざける金だった。
身揚りの一日、たった一夜丈息をつく余地さえ、金に変えられて帳面へ沈む。
深朱一人を助けるために姐さまの明日が削られたのだ。
そう思った瞬間、煙より苦しいものが、ひゅっと喉へ上がった。
「その子は、妾が面倒を見てるでありんす」
外気が触れた途端、深朱は咳き込んだ。
床に手をつこうとして、指がうまく開かなかった。
姐さまは結び目を解く若衆に言った。
「乱暴はおよしなんし」
紅扇姐さまの部屋へ戻ると、姐さまは深朱を鏡の前に座らせた。
濡れた手拭いで目元を拭かれ、乱れた髪に櫛を入れられる。
またしても強く引かれて痛い。けれど深朱は動かなかった。
「礼は言わなくていいよ」
姐さまが優しく言った。
「言ったら恩になるだんす。妾は高い。お前にはまだ払えない」
禿の頃より袖は長く、髪には飾りが増え、赤襟の返し方一つにも姐さまたちの目が入る。けれど、それは自由を許された印ではなかった。一段見られる側へ近付いたという丈だった。
膝を揃える。指を伸ばす。背を丸めない。目を伏せすぎない。流し目で人を見る。
客の前へ出る前から、深朱の身体はいつか見られる客の眼に合わせて作り直されていった。
だのに、より一層、番頭新造の八つ当たりは厳しいものになった。
その年の春、同じ見世の先輩新造が、初めて見世張りに出されることになった。
紅扇姐さまのように、箱提灯を掲げ、金棒を鳴らし、長柄の傘の下を外八文字で進むわけではない。
その姐やは格子の内へ座らされ、燭台の灯に照らされ、通りがかる客に髪の艶から指先まで測られる。
紅扇は、歩けば道を従える。
先輩新造は、格子に座れば値になる。
同じ姐やでも、置かれる場所で意味が変わる。
深朱はそのことを、格子の陰で姐やの後ろに流した裾を直しながら胸に刻んだ。
そのとき、格子の外にいる一人の客と目が合った。
年嵩の男だった。派手ではない。
けれど袖の質も、脇に控える者の目つきも、ただの素見ではないことを示している。通人なのだろう。穴知りで訳知りと呼ばれる客だ。
遊郭の表も裏も知り尽くした顔をしている客だった。
「あの振新は、いずれ化けるな」
男は先輩新造ではなく、背後に身を縮こまらせるようにしていた深朱を見て言った。
番頭新造がすかさず話の腰を折る。
「あら、旦那。お目が高いこと。まだ格子にも据えちゃいない子でありんすよ。先々の水揚げまで唾をつけておきなんすか。高う付きんすよ」
「考えておこう」
それ丈で、深朱の背に冷たいものが落ちた。
水揚げという言葉の意味は、もう知らぬ年ではなかった。
知っていても、知らぬ顔をしなければならない年だった。
番頭新造の目が、一瞬こちらへ走った。
羨みとも憎しみともつかぬものが、白粉の下でぬらりと光る。
高く買われる娘を見る目だった。
かつて自分にはつかなかった値を、深朱の中に見付けてしまった女の目だった。
事が起きたのは、その夜だった。
深朱は姐さまに頼まれていた鬼灯の包みを、袖の奥に隠していた。
ふいに台所に続く廊下の角で、番頭新造に呼び止められた。
「袖が重そうだねェ」
逃げる暇はなかった。
包みは床に落ちた。
鬼灯の毒々しい赤が床に転がった。
番頭新造の唇が歪む。
「水揚げ前から、陰で不見転の荒稼ぎでもする気かい」
紅扇姐さまの名を言うこともできた。
頼まれたのだと言えば、深朱の咎ではなくなる。
けれど紅扇姐さまの名を出した途端、姐さまも済まされない。
番頭新造は、それを待っている。
この女は深朱丈が憎いのではない。
売れっ子花魁の紅扇姐さまが憎い。
紅扇姐さまの傍に置かれる深朱が憎い。
自分が座れなかった場所へ、まだ何も知らぬ娘が招かれている。その娘は招かれたことの重ささえ知らない。
年を重ねた女にはもう得られぬ席がある。遊女として選ばれる前の疵の浅さも、まだ値の定まらぬ余白も、深朱は知らぬ顔で全てを持っていた。
庇う相手がいること。庇われる丈のつながりがあること。
そのやり取り一つ一つを日々見ることさえ、女の疵口へ塩を塗るのだ。
それが、たまらないのだ。
男にも、女にも、見世にも、選ばれなかった年月が女の目の奥に澱んでいる。
欲しい場所へ呼ばれなかった、湿った怨念だった。
だから番頭新造は深朱の沈黙を内心喜んでいる。
「不見転だってェ!?」
