蘭の小料理屋が軌道に乗り始めたのは、お大尽で通人の三津田の力も大きかった。
遡ること、その晩。
誰やらが「梅とさんさん桜はァ、いずれ兄やら弟やら、わきて言われぬ花の色ェ」と喉を転がしている。
その最中、暖簾を上げてこちらへ歩み寄って来た男を見て、珠璃は一瞬だけ手を止めた。
白髪を鬢に蓄えた三津田だった。
上等な羽織を何でもない顔で着こなし、色街に馴染んだ足取りで店へ入って来る。
その目だけが、座敷の広さ、客の入り、女たちの動きまで、一つずつ値踏みしていた。
かつて珠璃が深朱と呼ばれていた頃のことだ。
紅籬楼を背負って立つ花魁の水揚げの相手として、人品骨柄卑しからぬ人物と名を挙げられた初老の男。
避けて通れるなら、避けて通りたかった。
けれど商いを始めた以上、避けて通れぬ顔というものがある。
大金を持ち、客筋を持ち、噂の流れを持つ男。
その一人が三津田だった。
「これはこれは。深朱太夫」
三津田は、揶揄う調子で笑った。
言うなり、近くの机をぽんと叩いて拍子を取る。
「……もう花魁でも、太夫でもありんせん。……それに、今は珠璃と名乗っております」
珠璃はつい、廓詞で返してしまう。
怒鳴るでも睨むでもないが、三津田には向かい合った者を一段下がらせるだけの圧がある。
ただ笑いかけて来るだけで、こちらの立っている足場を、昔の古い畳へと錯覚させてくるような何かだ。
「朱籬廓一の姫に相応しい名だな」
珠璃は返事をしなかった。
三津田は邪険にされることなど織り込み済みの顔で笑みを深め、さらに畳み掛けて来た。
「あなたが花魁の幕を引いた、最後の花道は滅法な評判でしたよ」
そう懐柔するかのように言い、勝手に近い席へ腰を下ろした。
酒ではなく、団子汁を頼む。
「……失敗ったな。見たかったよ。人間と妖の世になる、とな。五十年ぶりほどの潮流の変わり目だ。果たして大時化か否か」
だが、全く時化が来るとは思ってもいない顔だった。
椀が運ばれて来ると、三津田は箸を取った。
けれど、湯気の立つ椀を眺めたまま、すぐには口を付けない。
椀の味にばかり興味があるのではない。
店の造り、女たちの動き、客の入り、奥の勘定場。
そのすべてを見ている。
やがて三津田は、箸を置いた。
椀には、まだ一口も付けていない。
ああ、と珠璃は思った。
この男は、遊びに来たのではない。
商いを見に来たのだ。
「夜の客に、座敷で舞や三味を披露する商売を始めたそうだな」
「ええ。女の身体ではなく、芸を売る街にします」
「また、大きく出たァ」
三津田の笑みは、ますます大きく広がった。
果敢に挑む者の直向きさを、心から歓迎する顔だった。
先駆者だけが総取りできることを知る身なれば、勝負に打って出る者を笑うなどあり得ない。
むしろその危うさごと値踏みし、どこへ銭を張れば最も大きく返るかを見極めてきた者の鷹揚な笑みを浮かべている。
「……水揚げのこと、恨んでおいでで?」
先に口にしたのは、珠璃だった。
この初老の男が、その話をする心算で来たのなら、待つほどこちらが不利になる。
ならば、先に手の内を明かしてしまった方がよい。
三津田は意外そうに目を細めた後、くつくつと低く笑った。
「惜しいとは思った」
正直な返事だった。
「だが、恨むほど暇な身ではない。遊び惚けた色ぼけ爺でもあるまいし、女に困っている訳でもない。……それに物の怪が出て、紅籬楼の格子が丸ごと焼け落ちたと別筋からも聞いている。深朱の花魁道中での口上を信じた根拠も、それだよ」
そこで三津田は抜け目ない表情になった。
「商売人は流れた話にいつまでも手を合わせてはおられん。――流れた水が、次にどこで大河になるかは見るがな」
三津田は、何かが頓挫したからといって、そこに長く膝をついている人間ではない。
挫折は挫折として見切り、失った分は次で倍にして取り返す。
そういう男なのだ。
「わたしが、大河に見えるので?」
「勿論だ」
三津田は即座に答えた。
「妖狐の番となり、朱籬廓を変え、遊女の身体ではなく芸を売る街にすると言う。そんな娘は、一人として他にある訳がなかろう」
その調子に、かつて値踏みされたときの、肌の上を這うような不快感はなかった。
