「走れるか」
九郎助が言った。
葭海の方から、潮と雨の匂いが押し寄せている。
先ほどまで晴れていたのに、細い雨が降り始めていた。
深朱は包みを抱え直した。
守り札の角が掌に当たる。
行けるか、ではない。
行くのだ。
深朱が頷くと、九郎助が手を差し出した。
「離れていろ」
そう告げるなり、残る片手を格子へ向ける。
金の火が、黒い桟を包んだ。
熱に震えた木が、朱い夜の中で焼け落ちる。
「葭海へ出る」
深朱は、その手を見た。
人間ではない、金の霞を纏った手。
それでも、今夜初めて、格子の向こうの夜がただの闇ではなく、道に見えた。
葭海の方角から、潮を含んだ風が押し寄せている。
深朱は手を伸ばした。
九郎助の手を取る。
そして、駆け出した。
その背後で、焼かれた物の怪が叫ぶ。
「おのれ、先に見つけたのに……ッ」
振り返る九郎助の金の眼が、闇の中で鋭く光った。
これほどの力を持つ九郎助が、焼き尽くそうとしない。
何か特別な調伏方法が必要なのかもしれない。
目を凝らすと、その影には幾つもの顔が蠢いていた。
払われなかった金。
呑み込まれた恨み。
捨てられた願い。
それらが、同じ黒い影の内で絡まり合っている。
「見つけたのは、こちらが先だ」
狐火が長く飛んだ。
雨を裂き、黒い影へ命中し、金色に弾ける。
濡れた石畳に火の粉が散った。
朱籬廓の夜が、葭海から来る雨に少しずつ煙っていく。
「あの……ありがとう」
「紅扇の願いを聞き届けたまでだ」
深朱は九郎助の手に引かれ、初めて、格子のない夜へ踏み出した。
振袖新造の装いのまま逃げ出したので、何もかもが華やかで重い。
雨を含んだ袖はすぐに重みを増し、裾は濡れた石畳へ吸いついた。
深朱はときどき足を取られ、蹴躓いて了う。
紅を含んだ振袖。
年に似合わぬ幅のだらり帯。
赤襟を返した薄い襦袢。
髪に挿した、びらびら簪。
走るには、何もかも重過ぎた。
先ず、びらびら簪を抜いた。
しゃら、と音を立てて掌へ落ちたそれを、深朱は懐へ押し込む。
残りの銀の前びらや花簪は、面倒になって投げ捨てた。
髪の結紐を探し当て、力いっぱい引く。
次に、綿の入った重いふきを脱ぎ捨てた。
柳に作った前帯を解く。
上掛けの振袖を、肩から落とす。
高価な屋号紋を散らした柄も、緞子の金糸も。
逃げる者には見付かるための灯りのようなものでしかない。
それでも、動くたびに猩々緋の襦袢がはためいた。
赤襟は夜の中で目立ち、だらり帯は猶も尾のように後ろへ引かれる。
駆けて、駆けて、深朱は水際の柳を幾つも越えた。
けれど、裸足の素足は疾うに限界だった。
花魁に、足袋を履くことは許されていない。
道中で高い三枚歯の花魁下駄を履く時も、見世張の格子の中で畳に座る時も同じだ。
鼻緒に擦れる素足さえ、白い足の甲のまま客に見せるための飾りとされる。
足抜けを防ぐためでもある。
逃げることまで奪われた足を、客たちは哀れで劣情を誘うものとして有難がる。
凍えた石畳が、足裏を刺した。
「人間の足は、痛いのだな」
九郎助が、途中で気付いて足を止めた。
「大丈夫、で――」
言い終えるより早く、ふいと視界が揺れた。
九郎助の腕が膝裏と背へ差し入れられ、容易く身体が持ち上がる。
地面が遠のいた。
代わりに、男の衣の匂いと体温が、息の触れるほど近くなる。
「あ、あの……」
妖の腕など、夜の水のように冷たいものだと思っていた。
けれど、畳で摺った膝裏を掬う手は、確かに熱を持っている。
その熱に触れた途端、深朱の心の臓が知らぬ早さで脈打ち始めた。
怖いのとは違う。
値踏みされる時の寒さとも違う。
ただ、大切なものを抱えるように扱われている。
そのことが判った瞬間、頬が熱くなった気がした。
