葉月。
八月朔日、田実の祝い。
草庵の手前の柵には、いつもの狐面が掛けられていた。
茹だる暑さも、もう珠璃の肌にはどこか遠かった。
半ば妖へ近付いた身体は、夏を以前ほど苦にしない。
里の草庵は、黄金の波に抱かれていた。
春には水を張るばかりだった田が、いまは一面に稲をくゆらせている。
青かった茎は深く色を変え、穂先には重みが宿る。
風が渡るたび、水田からざわりと音が起こる。
稲穂はまだ刈り取られるには早い。
けれど、確かな実りを約していた。
稲荷の妖狐に守られた里に、ふさわしい日だった。
黄金に輝く稲。
田実の祝い。
五穀豊穣の祈り。
遠くには葦の穂波が白く群れ、田には稲穂が重く垂れている。
風が渡るたび、白と黄金が揺れ、里のすべてが一つの金色へ溶け合っていく。
草庵の前には、白帷子を纏った九郎助が立っていた。
陽を受けた髪、金の眼、背筋のまっすぐな立ち姿。
白が人ならざるものの気配を際立たせている。
背後には、いつもと変わらぬ静かな佇まいの深い楠の森と古い社。
その隣に、白無垢の珠璃がいた。
珠璃の眸が、陽光を受けてきらめく。
黒の奥に紅が沈み、紅の縁に金が差している。
葛葉が宝石眼と呼んだそれは、いまや廓の灯りの下、男を惑わせるための眸ではない。
光を受けるたび、割れた玻璃の断面のように色を返し、見る者のほうが奥へ惹き込まれそうになる。
葛葉は、少し離れた縁側で指樽の塩梅を確かめていた。
童女めいた顔に、満足気で誇らし気な表情を浮かべている。
その傍らには、小鬼の団吾がいた。
祝いの場に似合うよう、普段よりきちんとした衣を着ているが、田のほうが気になるらしい。
稲穂が揺れるたび、視線だけがそちらへ引かれていく。
「団吾、稲は心配ないぞ」
葛葉が、三々九度に用いる漆の盃を縁側に並べながら横目で言う。
「本来なら、お前の仕事じゃぞ?」
「収穫前でございますからな。田実の祝いとはいえ、雨が気になって、気になって」
「ほう?」
「狐の嫁入りと申しますからには」
「我らこそが妖狐じゃぞ。今日は雨など降らせぬ。ほれ、盃を用意せよ」
縁側に置かれた七輪の網の上には、串を打たれた鮎が塩を吹いている。銀の腹が火に照り、尾の先が焦げて、川の匂いと炭の匂いが混じっていた。
隣では、丸茄子の皮が黒く縮んでいる。
箸で押せば、中はもうとろりと崩れそうだ。
焼けた皮の裂け目から、夏の名残のような湯気が立つ。
それらの更に上、草庵の軒先には、青く若い稲穂が掛けられていた。
未熟のときに刈り取った稲を供える風習があるのだ。
珠璃は、そっと息を吸った。
ここへ来た夜のことを思う。
葦舟に乗り、追われ、怖れ、身の置き場も判らぬまま連れて来られた。
だが、逃げ込んだ場所が、いつしか帰る場所になった。
飯も衣も、肌に触れるものも、廓では一級のものが揃えられる。
けれど、何を食べ、何を着て、誰の前に出るのか、自分では何一つ決められない。
辛さとは貧しさではなく、選ぶ意思を奪われることなのだと、珠璃はこの家の暮らしから悟った。
その草庵で今、珠璃は白無垢を纏っている。
隣の九郎助が、口を開いた。
「あのとき俺は、夏になれば、里は一面の稲田になる、と言ったな」
「うん」
九郎助も同じときのことを考えていたようだ。
「葉月の光景を見せられて、良かった」
その一言に、この里を背負う者の誇りがあった。
稲穂の向こう、田の水には空が映っている。
青と金の間を、狐火が一つ滑った。
昼の光の中で見る狐火は、稲穂の金と見分けがつかぬほど自然に、田の上を渡っていく。
稲荷の狐と稲が、同じ土地の息で結ばれていることを見せるようだった。
珠璃は、九郎助の横顔を見上げた。
「九郎助さま」
名を呼ぶと、金の眼がこちらへ向く。
怖くない、と言えばまだ少し嘘になる。
この人は、ただの優しい男ではなく、やはり妖だ。
「どうして、わたし?」
九郎助は物の怪が現れれば調伏に出向かざるを得ない運命だ。
この先も穏やかな日ばかりが続くとは限らない。