それでも値踏みはされている。
ただし今、見られているのは身体ではない。
この店。この街。この先に動く金と人と噂。
そして、珠璃自身の才覚だった。
「人間と妖は、これから否応なく混じる」
三津田は椀の湯気を眺めながら言った。
「押し留められぬ流れに逆らう者は、先に腐る。人間と妖が混じるというなら、真っ先に橋を掛けた者が勝つ。簡単な道理だ」
橋。
その言葉に、珠璃は一瞬、橋姫の濡れた白い後ろ姿を思い出した。
三津田は、すでに巨万の富を築き上げた男であることを隠そうともしない。
「……危うい橋でありんす」
「危うい橋ほど、通れる者が少ない。だから莫大な銭になるのだぞ。遅参多数派では利益が薄い」
この男は、完全な善人ではない。
だが生き残る道を先に読み解く目がある。
金の動き、人の欲、噂の向かう先を嗅ぎ取る鼻がある。
たとえ眉唾物と尻込みされる取引を前にしても、一歩も退かぬ度胸があるのが三津田だった。
遠い外つ国との貿易で、距離も言葉の壁も越えて来た男だ。
いまさら妖を相手取ることくらいで、足を竦ませはしない。
それもまた、色街を変えるために今の珠璃に必要な力なのだった。
人間の魂に、良いも悪いもない。
清いだけの者も、濁っただけの者もいない。
慈しむ和魂も、荒ぶる荒魂も、同じ身の内で息づいている。
三津田の強欲も抜け目のなさもまた、使いどころでは道具になるのだ。
紅扇姐さまを救うのに、珠璃は間に合わなかった。
それだけは、どれほど願おうとも、取り返しがつかない。
紅扇姐さまがどこで何を見て、何を思い、どのように消えたのか、珠璃には今から知りようがない。
けれど、同じように消えていく女を、これ以上一人も出したくなかった。
見世の奥で名を変えられ、値を付けられ、帳面に縛られたまま、黒いどぶ溝へ沈むように居なくなる女を。
そのために花魁であった過去も、廓で覚えた芸も、男の目を読む術も、すべて使うしかないというのなら、やってのけるしかない。
今、珠璃の目には、三津田が嘘八百を並べているようには見えなかった。
帳面の向こうにいる女たちを、一人ずつこちら側へ引き戻すには、この通人の絶大な影響力を利用するべきなのだろうと思う。
「手生けの花になったんだって? 新しい時代にお互いに唯一無二の結びを得た。それほど先進的な二人であろう」
「……」
手生けの花。
男が己の手で見出し、育てて咲かせ、他の客には指一本触れさせず、見せるだけ見せて囲い込んだ芸妓。
花柳界など、こうした色街界隈の古い言葉ではそう呼ばれるものに、いつの間にか珠璃はなっていた。
つまり家や血筋や置屋などに据えられた婚姻ではなく、自らで選んだ結びだと言いたいらしい。
「まあ、まだこれからの二人であろうが、近頃珍しい、粋で見上げた旦那道だねえ」
「……それで、三津田さまは何をなさりに?」
「出資だ。私はもう仕舞屋で金貸ししかしない。滅多に口も出さないよ」
自分から訊ねたこととはいえ、いきなり金の話になり、珠璃は身構えた。
「だが、まずは、この小料理屋を広げる。芸妓衆が客を連れて来ても恥ずかしくない店にする。昼は稽古帰りの娘が飯を食える。夜は座敷帰りの客が、芸の話をしながら酒を飲める。もちろん、女に手を出す場所ではなくなる」
「……そんなに都合よく女たちを守れましょうか」
「無論、守るさ。死に物狂いでな」
三津田は箸を置いた。
「物の怪に堕ちる者が増えれば、いずれ人間の側も脅かされる。私の目が黒いうちは、女を食い物にするような愚かな真似は罷り通らせん」
それは情や道理ではない、損得だった。
けれど、損得であるからこそ揺らがぬものもある。
三津田は、女を守るために立つのではない。
自分の財と身を守るために立つ。
そして、購買人である、種族としての人間を守るために死に物狂いになる。
その必要性を一度認めれば、金も顔も容赦なく使う種類の男だった。
「旨い小料理屋一つで終わらせる気はない。この仕法は、他にも利かせられる。仕入れは妖の里からなのだろう。目の付け所がいい。時流に乗った最先端だ。それこそ私の求めているところだ。……まずはここを本店にする」
「本店……」