そのとき、遣り手婆が血相を抱えて板間から滑り出て来た。
深朱は答えなかった。不見転の意味を知らなかったのだ。
ただ、それが女をひどく汚す言葉なのだということ丈は、番頭新造の笑い方でわかった。
楼主は怒鳴らなかった。
奥から出て来て、床に転がった鬼灯を一つ見た丈だった。
「顔は残せ。手も残せ。膝もだ。疵になる折檻はするな」
それから深朱を見る。
「余計な計算丈、削げ」
連れて行かれたのは、見世の蔵の奥だった。
壁際に大きな桶が置かれていた。
客が揚代を払えぬ時に晒す、桶伏せの話は聞いたことがある。飯丈は与えられ、身を動かすことも許されず、家の者が金を持ってくるまで置かれるのだと。
深朱に与えられたのは、それに似た罰だった。
手首を結ばれ、膝を折らされ、腰を浮かせることも、倒れることもできぬ姿にされる。桶をかぶせられると、暗がりが顔のすぐ近くまで落ちてきた。内側には古い木と湿気とが染みついている。深朱は口を閉じた。閉じていれば、何とかなると思った。
外で何かを焚く音がした。
最初は藁の匂いだった。
次に山椒。乾いた莨の葉。最後に少し唐辛子が混じった。
燻し責めだ。
息を吸った瞬間、喉の奥が焼けた。
咳が出る。咳をすると、桶の内側で熱が跳ね返る。
目から涙があふれ、鼻の奥が裂けるように痛む。
顔を覆いたくても、手は動かない。
膝がしびれ、爪先の感覚が薄れていく。
助けて、と言おうとしても、咳に切られて声にならない。
桶の外で番頭新造が凄絶に嗤っている。
「あは、あァ……鄙女にはよく似合うじゃないか」
都生まれ。
この女に最後まで残った自慢は、おそらくそれきりなのだ。
事あるごとに深朱を田舎娘扱いしてくる。
もう八年近くも廓にいるのに。
もうすぐ水揚げからの苦界十年に入る。
生まれ落ちた境遇だけは、生涯変えようがないのだから、この先どれほど廓暮らしを重ねようと言い続けるのだろう。
――鄙女、と。
この女の前で丈は泣きたくない。
なのに煙が目に滲み、涙が止まらない。
苦しい。熱い。息が足りない。
逃げることは敵わない。
身体の自由は全て奪われていた。
どれほど経ったのかわからない。
桶の前を行き来する足音が変わった。
「そこまでにしなんし」
紅扇姐さまだった。
お座敷をほっぽり出して来てくれたのだ。
「この子は、妾の預かりだんす」
「なら、あんたの仕込みが悪いんじゃァないのかい」
「そうでありんすね。預かりの子に、鬼灯を持たせたのは妾だんす」
桶の内で、深朱は息を詰めた。
紅扇姐さまが、自分から名乗り出ている。
「けれど鬼灯を持っていたことと、お前が口にした咎とは別でありんしょう」
「……」
「濡れ衣の上へ、誤解まで被せるのはおよしなんし。重くて、子どもが潰れんす」
鬼灯を持っていた。それは確かだ。
けれど、番頭新造が口にしたような使い道ではない。
そのことを、深朱は後になって紅扇姐さまから聞かされた。
番頭新造は黙っていた。
もう目的を果たしている。
弁解などする気もないようだ。
「金なら払うだんす」
じゃらり、と金の音がした。
深朱は桶の内で目を開けた。
涙で何も見えない。
けれど、その音丈は聞こえた。
姐さまが金を払っている。
折り合いの悪い番頭新造に。
深朱のために――。
助かった、と思った途端、その言葉は胸の内で潰れた。
ここで動く金は、誰かが払えば誰かの帳面に乗る。
姐さまが深朱を桶から出すために払った金は、姐さまの自由をまた一つ遠ざける金だった。
身揚りの一日、たった一夜丈息をつく余地さえ、金に変えられて帳面へ沈む。
深朱一人を助けるために姐さまの明日が削られたのだ。
そう思った瞬間、煙より苦しいものが、ひゅっと喉へ上がった。
「その子は、妾が面倒を見てるでありんす」
外気が触れた途端、深朱は咳き込んだ。
床に手をつこうとして、指がうまく開かなかった。
姐さまは結び目を解く若衆に言った。
「乱暴はおよしなんし」
紅扇姐さまの部屋へ戻ると、姐さまは深朱を鏡の前に座らせた。
濡れた手拭いで目元を拭かれ、乱れた髪に櫛を入れられる。
またしても強く引かれて痛い。けれど深朱は動かなかった。
「礼は言わなくていいよ」
姐さまが優しく言った。
「言ったら恩になるだんす。妾は高い。お前にはまだ払えない」