赴く場所も朱璃新地だけではないだろう。
里を越え橋を越え、いずれ人間と妖の世の裂け目へ向かう日が来る。
「俺は、縁結びの狐でもある。――その俺が百年待って選んだ縁だ」
九郎助が答えた。
珠璃は、何も言えなくなった。
番に選ばれてからというもの、ずっと考えていた。
迷いながら、懸命に付いて来ただけだ。
何故なのかが知りたかった。
どうして、百年も――
「お前は、どんなに細い運命の糸でも手繰り寄せる強さを持つ娘だ。……生まれも育ちも、己の身に刻まれたものを、すべて越えて選んでここまで来た。俺は、そんな娘を待っていた」
――待って選んだ。
その言葉が、白無垢の内側へ沁み込んでいく。
売られて来た。
名を変えられた。
衣を着せられ、芸を仕込まれ、いつか誰かに身体を買われるものとして育てられた。
だから「選ばれる」という言葉には、どこか怖さがある。
選ばれるとは、値を付けられること。
選ばれないとは、捨てられること。
それでも番頭新造のように、女が女を更に深い谷底へ沈める真似だけはできなかった。
どれほど辛くとも、それだけは、選べなかった。
九郎助の言う「選ぶ」は、そうしたものとは全く違う。
値を付けることではない。
囲うことでも、奪うことでもない。
共に並び立つ相手として、道を同じくすることなのだ。
無理を通すことなく、珠璃が自ら頷くまで待ってくれる。
それでも、選んだあとは離さない。
そういう強さもまた、九郎助にはある。
珠璃は、自分の白い袖を見た。
稲田の黄金が照り映えている。
「九郎助さまを受け入れると決めたとき、あなたの天命をも丸ごと飲み込む覚悟を決めた……」
きっと誰かを愛することは、ただその人のぬくもりを欲しがることではないのだろう。
その人が背負う道も、逃れられぬ役目も、いつか向かう闇も、共に抱えると決めることなのだ。
そして、珠璃の願いもまた、九郎助が分かち合ってくれる。
誰かを愛することは、お互いの天命を丸ごと抱え合うことなのだ――。
葛葉が、ぴくりと耳を動かすように反応した。
団吾は何か言いかけ、葛葉に袖を引かれて口を閉じる。
「朱璃新地を変えること、一緒に担ってくれてありがとう――物の怪調伏へ向かうのも、今でも正直怖い。けれど」
珠璃は九郎助をまっすぐ見た。
「あなたの天命を、わたしも助ける」
稲穂が風に傾いた。
一面の金が、低く波打つ。
白無垢の裾にも、その光が揺れた。
「穏やかな道ではないし、他にわたしのように物の怪の注意を引いてしまう存在も、そう多くないとも思うけれど……」
九郎助の眼が、深くなった。
いつか、九尾へ至る。
その願いはもはや、九郎助一人のものではない。
番となった以上、片方の宿願は、もう片方の命にも刻まれる。
「何を探しているのか、どうして九尾にならなくてはならないのか。……わたしには正確には判らない。それでも」
九郎助は葛葉の言葉を待つように、何も言わなかった。
ただ、金の眼で稲田の向こうを見ている。
「人間と妖の間に立つ九郎助さまを」
稲田の実りが、目には見えない季節から始まっているように、天命もまた見えぬところで根を張り、機会を捉えて芽吹くのだろう。
珠璃は、そっと狐火の宿る手首を差し出した。
「……わたしも同じ立場から、ずっとお側でお支えします。あなたの宿願が命に刻まれているというのなら、わたしの命にも刻んでください」
九郎助は、その手を取った。
白帷子の袖と、白無垢の袖が触れる。
その間に、金の狐火が一つ灯った。
火は、二人の手の内で細く尾を引いた。
熱いのに、痛くはない。
縛る火ではなく、あの道を示す火だ。
朱籬廓から逃げるために灯った火が、いまは同じ場所へ戻り、さらにその先へ進むための火になっている。
「ならば、珠璃」
九郎助は、静かに名を呼んだ。
「番として天命を共に負え。俺もまた、お前の願いを負う。――朱璃新地を守り、水底へ身を投げた女たちを忘れず、物の怪へ堕ち、喰われる人間を見捨てぬと誓う」