「そうだ。いずれは暖簾を分ける。深朱の名で旅館を出す。料亭も出す。芸妓を呼べる、人間も妖も泊まれる峠の安全な温泉割烹旅館。妖の類稀な生産物はどれも人間にも喜ばれ、銭になる」
小料理屋だけでも、まだ始まったばかりだ。
それなのに三津田の目には、もう幾つもの街が見えているらしい。
珠璃は息を呑んだ。
「もちろん、無料で屋号と芸妓を貸すことはせん。仕組みにするのだよ」
「仕組み……」
「花代は安くするな。廓も色街全体で、抜けられぬ強固な仕組みを作り上げていただろう。同じことだ」
その一言は、特に重かった。
朱籬廓は、一軒の妓楼だけで成り立っていたわけではない。
大門があり、細かく籬があり、引手茶屋があり、揚屋があり、帳場があり、若衆がいて、女衒がいて、船頭がいて、髪結いも仕立屋も小間物屋も医者も草売りも、その周りで飯を食っていた。
女一人にぶら下がって、街全体を意図的に噛み合わせ、その裏ではすべてが遊女の借りになり、遊女の足首へ見えない鎖を足していった。
改めてそう指摘されると、珠璃は息が詰まった。
自分の生まれた境遇の不運だと思っていたものに、誰かの意図的な設計があったのだ。
「命あっての物種だ。これから女たちを安く使えば物の怪を生み、結局また身を削らせることになる。……飯も芸も、正しく高く取れ。その代わり、人間と妖の共棲の世に、私の身も守ってもらう」
三津田は、そこまで見越しているのだ。
女を使い潰す商いは、安く見えて高くつく。
恨みは溜まり、物の怪を呼び、いずれ店も客も巻き込む。
ならば始めから高く扱い、高く売り、長く稼がせる方がよい。
「武人は相身互い、商人もまた同じことさ。低級な妖どもが何をしてくるか判らんからな。その代わり、私は庇護者となる。そちらは橋となる。互いに利のある話だ」
珠璃は黙った。
廓で高い値を付けられることは、より高価な鎖に縛られることだった。
けれど、無邪気な幼少期を犠牲に身に付けた芸に値を付けることまで恐れていては、また女たちが苦しくなる。
修練を重ねて覚えた立役の所作や舞や小唄に、商品になるだけの十分な価値がないとは、絶対に言わせない。
身体を売らせない街にする。
ならば、芸と時間と技術に、正しい値を付けさせなければならない。
水揚げを逃したからと言って三津田は、そこに頓着する男ではなかった。
惜しいと笑い、次にもっと大きな流れがあると見れば、迷わずそちらへ金を投じる。
根っからの商売人なのだ。
三津田は楽しそうに微笑んだ。
「水揚げを逃したからこそ、見えるものもある。あの時、私が買おうとしたのは、ただの遊女との一夜と後見だった。今、私が買いたいのは、お前と、この先数十年の流れだ」
「数十年……」
「十年あれば、街の名は変わる。客も変わる。芸妓も育つ。人間と妖の間に新しい商いも生まれる。危ういが、先に場所を押さえた者が勝つ」
その目は、全く笑っていなかった。
莫大な財産を築いた者の、鋭い観察眼だった。
「ただの慈善などではない。私は儲ける気で出資する。そして、この花街の流れを押さえる」
「牛耳る、とおっしゃるの」
「まあ、有体に言えば、そうだな。……この色街を失くすのは惜しいのだ。金持ちの道楽者が集い、社交場になっていて儲け話も転がっているのだよ。これほど文化が濃く凝縮された街は他に類を見ない」
三津田は笑っている。
けれど、その笑みはもう遊客のものではなかった。
「私は、この街が欲しい。だが潰してまで奪う心算はない。潰せば価値がなくなる。私が前に出るのも違う。朱璃新地は、お前が前に立ってこそ値が出る」
値。
嫌な言葉のはずだった。
けれど今、その言葉は少し違って聞こえた。
珠璃一人の、身体の自由と未来へ付けられる値ではない。
芸へ。店へ。女たちが自分の足で生きるための仕組みへ。
三津田はそこへ値を見、双方に分がある利益の話をしている。
「わたしを看板にするお心で?」
「当然。新しいものはどんなときでも耳目を攫う。凡百に塗れるより、儲けたければ目立つことだ、深朱よ」
三津田は悪びれずに言った。
「妖狐の番となった女が、かつての廓を芸妓の街へ変える。これほど強い看板はない」
珠璃は、椀の湯気を見た。
奥では、稽古帰りの娘たちが握り飯を頬張っている。