九郎助が言った。
葭海の方から、潮と雨の匂いが押し寄せている。
先ほどまで晴れていたのに、細い雨が降り始めていた。
深朱は包みを抱え直した。
守り札の角が掌に当たる。
行けるか、ではない。
行くのだ。
深朱が頷くと、九郎助が手を差し出した。
「離れていろ」
そう告げるなり、残る片手を格子へ向ける。
金の火が、黒い桟を包んだ。
熱に震えた木が、朱い夜の中で焼け落ちる。
「葭海へ出る」
深朱は、その手を見た。
人間ではない、金の霞を纏った手。
それでも、今夜初めて、格子の向こうの夜がただの闇ではなく、道に見えた。
葭海の方角から、潮を含んだ風が押し寄せている。
深朱は手を伸ばした。
九郎助の手を取る。
そして、駆け出した。
その背後で、焼かれた物の怪が叫ぶ。
「おのれ、先に見つけたのに……ッ」
振り返る九郎助の金の眼が、闇の中で鋭く光った。
これほどの力を持つ九郎助が、焼き尽くそうとしない。
何か特別な調伏方法が必要なのかもしれない。
目を凝らすと、その影には幾つもの顔が蠢いていた。
払われなかった金。
呑み込まれた恨み。
捨てられた願い。
それらが、同じ黒い影の内で絡まり合っている。
「見つけたのは、こちらが先だ」
狐火が長く飛んだ。
雨を裂き、黒い影へ命中し、金色に弾ける。
濡れた石畳に火の粉が散った。
朱籬廓の夜が、葭海から来る雨に少しずつ煙っていく。
「あの……ありがとう」
「紅扇の願いを聞き届けたまでだ」
深朱は九郎助の手に引かれ、初めて、格子のない夜へ踏み出した。
振袖新造の装いのまま逃げ出したので、何もかもが華やかで重い。
雨を含んだ袖はすぐに重みを増し、裾は濡れた石畳へ吸いついた。
深朱はときどき足を取られ、蹴躓いて了う。
紅を含んだ振袖。
年に似合わぬ幅のだらり帯。
赤襟を返した薄い襦袢。
髪に挿した、びらびら簪。
走るには、何もかも重過ぎた。
先ず、びらびら簪を抜いた。
しゃら、と音を立てて掌へ落ちたそれを、深朱は懐へ押し込む。
残りの銀の前びらや花簪は、面倒になって投げ捨てた。
髪の結紐を探し当て、力いっぱい引く。
次に、綿の入った重いふきを脱ぎ捨てた。
柳に作った前帯を解く。
上掛けの振袖を、肩から落とす。
高価な屋号紋を散らした柄も、緞子の金糸も。
逃げる者には見付かるための灯りのようなものでしかない。
それでも、動くたびに猩々緋の襦袢がはためいた。
赤襟は夜の中で目立ち、だらり帯は猶も尾のように後ろへ引かれる。
駆けて、駆けて、深朱は水際の柳を幾つも越えた。
けれど、裸足の素足は疾うに限界だった。
花魁に、足袋を履くことは許されていない。
道中で高い三枚歯の花魁下駄を履く時も、見世張の格子の中で畳に座る時も同じだ。
鼻緒に擦れる素足さえ、白い足の甲のまま客に見せるための飾りとされる。
足抜けを防ぐためでもある。
逃げることまで奪われた足を、客たちは哀れで劣情を誘うものとして有難がる。
凍えた石畳が、足裏を刺した。
「人間の足は、痛いのだな」
九郎助が、途中で気付いて足を止めた。
「大丈夫、で――」
言い終えるより早く、ふいと視界が揺れた。
九郎助の腕が膝裏と背へ差し入れられ、容易く身体が持ち上がる。
地面が遠のいた。
代わりに、男の衣の匂いと体温が、息の触れるほど近くなる。
「あ、あの……」
妖の腕など、夜の水のように冷たいものだと思っていた。
けれど、畳で摺った膝裏を掬う手は、確かに熱を持っている。
その熱に触れた途端、深朱の心の臓が知らぬ早さで脈打ち始めた。
怖いのとは違う。
値踏みされる時の寒さとも違う。
ただ、大切なものを抱えるように扱われている。
そのことが判った瞬間、頬が熱くなった気がした。



