朱籬姫の嫁入り 〜売られた花魁は、大妖狐の番として囲われる〜

 葭津(よしづ)の水際に、小さな舟が隠されていた。
 舟というより、(あし)を編み、上弦の月の形へ(たわ)めたものに見える。

 こんなもので、海を渡れる(はず)がない。

 そう思ったのに、九郎助(くろすけ)舳先(へさき)へ指を触れると、金の狐火が一つ(とも)った。
 葦の継ぎ目をなぞるように光が走り、舟底の影が水の上へ薄く浮く。

「あれに乗る」
「……沈みゃしんせんか」
「沈むと思えば沈む」

 深朱(みあけ)は返す言葉を失った。
 抱き上げられた距離のまま見上げると、九郎助(くろすけ)は真剣な面差しをしている。
 だから、冗談ではないのだと判った。

 抱えられていた身体が、そっと低くなった。
 九郎助(くろすけ)の腕は、少しも乱暴ではない。
 それなのに離されると判った瞬間、深朱(みあけ)は思わずその衣を(つか)んだ。

 九郎助(くろすけ)の目が、(わず)かに下りる。
 責めるでもなく、急かすでもなく、ただ待っている目だった。

「手を(ふち)に掛けろ」

 言われるまま、深朱は舟縁(ふなべり)に手を掛けてから、(あし)でできた底に足先を乗せた。
 (あし)の束は水を吸うどころか、息をするように淡く沈み、すぐ浮いた。
 深朱(みあけ)の重みを受け止めたのではない。
 深朱(みあけ)が落ちぬよう、水の方が身を引いたようだった。

 底へ足を流して座り、振り返ると、朱籬廓(しゅりかく)は雨に濡れていた。

 朱い灯りが幾つも並び、遠目には花の模様のように見える。
 あの中にいた時は、世界のすべてだった。
 けれど葭海(よしうみ)へ出ると、(くるわ)も水に浮いた一つの(かご)に過ぎなかった。

「色街の名は、ここで捨てろ」

 泥(まみ)れの脚まで、急に自分のものではないように感じた。
 深朱(みあけ)ではなかった元の名は、もう忘れて(しま)ったのに。

「その名のまま、里へ入ることは許さない」

 朱籬廓(しゅりかく)で本当の名前は奪われた。
 深朱(みあけ)という名(だけ)が、辛うじて自分の形を保って来た。
 紅扇(ねえ)さまが呼んでくれていたからだ。

 それすら、この金狐の(あやかし)は捨てろという。
 では今、ここにいる自分は一体何者なのだろう。

「……(わっち)は、何と呼ばれるのでございますか」
(わっち)()めろ」

 九郎助(くろすけ)は弦月の光を浴びたまま、舟の舳先(へさき)に立っていた。
 こちらを振り返らない。

廓詞(くるわことば)は以降、禁ずる。……里では、町娘のぞんざいな(なり)で構わぬ」

 葭海(よしうみ)の雨は、細く降り続いていた。

 今ごろ朱籬廓(しゅりかく)でも、石畳は真っ黒に濡れているだろう。
 夜の名残の灯りが、朝の薄明かりに力なく(にじ)んでいる(はず)だ。

 それなのに、九郎助(くろすけ)の衣は濡れない。
 水際の泥を踏んだはずの裾にも、汚れ一つ付いていなかった。

 (あやかし)は、雨にも泥にも触れられぬのだろうか。

 舳先(へさき)では、金の狐火が小さく揺れている。
 その火に導かれるように、(あし)(ぶね)は音もなく水を裂き、葭海(よしうみ)の暗がりへ進んでいく。

 朱籬廓(しゅりかく)の灯りがどんどん遠くなる。
 その(かご)のようだった場所が、水面に沈みかけた(かんざし)ほどに見えて来た。

「呼ばれたい名はないのか」

 問われて、深朱(みあけ)は黙った。
 呼ばれたい名。
 そんなものを考えたことがなかった。
 呼ばれる名は、いつも誰かが決めた。

 親が決め、遣り手婆と楼主(ろうしゅ)が決め、帳面が決めた。
 名とは、他人がこちらへ投げつけるものだと思っていた。

「判らない……」

 そう答えると、九郎助(くろすけ)がこちらを振り返った。
 九郎助(くろすけ)の金の眼は、雨の夜にも色を失わない。
 濡れるのではなく、夜を吸ってなお光る。
 まるで獣が闇の中で獲物を見失わぬための、目印のようだった。

「なら、俺が名をやる」
「……」
「朱は残す。おまえが焼かれ、汚され、奪われても消えなかった色だ。だが深くは沈まなかった」

 九郎助(くろすけ)は指先を上げた。
 舳先(へさき)の狐火が一つほどけ、深朱(みあけ)の前へ浮かぶ。
 金の火は雨に濡れず、(てのひら)ほどの明かりとなって揺れている。

()()は、濁りを通して光る石だ。傷のない玉ではない。傷を抱えたまま光を通す」
ぎやまん(・・・・)のこと?」

 九郎助(くろすけ)が頷くと、その火が水面へと放たれて落ちた。

 葭海(よしうみ)が下から金色に照らし出されて光る。
 ほんの一息の間、舟の周りの水が透け、深い底に揺れる(あし)の根まで見えた。
 そこには暗い泥があり、沈んだ葉があり、古いものがいくつも眠っている。

珠璃(しゅり)

 九郎助(くろすけ)も向かいに腰掛けながら、言った。

 その名が葭海(よしうみ)へ落ちた途端、小雨が霧に変わった。
 すぐには自分の名だとは思えないが、綺麗な名だと思った。

(わっち)、いえ、わたし……は……その名に……?」
「名乗れ。俺もそう呼ぶ」

 九郎助(くろすけ)(うなず)いた。
 それから首を巡らせ、進路の方を見やる。

 珠璃(しゅり)は、最後にもう一度朱籬廓(しゅりかく)を振り返った。
 物の()も、水妖も、もう姿を消している。

 朱い灯りの奥に、残滓の薄(もや)のみが漂っている気がした。
 あれが見えていたのは、やはり自分(だけ)だったのかもしれない。

 往来の人々は何食わぬ顔で行き()っている。
 先刻(さっき)まで大華通(たいかどおり)で何が起きていたのか、誰一人気づいていない。
 朱籬廓(しゅりかく)は、何もなかったような顔で、朝の商いへ移ろうとしていた。

 もうじき卯の刻になるだろう。
 大門(おおもん)が開けば、客たちは朝帰りの顔を(つくろ)い、それぞれの家へ戻っていく。

 紅扇(ねえ)さまは無事だろうか。
 深朱(みあけ)が逃げた責めを負い、また帳面に借りが増えるのではないだろうか。

 持たせてくれた包みを開くと、九郎助(くろすけ)稲荷の古びた木札が入っていた。

 その下に、小さな袋が一つ。
 中を探った指先に、硬い粒が触れる。
 珠璃(しゅり)の抜けた乳歯だった。