誰かが三味線の爪を大事そうに包み、誰かが明日の舞の順を確かめている。
田舎の親元では、どれだけ腹を空かせても黙る外なかった娘たちだ。
耕す畑を持たない生まれには、余りにも不遇な現世だ。
否、土地持ちであろうと旱魃や虫害の年には、娘は真っ先に売られる。
この灯りを掲げ、広げてゆくには、珠璃と九郎助だけでは足りない。
人間の老獪な政治力も必要とされる。
「三津田さま」
珠璃は顔を上げた。
「出資をお受けいたします。ただし、女を傷つける客は、どれほど金を積んでも出入りお断りでありんす」
「よい」
「芸妓衆への支払いは、こちらで決めます。客筋を盾に、値を叩くこともお断りでありんす」
「それもよい」
「……それから」
珠璃は、三津田をまっすぐ見た。
ここだけは譲らない、と決めていた。
「わたしを、深朱太夫とは呼ばないでおくんなんし」
廓に与えられた名だ。
値をつけ、飾り、客の前へ差し出すための名だった。
もう、その名で過去の記憶に引き戻されたくはない。
「それでも、よろしおすか?」
三津田は一拍置いてから、深く笑った。
「承知した。だが、芸妓の仕込みは甘やかしてはならぬぞ。煽てて使うのは楽だが、楽な先に待つのは身の没落だ」
長く世を見て、痛い目も甘い汁も一通り味わった老人だけがする笑いだった。
「その場で恨まれても、後から思い返して有り難かったと思えるものだけが本物でな。……人の欲に合う珍しさだけで値が付く女もいる。だが、それは芸ではない。そんなものは相手の欲に寄り掛かっただけだ。後に残らぬ。いずれ没落する」
何も手を付けない三津田に気兼ねして、気の利く若い娘が温かい茶を運んで来た。
蘭と珠璃の小料理屋の躾は、もうそこまで行き届き始めている。
三津田は湯呑へ目をやり、満足そうに頷いた。
「こういうことだ。言われずとも察し、出しゃばらず、遅れもせぬ。これも立派な芸のうちだ。客を読もうとしている」
三津田は、茶を運んで来た娘の背を目で追った。
「判るか? 楽に愛される夢ばかり食わせて育てた娘は、金を払う客にはならん。選ばれる側だと思い込んだまま、選ぶ目も、稼ぐ手も育たぬ。花柳界を漂う二流で終わるのが関の山だ」
細かな算段までは、まだ若い珠璃には追い切れない。
「安い女に育てるな。……安く扱われれば、いずれ女もその値に似つかわしい、三文小説の顛末を辿りながら夢だけをみる」
その言葉に、珠璃は紅扇姐さまを思い出した。
――妾の今世の願いの一つは、あんたが安く売られぬようでありんす。
「だが、苦労して芸を仕込まれた娘は違う。長じた後、稼ぐ芸妓となって戻り、今度は旨い飯に金を落とす客にもなる。こちらは世のため人のために育てた顔をして、一流になった芸妓から先々まで取れる」
購買力を持つ賢い芸妓になるよう、叱るべきところは叱り、育てるべきなのだ。
珠璃は、素直に頷いた。
きっちり芸を仕込むことと、痛めつけることは違う。
それを取り違えた場所で育ったからこそ、その差だけは見誤れない。
かつての紅籬楼には、躾の名を借りただけの折檻も多かった。
「では、珠璃姫。よろしく頼む」
その呼び方は、少し不思議だった。
売り物としての名でも、花魁としての名でもない。
商いの相手として呼ばれた名であり、妖狐の里の長の番である今は本名でもあるものだった。
珠璃は、初めて三津田へ小さく頭を下げた。
「そのくらい、気が強くなくては困る」
三津田は、漸く団子汁へ口を付けた。
湯気の向こうで、その目はすでに新しい算盤を弾いている。
それから、思い出したように目を上げる。
「それと、酒を。こういう太平楽な話と美人を肴に飲む酒は、旨いと決まっておる。……珠璃姫、まァ、一杯」
先程の気の利いた働き娘が、珠璃に席を立たせる間もなく、即座に銚子を運んで来た。
たちまち珠璃の前へ小さな盃が置かれ、澄んだ酒がとくりと注がれる。
珠璃は盃を取り上げ、三津田へ軽く目礼してから口を付けた。
一口で干す。
それから、空いた盃を掌に受けたまま、三津田へ目を向ける。
「御返杯」
廓できつく仕込まれた作法は、身体に残っている。
けれど今は、客に媚びるためではない。
商いの相手として、盃を返すためのものだった。