それは、二人だけの甘い誓いというより、社前で交わす厳正な祝詞に近かった。
妖にとって何より大切な天命にかけて誓ったのだ。
けれど珠璃には、そのほうがずっとよかった。
愛だけを囁かれるより、深く結びついて長く、この人の隣へ立てる気がした。
「はい」
珠璃は、九郎助の手を握り返した。
「わたしも、あなたの番として永久に。逃げず、隠れず」
風が渡った。
その時、九郎助の背後で金色が揺れた。
珠璃は目を見開いた。
狐の尾だった。
いつもの尾に寄り添うように、もう一本、淡い金の尾が生まれている。
葛葉の上げた歓声が聞こえた。
「尾が増えれば、妖力が増す。信心してくれた者たちを、安らかに来世へ送り出す力も、それだけ強まるということだ」
来世。
その言葉に、珠璃は顔を上げた。
目の前の九郎助が、増えたばかりの尾を揺らしながら、珠璃を見ていた。
「だが、今世を共に過ごしたいのはお前だけだ」
百年を生き、これから先も長く生きる妖が、今この世の時間を、珠璃に預けると言ってくれている。
珠璃は九郎助をまっすぐ見ながら頷いた。
信心してくれた者たち。
その言葉に、珠璃はやはり思い出してしまう。
――紅扇姐さま。
間に合わなかった。
今からどれほど願っても、変えられない。
けれど、あの人が最後にどこへ沈んだのだとしても、いつか九郎助さまの妖力がそこまで届く日が来るのかもしれない。
ふいに風が吹いて稲穂が、一斉に頭を垂れる。
黄金の波は祝うようにも、拝するようにも見えた。
田の水が陽を返し、その上を狐火が走る。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
昼の光の中で、それらは稲の実りと見分けがつかぬほど自然に揺れた。
風がまた渡り、稲田の向こうの木に、青い柿が幾つか実っているのが珠璃の宝石眼に映った。
まだ色付かぬ硬い実ばかりではあったが、それらがいつか見た照柿色へ染まる日も、そう遠くないことのように思われた。
八月朔日、田実の祝い。
草庵の手前の柵には、いつもの狐面が掛けられていた。
茹だる暑さも、もう珠璃の肌にはどこか遠かった。
半ば妖へ近付いた身体は、夏を以前ほど苦にしない。
里の草庵は、黄金の波に抱かれていた。
春には水を張るばかりだった田が、いまは一面に稲をくゆらせている。
青かった茎は深く色を変え、穂先には重みが宿る。
風が渡るたび、水田からざわりと音が起こる。
稲穂はまだ刈り取られるには早い。
けれど、確かな実りを約していた。
稲荷の妖狐に守られた里に、ふさわしい日だった。
黄金に輝く稲。
田実の祝い。
五穀豊穣の祈り。
遠くには葦の穂波が白く群れ、田には稲穂が重く垂れている。
風が渡るたび、白と黄金が揺れ、里のすべてが一つの金色へ溶け合っていく。
草庵の前には、白帷子を纏った九郎助が立っていた。
陽を受けた髪、金の眼、背筋のまっすぐな立ち姿。
白が人ならざるものの気配を際立たせている。
背後には、いつもと変わらぬ静かな佇まいの深い楠の森と古い社。
その隣に、白無垢の珠璃がいた。
珠璃の眸が、陽光を受けてきらめく。
黒の奥に紅が沈み、紅の縁に金が差している。
葛葉が宝石眼と呼んだそれは、いまや廓の灯りの下、男を惑わせるための眸ではない。
光を受けるたび、割れた玻璃の断面のように色を返し、見る者のほうが奥へ惹き込まれそうになる。
葛葉は、少し離れた縁側で指樽の塩梅を確かめていた。
童女めいた顔に、満足気で誇らし気な表情を浮かべている。
その傍らには、小鬼の団吾がいた。
祝いの場に似合うよう、普段よりきちんとした衣を着ているが、田のほうが気になるらしい。
稲穂が揺れるたび、視線だけがそちらへ引かれていく。
「団吾、稲は心配ないぞ」
葛葉が、三々九度に用いる漆の盃を縁側に並べながら横目で言う。
「本来なら、お前の仕事じゃぞ?」
「収穫前でございますからな。田実の祝いとはいえ、雨が気になって、気になって」
「ほう?」
「狐の嫁入りと申しますからには」
