それが深朱の頬の方へ伸ばそうとした瞬間。
金色の光が間に割り込んだ。
さきほど見た、狐火に似ている。
ただし、青くはなかった。
金を含んだ火が深朱の前で弧を描き、物の怪の腕を焼いた。
黒い腕は煙になって裂け、怒りの形相に歪む顔が振り返る。
「物の怪めが」
低い声音が、夜を裂いた。
深朱は、物の怪の肩越しに見た。
葭海の方角から、男が歩いて来る。
瘴気が、そこだけ避けていた。
物の怪から滲む黒いものも、男の身へは届かない。
夜の方が、その男へ道を空けているようだった。
近付くにつれ、眼が見えた。
切れ長で、ややつり上がった金色の眼。
人のものではない。
けれど、物の怪の濁りとも違う。
深朱は息を止めた。
――妖だ。
そう悟った途端、物の怪が格子から剥がれた。
長い黒髪がばさりと石畳を打つ。
その黒が、弾かれた毬のように九郎助の方へ跳ねた。
膝を曲げたようにも、地を蹴ったようにも見えない。
ただ黒い影が、一息に距離を喰らったのだ。
その先を見届けたくて、深朱は思わず格子を掴んでいた。
一度は飛びすさった筈なのに。
男には金色に光る狐耳や、尾が一本あった。
物の怪に胸元を喰らいつかれる寸前、袖がひらりと持ち上がる。
その裏から、金の火が幾筋も解けた。
狐尾のように何本も広がり、石畳を撫で、跳びかかる黒い影を下から絡め取る。
「紅扇に、九郎助稲荷へ行けと言われたな」
物の怪を一旦退けると、男は言った。
その瞳孔は人のものではないほど細く縦に裂けていた。
雨に濡れているように潤んでいる。
怖くなるほど美しい妖だ。
「どうして、それを」
「あの女が願を掛けた」
「姐さまが……」
「縁を繋げるように、と」
深朱は、包みの中の守り木札を思い出した。
布越しに触れた、古くごつごつした木の感触。
|姐さまが、とりわけ長く手を合わせていたお社のものだ。
縁を芽吹かせる木の、お守り札だった。
「あなたは……」
「九郎助だ」
九郎助は、一度丈張見世の格子を見た。
夜目には、古い角張った木が黒い縦桟となって並んでいる。
その隙間から、朱い灯り丈が深朱の方へ細く漏れていた。
遊女を花のように並べ、金を差し出す目に晒すための格子。
外から見れば飾りでも、内から見れば籠でしかない。
「人間の籬に、よくもここまで隠したものだ」
その言葉が、誰に向けられたものなのか、深朱には判らなかった。
楼主か。番頭新造か。
朱籬廓そのものか。
「ここから解き放つ」
九郎助は、格子へ手を伸ばした。
古い木の縦桟が、軋む。
「そなたは、廓に咲かせるためのものではない」
咲かせるためのものではない。
その言葉が、胸の奥へ落ちるより早かった。
石畳の上で、焼かれた物の怪が身を捩る。
黒髪は半ば炭のように縮れている。
それでもなお、格子へ向かって背を伸ばしてくる。
今度は九郎助には脇目もふらない。
残された力のすべてで、深朱丈を手中に収めようとしていた。
「おいでェ」
遠目には、人の手に見えていた。
だが近付くほどに、違和が膨らむ。
曲がる筈のない節が、いくつもある。
指の本数も、人間とは違っていた。
長い爪の先からは、濡れた黒髪が糸のように垂れている。
その髪が、石畳を這った。
物の怪が再び跳ねる。
膝を曲げたようにも、地を蹴ったようにも見えない。
黒い影が、深朱のいる格子へ一直線に飛びかかった。
九郎助の袖が、その背後で翻る。
金の火が燃え上がった。
深朱の目の前で、朱籬廓の夜を凝らせたような物の怪が裂ける。
「社の名を名乗ったまでのこと。俺は幾つもの名を持っている」
やはり、人間ではない。
狐の耳や尾が見えたから許りではなかった。
九郎助の輪郭には、金の霞が纏わりついている。
薄い紗を一枚、夜に重ねたようだった。
石畳に落ちた影も、時折かたちを変えた。
細く鼻の長い獣の影へ、一瞬だけ解ける。