三津田は心底愉快そうに目を細めた。
遡ること、その晩。
誰やらが「梅とさんさん桜はァ、いずれ兄やら弟やら、わきて言われぬ花の色ェ」と喉を転がしている。
その最中、暖簾を上げてこちらへ歩み寄って来た男を見て、珠璃は一瞬だけ手を止めた。
白髪を鬢に蓄えた三津田だった。
上等な羽織を何でもない顔で着こなし、色街に馴染んだ足取りで店へ入って来る。
その目だけが、座敷の広さ、客の入り、女たちの動きまで、一つずつ値踏みしていた。
かつて珠璃が深朱と呼ばれていた頃のことだ。
紅籬楼を背負って立つ花魁の水揚げの相手として、人品骨柄卑しからぬ人物と名を挙げられた初老の男。
避けて通れるなら、避けて通りたかった。
けれど商いを始めた以上、避けて通れぬ顔というものがある。
大金を持ち、客筋を持ち、噂の流れを持つ男。
その一人が三津田だった。
「これはこれは。深朱太夫」
三津田は、揶揄う調子で笑った。
言うなり、近くの机をぽんと叩いて拍子を取る。
「……もう花魁でも、太夫でもありんせん。……それに、今は珠璃と名乗っております」
珠璃はつい、廓詞で返してしまう。
怒鳴るでも睨むでもないが、三津田には向かい合った者を一段下がらせるだけの圧がある。
ただ笑いかけて来るだけで、こちらの立っている足場を、昔の古い畳へと錯覚させてくるような何かだ。
「朱籬廓一の姫に相応しい名だな」
珠璃は返事をしなかった。
三津田は邪険にされることなど織り込み済みの顔で笑みを深め、さらに畳み掛けて来た。
「あなたが花魁の幕を引いた、最後の花道は滅法な評判でしたよ」
そう懐柔するかのように言い、勝手に近い席へ腰を下ろした。
酒ではなく、団子汁を頼む。
「……失敗ったな。見たかったよ。人間と妖の世になる、とな。五十年ぶりほどの潮流の変わり目だ。果たして大時化か否か」
だが、全く時化が来るとは思ってもいない顔だった。
椀が運ばれて来ると、三津田は箸を取った。
けれど、湯気の立つ椀を眺めたまま、すぐには口を付けない。
椀の味にばかり興味があるのではない。
店の造り、女たちの動き、客の入り、奥の勘定場。
そのすべてを見ている。
やがて三津田は、箸を置いた。
椀には、まだ一口も付けていない。
ああ、と珠璃は思った。
この男は、遊びに来たのではない。
商いを見に来たのだ。
「夜の客に、座敷で舞や三味を披露する商売を始めたそうだな」
「ええ。女の身体ではなく、芸を売る街にします」
「また、大きく出たァ」
三津田の笑みは、ますます大きく広がった。
果敢に挑む者の直向きさを、心から歓迎する顔だった。
先駆者だけが総取りできることを知る身なれば、勝負に打って出る者を笑うなどあり得ない。
むしろその危うさごと値踏みし、どこへ銭を張れば最も大きく返るかを見極めてきた者の鷹揚な笑みを浮かべている。
「……水揚げのこと、恨んでおいでで?」
先に口にしたのは、珠璃だった。
この初老の男が、その話をする心算で来たのなら、待つほどこちらが不利になる。
ならば、先に手の内を明かしてしまった方がよい。
三津田は意外そうに目を細めた後、くつくつと低く笑った。
「惜しいとは思った」
正直な返事だった。
「だが、恨むほど暇な身ではない。遊び惚けた色ぼけ爺でもあるまいし、女に困っている訳でもない。……それに物の怪が出て、紅籬楼の格子が丸ごと焼け落ちたと別筋からも聞いている。深朱の花魁道中での口上を信じた根拠も、それだよ」
そこで三津田は抜け目ない表情になった。
「商売人は流れた話にいつまでも手を合わせてはおられん。――流れた水が、次にどこで大河になるかは見るがな」
三津田は、何かが頓挫したからといって、そこに長く膝をついている人間ではない。
挫折は挫折として見切り、失った分は次で倍にして取り返す。
そういう男なのだ。
「わたしが、大河に見えるので?」
「勿論だ」
三津田は即座に答えた。
「妖狐の番となり、朱籬廓を変え、遊女の身体ではなく芸を売る街にすると言う。そんな娘は、一人として他にある訳がなかろう」
その調子に、かつて値踏みされたときの、肌の上を這うような不快感はなかった。
それでも値踏みはされている。
