名を奪われて最初に仕込まれたのは、泣き方だった。
泣いてよいのではない。
泣く場所と、泣いてはならぬ時を教えられたのだ。
並べられた朝餉の膳を前にして、昨夜折檻されたらしい娘がすすり泣いている。
禿たちが外の手習所へ通うことはなかった。そのような場所へ出してもらえる身ではないし、そもそも廓には学ばせるという考え自体がない。
紅籬楼へは昼見世の前に手習いの師匠が来る。字を覚え歌を覚え、三味線の爪弾きと膝を崩さぬ座り方を覚える。
そのどこかで、この少し年上の禿は失敗ったのだろう。
遣り手婆が「飯がまずくなる」と癇を立てて言った。
箸も取らず、膳の向こうから吐き捨てる。
「その膳、下げてお了い。泣いた子に食わせる飯はないよ」
禿は慌てて袖で顔を拭ったが、飯炊の女がもう飯椀を持っていった後だった。
深朱は自分の膳を見た。麦の混じった飯、薄い汁、萎びた菜。それでも腹は鳴る。
分けてやりたいと思ったが、手は動かなかった。
ここで優しくすれば、自分の分まで無くなる。
「返事がねェぞ」
柱の傍から突然、男の声が飛び、深朱は肩を跳ねさせた。
「はい」
深朱が返すより早く、方々から返事が零れ始めた。
はい、はい、と細い声が重なり、遅れてもう一つ、先程の娘の泣き損ねたような生返事が混じる。禿たちは皆、叱られぬために応えていた。
「呼ばれたら先に返事だ。遅いッ。ここでは考えるんじゃァねェ」
若衆と呼ばれる男たちの殆どは若くはない。
顔の皺に潮焼けが染み、指は太く、女子供を叱り飛ばすのが唯一の愉しみだというような残忍な顔をしていた。
客にはならず、楼主にもなれず、女たちのすぐ傍にいながら稼ぎを莫迦にされ命令され、決して手を伸ばすことは許されない。
その鬱屈が太い指の節にも、黒ずんだ爪の先にも溜まっているようだった。
食事の間も、肩上げ腰上げのある小さな着物を身に着けた禿たちは、気を抜くことを許されない。
板間の端では、若衆が一人、柱にもたれていた。
箸の持ち方から、椀を置く音、返事の遅れまで見張っている。
食べることさえ、躾の場なのだ。
深朱も慌てて「はい」と言った。
「はんッ。田舎の子は返事まで泥臭い」
用向きもないくせに見物へ来ていた番頭新造が、鼻で笑った。
「膝を開くんじゃねェ。指を丸めて握らない。何でェ、箸も使えねェでやんの」
昨夜は疲れて、戌の刻の閉門前に眠り込んで了ったし、この朝に客などまだ一人も見ていない。
それなのに若衆はもう客の目があるという。
客の前では箸の上げ下ろし一つまで見られる。そう責め立てられながら口へ運ぶ飯は、こちらの方こそ味など判る筈もなかった。
深朱は膝を寄せ、指を伸ばし、背を立てながら食べた。
そうすると腹が苦しい。
けれど苦しいと顔に出せば、絶対にまた直される。
七つで引込禿となった深朱は、姐さまたちが見世の外へ出る時、その裾を持たされた。
引手茶屋へ呼ばれた時。
馴染み客へ顔を出す時。
あるいは近くの用足しに出る時でさえ。
綺羅びやかなものの傍にいると、いくらびらびら簪を挿していても、こんなの値が張る順に並べられた丈の、ただの虚栄なのだと判って了った。
この頃には、禿たちとは仲良くなっていた。
狐拳で、深朱は狐を出すのが巧かった。
細い指を耳に見立て、袖口へ半ば隠す。
負けた禿が悔しがるたび、雑魚寝部屋は笑いに揺れた。
「また狐だんすか」
「狐に化かされる方が悪いだんす」
――そう返していた、この頃は、まだ判っていなかった。