「我らこそが妖狐じゃぞ。今日は雨など降らせぬ。ほれ、盃を用意せよ」
縁側に置かれた七輪の網の上には、串を打たれた鮎が塩を吹いている。銀の腹が火に照り、尾の先が焦げて、川の匂いと炭の匂いが混じっていた。
隣では、丸茄子の皮が黒く縮んでいる。
箸で押せば、中はもうとろりと崩れそうだ。
焼けた皮の裂け目から、夏の名残のような湯気が立つ。
それらの更に上、草庵の軒先には、青く若い稲穂が掛けられていた。
未熟のときに刈り取った稲を供える風習があるのだ。
珠璃は、そっと息を吸った。
ここへ来た夜のことを思う。
葦舟に乗り、追われ、怖れ、身の置き場も判らぬまま連れて来られた。
だが、逃げ込んだ場所が、いつしか帰る場所になった。
飯も衣も、肌に触れるものも、廓では一級のものが揃えられる。
けれど、何を食べ、何を着て、誰の前に出るのか、自分では何一つ決められない。
辛さとは貧しさではなく、選ぶ意思を奪われることなのだと、珠璃はこの家の暮らしから悟った。
その草庵で今、珠璃は白無垢を纏っている。
隣の九郎助が、口を開いた。
「あのとき俺は、夏になれば、里は一面の稲田になる、と言ったな」
「うん」
九郎助も同じときのことを考えていたようだ。
「葉月の光景を見せられて、良かった」
その一言に、この里を背負う者の誇りがあった。
稲穂の向こう、田の水には空が映っている。
青と金の間を、狐火が一つ滑った。
昼の光の中で見る狐火は、稲穂の金と見分けがつかぬほど自然に、田の上を渡っていく。
稲荷の狐と稲が、同じ土地の息で結ばれていることを見せるようだった。
珠璃は、九郎助の横顔を見上げた。
「九郎助さま」
名を呼ぶと、金の眼がこちらへ向く。
怖くない、と言えばまだ少し嘘になる。
この人は、ただの優しい男ではなく、やはり妖だ。
「どうして、わたし?」
九郎助は物の怪が現れれば調伏に出向かざるを得ない運命だ。
この先も穏やかな日ばかりが続くとは限らない。
赴く場所も朱璃新地だけではないだろう。
里を越え橋を越え、いずれ人間と妖の世の裂け目へ向かう日が来る。
「俺は、縁結びの狐でもある。――その俺が百年待って選んだ縁だ」
九郎助が答えた。
珠璃は、何も言えなくなった。
番に選ばれてからというもの、ずっと考えていた。
迷いながら、懸命に付いて来ただけだ。
何故なのかが知りたかった。
どうして、百年も――
「お前は、どんなに細い運命の糸でも手繰り寄せる強さを持つ娘だ。……生まれも育ちも、己の身に刻まれたものを、すべて越えて選んでここまで来た。俺は、そんな娘を待っていた」
――待って選んだ。
その言葉が、白無垢の内側へ沁み込んでいく。
売られて来た。
名を変えられた。
衣を着せられ、芸を仕込まれ、いつか誰かに身体を買われるものとして育てられた。
だから「選ばれる」という言葉には、どこか怖さがある。
選ばれるとは、値を付けられること。
選ばれないとは、捨てられること。
それでも番頭新造のように、女が女を更に深い谷底へ沈める真似だけはできなかった。
どれほど辛くとも、それだけは、選べなかった。
九郎助の言う「選ぶ」は、そうしたものとは全く違う。
値を付けることではない。
囲うことでも、奪うことでもない。
共に並び立つ相手として、道を同じくすることなのだ。
無理を通すことなく、珠璃が自ら頷くまで待ってくれる。
それでも、選んだあとは離さない。
そういう強さもまた、九郎助にはある。
珠璃は、自分の白い袖を見た。
稲田の黄金が照り映えている。
「九郎助さまを受け入れると決めたとき、あなたの天命をも丸ごと飲み込む覚悟を決めた……」
きっと誰かを愛することは、ただその人のぬくもりを欲しがることではないのだろう。
その人が背負う道も、逃れられぬ役目も、いつか向かう闇も、共に抱えると決めることなのだ。
そして、珠璃の願いもまた、九郎助が分かち合ってくれる。
誰かを愛することは、お互いの天命を丸ごと抱え合うことなのだ――。