ただし今、見られているのは身体ではない。
この店。この街。この先に動く金と人と噂。
そして、珠璃自身の才覚だった。
「人間と妖は、これから否応なく混じる」
三津田は椀の湯気を眺めながら言った。
「押し留められぬ流れに逆らう者は、先に腐る。人間と妖が混じるというなら、真っ先に橋を掛けた者が勝つ。簡単な道理だ」
橋。
その言葉に、珠璃は一瞬、橋姫の濡れた白い後ろ姿を思い出した。
三津田は、すでに巨万の富を築き上げた男であることを隠そうともしない。
「……危うい橋でありんす」
「危うい橋ほど、通れる者が少ない。だから莫大な銭になるのだぞ。遅参多数派では利益が薄い」
この男は、完全な善人ではない。
だが生き残る道を先に読み解く目がある。
金の動き、人の欲、噂の向かう先を嗅ぎ取る鼻がある。
たとえ眉唾物と尻込みされる取引を前にしても、一歩も退かぬ度胸があるのが三津田だった。
遠い外つ国との貿易で、距離も言葉の壁も越えて来た男だ。
いまさら妖を相手取ることくらいで、足を竦ませはしない。
それもまた、色街を変えるために今の珠璃に必要な力なのだった。
人間の魂に、良いも悪いもない。
清いだけの者も、濁っただけの者もいない。
慈しむ和魂も、荒ぶる荒魂も、同じ身の内で息づいている。
三津田の強欲も抜け目のなさもまた、使いどころでは道具になるのだ。
紅扇姐さまを救うのに、珠璃は間に合わなかった。
それだけは、どれほど願おうとも、取り返しがつかない。
紅扇姐さまがどこで何を見て、何を思い、どのように消えたのか、珠璃には今から知りようがない。
けれど、同じように消えていく女を、これ以上一人も出したくなかった。
見世の奥で名を変えられ、値を付けられ、帳面に縛られたまま、黒いどぶ溝へ沈むように居なくなる女を。
そのために花魁であった過去も、廓で覚えた芸も、男の目を読む術も、すべて使うしかないというのなら、やってのけるしかない。
今、珠璃の目には、三津田が嘘八百を並べているようには見えなかった。
帳面の向こうにいる女たちを、一人ずつこちら側へ引き戻すには、この通人の絶大な影響力を利用するべきなのだろうと思う。
「手生けの花になったんだって? 新しい時代にお互いに唯一無二の結びを得た。それほど先進的な二人であろう」
「……」
手生けの花。
男が己の手で見出し、育てて咲かせ、他の客には指一本触れさせず、見せるだけ見せて囲い込んだ芸妓。
花柳界など、こうした色街界隈の古い言葉ではそう呼ばれるものに、いつの間にか珠璃はなっていた。
つまり家や血筋や置屋などに据えられた婚姻ではなく、自らで選んだ結びだと言いたいらしい。
「まあ、まだこれからの二人であろうが、近頃珍しい、粋で見上げた旦那道だねえ」
「……それで、三津田さまは何をなさりに?」
「出資だ。私はもう仕舞屋で金貸ししかしない。滅多に口も出さないよ」
自分から訊ねたこととはいえ、いきなり金の話になり、珠璃は身構えた。
「だが、まずは、この小料理屋を広げる。芸妓衆が客を連れて来ても恥ずかしくない店にする。昼は稽古帰りの娘が飯を食える。夜は座敷帰りの客が、芸の話をしながら酒を飲める。もちろん、女に手を出す場所ではなくなる」
「……そんなに都合よく女たちを守れましょうか」
「無論、守るさ。死に物狂いでな」
三津田は箸を置いた。
「物の怪に堕ちる者が増えれば、いずれ人間の側も脅かされる。私の目が黒いうちは、女を食い物にするような愚かな真似は罷り通らせん」
それは情や道理ではない、損得だった。
けれど、損得であるからこそ揺らがぬものもある。
三津田は、女を守るために立つのではない。
自分の財と身を守るために立つ。
そして、購買人である、種族としての人間を守るために死に物狂いになる。
その必要性を一度認めれば、金も顔も容赦なく使う種類の男だった。
「旨い小料理屋一つで終わらせる気はない。この仕法は、他にも利かせられる。仕入れは妖の里からなのだろう。目の付け所がいい。時流に乗った最先端だ。それこそ私の求めているところだ。……まずはここを本店にする」
「本店……」
「そうだ。いずれは暖簾を分ける。深朱の名で旅館を出す。料亭も出す。芸妓を呼べる、人間も妖も泊まれる峠の安全な温泉割烹旅館。妖の類稀な生産物はどれも人間にも喜ばれ、銭になる」
