逃げ出す隙を窺っているうちに、いつしか夢現を漂っていた。
投げ込まれた布団を引き寄せても、足先から冷えが上がってくる。
師走だというのに、足袋もない足が悴んでいる。
畳の冷えを吸って、痛いほど冷たかった。
その冷たさに、深朱は目を覚ました。
とうに大引けは過ぎ、丑三つ時あたりだろう。
格子の前を通る者など、もう誰もいない。
向こうの仲之町でさえ下駄の音が途切れている。
ふと目を上げると、今宵の朱籬廓はどこか可怪しかった。
風はないのに、箱提灯の朱が水に映ったように滲み、石畳の目地から薄い霧のようなものが上がっている。
深朱は最初、それを泣き疲れのせいだと思った。
桶伏せまがいに燻し責めの折檻を受けた夜から、目の奥には熱が残っている。
煙に焼かれた喉もまだ時折痛む。
だから、見えぬものが見えるのだと思いたかった。
けれど格子の外を通った女は、人ではなかった。
水色の裳を引き、濡れた黒髪を半肩に流した女が、大門のある方角から歩いて来る。
下駄を履いているのに近くなっても足音はない。
石畳に裾が触れているのに、濡れ跡も残らない。
古い橋の欄干のような木片を抱いており、気付いたように目を一瞬こちらへ向けた。
その顔は半分透けて、蒼白だった。
――水の橋姫。
大橋を守り、外敵を拒むもの。
紅扇姐さまの言葉が、遅れて腑に落ちた。
その途端、深朱の目にも周囲の様子が飛び込んで来た。
橋姫の後ろを、小さな狐火がいくつも跳ねて付いてまわっている。
火でありながら燃えず、青く揺れて、見世の軒に触れても焦がさない。
深朱に判るのはそこまでだった。
残りはみな、小鬼や透けた獣に見える。
米俵を背負うもの。
袋を抱えるもの。
金の鈴を鳴らすもの。
それら異形のものたちが、夜の朱籬廓を巡っている。
狐火が、一つ、跳ねるのをやめた。
鈴の音が遠のく。
軒先の灯りが、どれも薄紙を被せられたように鈍った。
格子の向こうで、夜が濃くなる。
次の瞬間、深朱は息を呑んだ。
ふと見ると、黒い手が、張見世の格子に張りついていたのだ。
指が長過ぎるが、人の手に似ている。
長い爪まである。
似ているからこそ、ひどく悍ましい。
格子の向こうにいつの間にか立っていたのは、女の形をした黒い影だった。
深朱は動けなかった。
目の前のものが、にたりと嗤う。
「お前だァ」
「……妾が、何を」
「名を奪われたもの。売られたもの。恨みを呑んだもの。まだ堕ちきらぬもの」
節がやけに長い。
指が何だか多い。
濡れた髪のようなものが、手首から肘へ、肘から肩へ絡みついている。
顔は髪に隠れて見えない。
ただ、髪の間から赤黒いものが一つ、目のように濡れている。
――物の怪だ。
深朱は慌てて飛び退いて、なるべく妓楼側に寄った。
橋姫とは違うようではある。
だが妖も物の怪も、同じ夜の異形に見えた。
水の女。濡れた髪。蒼白の顔。
人でないものは、みな人を奪いに来るのかもしれない。
「こっち江、おいでェ」
物の怪の指先が格子の隙間から割り込もうとしている。
投げ込まれた布団を引き寄せても、足先から冷えが上がってくる。
師走だというのに、足袋もない足が悴んでいる。
畳の冷えを吸って、痛いほど冷たかった。
その冷たさに、深朱は目を覚ました。
とうに大引けは過ぎ、丑三つ時あたりだろう。
格子の前を通る者など、もう誰もいない。
向こうの仲之町でさえ下駄の音が途切れている。
ふと目を上げると、今宵の朱籬廓はどこか可怪しかった。
風はないのに、箱提灯の朱が水に映ったように滲み、石畳の目地から薄い霧のようなものが上がっている。
深朱は最初、それを泣き疲れのせいだと思った。
桶伏せまがいに燻し責めの折檻を受けた夜から、目の奥には熱が残っている。
煙に焼かれた喉もまだ時折痛む。
だから、見えぬものが見えるのだと思いたかった。
けれど格子の外を通った女は、人ではなかった。
水色の裳を引き、濡れた黒髪を半肩に流した女が、大門のある方角から歩いて来る。
下駄を履いているのに近くなっても足音はない。
石畳に裾が触れているのに、濡れ跡も残らない。
古い橋の欄干のような木片を抱いており、気付いたように目を一瞬こちらへ向けた。
その顔は半分透けて、蒼白だった。
――水の橋姫。
大橋を守り、外敵を拒むもの。
紅扇姐さまの言葉が、遅れて腑に落ちた。
その途端、深朱の目にも周囲の様子が飛び込んで来た。
橋姫の後ろを、小さな狐火がいくつも跳ねて付いてまわっている。
火でありながら燃えず、青く揺れて、見世の軒に触れても焦がさない。
深朱に判るのはそこまでだった。
残りはみな、小鬼や透けた獣に見える。
米俵を背負うもの。
袋を抱えるもの。
金の鈴を鳴らすもの。
それら異形のものたちが、夜の朱籬廓を巡っている。
狐火が、一つ、跳ねるのをやめた。
鈴の音が遠のく。
軒先の灯りが、どれも薄紙を被せられたように鈍った。
格子の向こうで、夜が濃くなる。
次の瞬間、深朱は息を呑んだ。
ふと見ると、黒い手が、張見世の格子に張りついていたのだ。
指が長過ぎるが、人の手に似ている。
長い爪まである。
似ているからこそ、ひどく悍ましい。
格子の向こうにいつの間にか立っていたのは、女の形をした黒い影だった。
深朱は動けなかった。
目の前のものが、にたりと嗤う。
「お前だァ」
「……妾が、何を」
「名を奪われたもの。売られたもの。恨みを呑んだもの。まだ堕ちきらぬもの」
節がやけに長い。
指が何だか多い。
濡れた髪のようなものが、手首から肘へ、肘から肩へ絡みついている。
顔は髪に隠れて見えない。
ただ、髪の間から赤黒いものが一つ、目のように濡れている。
――物の怪だ。
深朱は慌てて飛び退いて、なるべく妓楼側に寄った。
橋姫とは違うようではある。
だが妖も物の怪も、同じ夜の異形に見えた。
水の女。濡れた髪。蒼白の顔。
人でないものは、みな人を奪いに来るのかもしれない。
「こっち江、おいでェ」
物の怪の指先が格子の隙間から割り込もうとしている。