葛葉が、ぴくりと耳を動かすように反応した。
団吾は何か言いかけ、葛葉に袖を引かれて口を閉じる。
「朱璃新地を変えること、一緒に担ってくれてありがとう――物の怪調伏へ向かうのも、今でも正直怖い。けれど」
珠璃は九郎助をまっすぐ見た。
「あなたの天命を、わたしも助ける」
稲穂が風に傾いた。
一面の金が、低く波打つ。
白無垢の裾にも、その光が揺れた。
「穏やかな道ではないし、他にわたしのように物の怪の注意を引いてしまう存在も、そう多くないとも思うけれど……」
九郎助の眼が、深くなった。
いつか、九尾へ至る。
その願いはもはや、九郎助一人のものではない。
番となった以上、片方の宿願は、もう片方の命にも刻まれる。
「何を探しているのか、どうして九尾にならなくてはならないのか。……わたしには正確には判らない。それでも」
九郎助は葛葉の言葉を待つように、何も言わなかった。
ただ、金の眼で稲田の向こうを見ている。
「人間と妖の間に立つ九郎助さまを」
稲田の実りが、目には見えない季節から始まっているように、天命もまた見えぬところで根を張り、機会を捉えて芽吹くのだろう。
珠璃は、そっと狐火の宿る手首を差し出した。
「……わたしも同じ立場から、ずっとお側でお支えします。あなたの宿願が命に刻まれているというのなら、わたしの命にも刻んでください」
九郎助は、その手を取った。
白帷子の袖と、白無垢の袖が触れる。
その間に、金の狐火が一つ灯った。
火は、二人の手の内で細く尾を引いた。
熱いのに、痛くはない。
縛る火ではなく、あの道を示す火だ。
朱籬廓から逃げるために灯った火が、いまは同じ場所へ戻り、さらにその先へ進むための火になっている。
「ならば、珠璃」
九郎助は、静かに名を呼んだ。
「番として天命を共に負え。俺もまた、お前の願いを負う。――朱璃新地を守り、水底へ身を投げた女たちを忘れず、物の怪へ堕ち、喰われる人間を見捨てぬと誓う」
それは、二人だけの甘い誓いというより、社前で交わす厳正な祝詞に近かった。
妖にとって何より大切な天命にかけて誓ったのだ。
けれど珠璃には、そのほうがずっとよかった。
愛だけを囁かれるより、深く結びついて長く、この人の隣へ立てる気がした。
「はい」
珠璃は、九郎助の手を握り返した。
「わたしも、あなたの番として永久に。逃げず、隠れず」
風が渡った。
その時、九郎助の背後で金色が揺れた。
珠璃は目を見開いた。
狐の尾だった。
いつもの尾に寄り添うように、もう一本、淡い金の尾が生まれている。
葛葉の上げた歓声が聞こえた。
「尾が増えれば、妖力が増す。信心してくれた者たちを、安らかに来世へ送り出す力も、それだけ強まるということだ」
来世。
その言葉に、珠璃は顔を上げた。
目の前の九郎助が、増えたばかりの尾を揺らしながら、珠璃を見ていた。
「だが、今世を共に過ごしたいのはお前だけだ」
百年を生き、これから先も長く生きる妖が、今この世の時間を、珠璃に預けると言ってくれている。
珠璃は九郎助をまっすぐ見ながら頷いた。
信心してくれた者たち。
その言葉に、珠璃はやはり思い出してしまう。
――紅扇姐さま。
間に合わなかった。
今からどれほど願っても、変えられない。
けれど、あの人が最後にどこへ沈んだのだとしても、いつか九郎助さまの妖力がそこまで届く日が来るのかもしれない。
ふいに風が吹いて稲穂が、一斉に頭を垂れる。
黄金の波は祝うようにも、拝するようにも見えた。
田の水が陽を返し、その上を狐火が走る。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
昼の光の中で、それらは稲の実りと見分けがつかぬほど自然に揺れた。
風がまた渡り、稲田の向こうの木に、青い柿が幾つか実っているのが珠璃の宝石眼に映った。
まだ色付かぬ硬い実ばかりではあったが、それらがいつか見た照柿色へ染まる日も、そう遠くないことのように思われた。