金色の光が間に割り込んだ。
さきほど見た、狐火に似ている。
ただし、青くはなかった。
金を含んだ火が深朱の前で弧を描き、物の怪の腕を焼いた。
黒い腕は煙になって裂け、怒りの形相に歪む顔が振り返る。
「物の怪めが」
低い声音が、夜を裂いた。
深朱は、物の怪の肩越しに見た。
葭海の方角から、男が歩いて来る。
瘴気が、そこだけ避けていた。
物の怪から滲む黒いものも、男の身へは届かない。
夜の方が、その男へ道を空けているようだった。
近付くにつれ、眼が見えた。
切れ長で、ややつり上がった金色の眼。
人のものではない。
けれど、物の怪の濁りとも違う。
深朱は息を止めた。
――妖だ。
そう悟った途端、物の怪が格子から剥がれた。
長い黒髪がばさりと石畳を打つ。
その黒が、弾かれた毬のように九郎助の方へ跳ねた。
膝を曲げたようにも、地を蹴ったようにも見えない。
ただ黒い影が、一息に距離を喰らったのだ。
その先を見届けたくて、深朱は思わず格子を掴んでいた。
一度は飛びすさった筈なのに。
男には金色に光る狐耳や、尾が一本あった。
物の怪に胸元を喰らいつかれる寸前、袖がひらりと持ち上がる。
その裏から、金の火が幾筋も解けた。
狐尾のように何本も広がり、石畳を撫で、跳びかかる黒い影を下から絡め取る。
「紅扇に、九郎助稲荷へ行けと言われたな」
物の怪を一旦退けると、男は言った。
その瞳孔は人のものではないほど細く縦に裂けていた。
雨に濡れているように潤んでいる。
怖くなるほど美しい妖だ。
「どうして、それを」
「あの女が願を掛けた」
「姐さまが……」
「縁を繋げるように、と」
深朱は、包みの中の守り木札を思い出した。
布越しに触れた、古くごつごつした木の感触。
|姐さまが、とりわけ長く手を合わせていたお社のものだ。
縁を芽吹かせる木の、お守り札だった。
「あなたは……」
「九郎助だ」
九郎助は、一度丈張見世の格子を見た。
夜目には、古い角張った木が黒い縦桟となって並んでいる。
その隙間から、朱い灯り丈が深朱の方へ細く漏れていた。
遊女を花のように並べ、金を差し出す目に晒すための格子。
外から見れば飾りでも、内から見れば籠でしかない。
「人間の籬に、よくもここまで隠したものだ」
その言葉が、誰に向けられたものなのか、深朱には判らなかった。
楼主か。番頭新造か。
朱籬廓そのものか。
「ここから解き放つ」
九郎助は、格子へ手を伸ばした。
古い木の縦桟が、軋む。
「そなたは、廓に咲かせるためのものではない」
咲かせるためのものではない。
その言葉が、胸の奥へ落ちるより早かった。
石畳の上で、焼かれた物の怪が身を捩る。
黒髪は半ば炭のように縮れている。
それでもなお、格子へ向かって背を伸ばしてくる。
今度は九郎助には脇目もふらない。
残された力のすべてで、深朱丈を手中に収めようとしていた。
「おいでェ」
遠目には、人の手に見えていた。
だが近付くほどに、違和が膨らむ。
曲がる筈のない節が、いくつもある。
指の本数も、人間とは違っていた。
長い爪の先からは、濡れた黒髪が糸のように垂れている。
その髪が、石畳を這った。
物の怪が再び跳ねる。
膝を曲げたようにも、地を蹴ったようにも見えない。
黒い影が、深朱のいる格子へ一直線に飛びかかった。
九郎助の袖が、その背後で翻る。
金の火が燃え上がった。
深朱の目の前で、朱籬廓の夜を凝らせたような物の怪が裂ける。
「社の名を名乗ったまでのこと。俺は幾つもの名を持っている」
やはり、人間ではない。
狐の耳や尾が見えたから許りではなかった。
九郎助の輪郭には、金の霞が纏わりついている。
薄い紗を一枚、夜に重ねたようだった。
石畳に落ちた影も、時折かたちを変えた。
細く鼻の長い獣の影へ、一瞬だけ解ける。