小料理屋だけでも、まだ始まったばかりだ。
それなのに三津田の目には、もう幾つもの街が見えているらしい。
珠璃は息を呑んだ。
「もちろん、無料で屋号と芸妓を貸すことはせん。仕組みにするのだよ」
「仕組み……」
「花代は安くするな。廓も色街全体で、抜けられぬ強固な仕組みを作り上げていただろう。同じことだ」
その一言は、特に重かった。
朱籬廓は、一軒の妓楼だけで成り立っていたわけではない。
大門があり、細かく籬があり、引手茶屋があり、揚屋があり、帳場があり、若衆がいて、女衒がいて、船頭がいて、髪結いも仕立屋も小間物屋も医者も草売りも、その周りで飯を食っていた。
女一人にぶら下がって、街全体を意図的に噛み合わせ、その裏ではすべてが遊女の借りになり、遊女の足首へ見えない鎖を足していった。
改めてそう指摘されると、珠璃は息が詰まった。
自分の生まれた境遇の不運だと思っていたものに、誰かの意図的な設計があったのだ。
「命あっての物種だ。これから女たちを安く使えば物の怪を生み、結局また身を削らせることになる。……飯も芸も、正しく高く取れ。その代わり、人間と妖の共棲の世に、私の身も守ってもらう」
三津田は、そこまで見越しているのだ。
女を使い潰す商いは、安く見えて高くつく。
恨みは溜まり、物の怪を呼び、いずれ店も客も巻き込む。
ならば始めから高く扱い、高く売り、長く稼がせる方がよい。
「武人は相身互い、商人もまた同じことさ。低級な妖どもが何をしてくるか判らんからな。その代わり、私は庇護者となる。そちらは橋となる。互いに利のある話だ」
珠璃は黙った。
廓で高い値を付けられることは、より高価な鎖に縛られることだった。
けれど、無邪気な幼少期を犠牲に身に付けた芸に値を付けることまで恐れていては、また女たちが苦しくなる。
修練を重ねて覚えた立役の所作や舞や小唄に、商品になるだけの十分な価値がないとは、絶対に言わせない。
身体を売らせない街にする。
ならば、芸と時間と技術に、正しい値を付けさせなければならない。
水揚げを逃したからと言って三津田は、そこに頓着する男ではなかった。
惜しいと笑い、次にもっと大きな流れがあると見れば、迷わずそちらへ金を投じる。
根っからの商売人なのだ。
三津田は楽しそうに微笑んだ。
「水揚げを逃したからこそ、見えるものもある。あの時、私が買おうとしたのは、ただの遊女との一夜と後見だった。今、私が買いたいのは、お前と、この先数十年の流れだ」
「数十年……」
「十年あれば、街の名は変わる。客も変わる。芸妓も育つ。人間と妖の間に新しい商いも生まれる。危ういが、先に場所を押さえた者が勝つ」
その目は、全く笑っていなかった。
莫大な財産を築いた者の、鋭い観察眼だった。
「ただの慈善などではない。私は儲ける気で出資する。そして、この花街の流れを押さえる」
「牛耳る、とおっしゃるの」
「まあ、有体に言えば、そうだな。……この色街を失くすのは惜しいのだ。金持ちの道楽者が集い、社交場になっていて儲け話も転がっているのだよ。これほど文化が濃く凝縮された街は他に類を見ない」
三津田は笑っている。
けれど、その笑みはもう遊客のものではなかった。
「私は、この街が欲しい。だが潰してまで奪う心算はない。潰せば価値がなくなる。私が前に出るのも違う。朱璃新地は、お前が前に立ってこそ値が出る」
値。
嫌な言葉のはずだった。
けれど今、その言葉は少し違って聞こえた。
珠璃一人の、身体の自由と未来へ付けられる値ではない。
芸へ。店へ。女たちが自分の足で生きるための仕組みへ。
三津田はそこへ値を見、双方に分がある利益の話をしている。
「わたしを看板にするお心で?」
「当然。新しいものはどんなときでも耳目を攫う。凡百に塗れるより、儲けたければ目立つことだ、深朱よ」
三津田は悪びれずに言った。
「妖狐の番となった女が、かつての廓を芸妓の街へ変える。これほど強い看板はない」
珠璃は、椀の湯気を見た。
奥では、稽古帰りの娘たちが握り飯を頬張っている。
誰かが三味線の爪を大事そうに包み、誰かが明日の舞の順を確かめている。
田舎の親元では、どれだけ腹を空かせても黙る外なかった娘たちだ。
耕す畑を持たない生まれには、余りにも不遇な現世だ。
否、土地持ちであろうと旱魃や虫害の年には、娘は真っ先に売られる。
この灯りを掲げ、広げてゆくには、珠璃と九郎助だけでは足りない。
人間の老獪な政治力も必要とされる。
「三津田さま」
珠璃は顔を上げた。
「出資をお受けいたします。ただし、女を傷つける客は、どれほど金を積んでも出入りお断りでありんす」
「よい」
「芸妓衆への支払いは、こちらで決めます。客筋を盾に、値を叩くこともお断りでありんす」
「それもよい」
「……それから」
珠璃は、三津田をまっすぐ見た。
ここだけは譲らない、と決めていた。
「わたしを、深朱太夫とは呼ばないでおくんなんし」
廓に与えられた名だ。
値をつけ、飾り、客の前へ差し出すための名だった。
もう、その名で過去の記憶に引き戻されたくはない。
「それでも、よろしおすか?」
三津田は一拍置いてから、深く笑った。
「承知した。だが、芸妓の仕込みは甘やかしてはならぬぞ。煽てて使うのは楽だが、楽な先に待つのは身の没落だ」
長く世を見て、痛い目も甘い汁も一通り味わった老人だけがする笑いだった。
「その場で恨まれても、後から思い返して有り難かったと思えるものだけが本物でな。……人の欲に合う珍しさだけで値が付く女もいる。だが、それは芸ではない。そんなものは相手の欲に寄り掛かっただけだ。後に残らぬ。いずれ没落する」
何も手を付けない三津田に気兼ねして、気の利く若い娘が温かい茶を運んで来た。
蘭と珠璃の小料理屋の躾は、もうそこまで行き届き始めている。
三津田は湯呑へ目をやり、満足そうに頷いた。
「こういうことだ。言われずとも察し、出しゃばらず、遅れもせぬ。これも立派な芸のうちだ。客を読もうとしている」
三津田は、茶を運んで来た娘の背を目で追った。
「判るか? 楽に愛される夢ばかり食わせて育てた娘は、金を払う客にはならん。選ばれる側だと思い込んだまま、選ぶ目も、稼ぐ手も育たぬ。花柳界を漂う二流で終わるのが関の山だ」
細かな算段までは、まだ若い珠璃には追い切れない。
「安い女に育てるな。……安く扱われれば、いずれ女もその値に似つかわしい、三文小説の顛末を辿りながら夢だけをみる」
その言葉に、珠璃は紅扇姐さまを思い出した。
――妾の今世の願いの一つは、あんたが安く売られぬようでありんす。
「だが、苦労して芸を仕込まれた娘は違う。長じた後、稼ぐ芸妓となって戻り、今度は旨い飯に金を落とす客にもなる。こちらは世のため人のために育てた顔をして、一流になった芸妓から先々まで取れる」
購買力を持つ賢い芸妓になるよう、叱るべきところは叱り、育てるべきなのだ。
珠璃は、素直に頷いた。
きっちり芸を仕込むことと、痛めつけることは違う。
それを取り違えた場所で育ったからこそ、その差だけは見誤れない。
かつての紅籬楼には、躾の名を借りただけの折檻も多かった。
「では、珠璃姫。よろしく頼む」
その呼び方は、少し不思議だった。
売り物としての名でも、花魁としての名でもない。
商いの相手として呼ばれた名であり、妖狐の里の長の番である今は本名でもあるものだった。
珠璃は、初めて三津田へ小さく頭を下げた。
「そのくらい、気が強くなくては困る」
三津田は、漸く団子汁へ口を付けた。
湯気の向こうで、その目はすでに新しい算盤を弾いている。
それから、思い出したように目を上げる。
「それと、酒を。こういう太平楽な話と美人を肴に飲む酒は、旨いと決まっておる。……珠璃姫、まァ、一杯」
先程の気の利いた働き娘が、珠璃に席を立たせる間もなく、即座に銚子を運んで来た。
たちまち珠璃の前へ小さな盃が置かれ、澄んだ酒がとくりと注がれる。
珠璃は盃を取り上げ、三津田へ軽く目礼してから口を付けた。
一口で干す。
それから、空いた盃を掌に受けたまま、三津田へ目を向ける。
「御返杯」
廓できつく仕込まれた作法は、身体に残っている。
けれど今は、客に媚びるためではない。
商いの相手として、盃を返すためのものだった。
三津田は心底愉快そうに目を細めた。