まさか本当に、己が妖狐へ見初められる娘になろうとは。
ある春の日、奥から呼び出され、張見世の格子の陰へ跪いた時、深朱は初めて突出しの道中を見た。
紅籬楼は大華通から一本奥へ入った見世だった。
客の目に触れぬよう奥まった格子の陰にいても、隙間からは斜め向こうの大通りが見えた。
そこだけ、昼の光を集めたように明るくなっている。
そこを、今まさに他所の大見世の花魁が通っていく。
桜の花びらが舞い散る中、屋号紋の入った裾を幾重にも引き、内八文字でゆるりと大通りを割ってゆく花魁の前には、見物も遣り手も若衆も、みな道を開けていた。
傍らには肩貸しが付き従い、先では見世の若衆の打ち鳴らす金棒が、しゃん、しゃんと春の通りに響いている。
仲之町の大通り全てがあの花魁のものになっていた。
あれこそが右京朱籬廓の名を背負う遊女なのだ。
幼い深朱は怖くなった。
あそこまで飾られ、あそこまで見られ、笑うことを求められる。
深朱にとって花とは、自然に咲くものではない。
――水面下では、幾人もの手が根を縛り、茎を撓め、花びらの向きまで整えている。
それでも、咲いているように見せるのだ。
自分の力で、美しく開いた花であるかのように。
けれど、あそこまでも、だなんて。
この色街は、女を食いものにして、寄って集って花に仕立て上げる。
そういう場所なのだと、もう判って来ていた。
二階にある紅扇姐さまの部屋には、外へ向いた窓に細い格子が嵌められていた。
そこで深朱は、いつも簪と煙管を磨かされた。
何しろ姐さまの使うものは、銀流しなどという粗悪品とは訳が違う。
本物の銀やべっ甲の飾りには手油がつき、長い煙管の雁首には煤が残るのだ。
すぐ脇に紅扇姐さまは鏡台の前で片膝を崩し、素足を裾から投げ出すようにして座っている。
猩々緋の襦袢が畳へ流れ、白い足の甲丈が灯りに浮く。
客前の張りつめた姿とは違う、しどけない座り方だった。
また、それさえも濃艶だ。
深朱が端切れを当て始めると、紅扇姐さまは鏡の前で襟を抜き、首筋へ練胡粉を刷きながら、横目でこちらを見た。
刷毛の跡が、白い肌の上へ細く重なる。
うなじの際だけ、地の肌の色が筋のように残っており、そこがかえって生々しかった。
「その目で人を見上げるのはおよし。真向かいから受けるのもいけんせん。憐れまれる女は安く買われるだんす」
深朱は慌てて目を伏せた。
「伏せすぎてもおかしいよ。丸きり盗人だんす」
「……済みません、です」
「見るでもなく逸らすでもなく。眼の遣い方を覚えなんし」
紅扇姐さまの言葉には、いつも棘がある。
厭味も偶さかあるが、他の大人よりはましだった。
綺麗だと誰からも言われるこの眼を、どう使えば値になるのか。
姐さまは実際に見せて呉れる。
「そうそう、布海苔と鬼灯の根を都合して来て呉れたら、お菓子をあげるだんす」
「布海苔って、海藻?」
「そうでありんす。洗い張りにも使うものだから飯炊き女も怪しまないだんす。五月蠅く言うようなら、金子を握らせなんし」
姐さまは、何でもないことのように言って、お銭を握らせて呉れた。
「うまくやれたら残りはあげるだんす。西河岸の立ち食い露店を覗くのは楽しかろ。二八蕎麦でも菓子でも好きに買いなんし」
菓子を買う銭よりたっぷり多い。
小さな掌には、余るほどの重さだった。
落とせば叱られるどころでは済まないと幼い深朱にも判る。
なのに姐さまは、まるで簪を一本渡すような顔をしていた。
「鬼灯の根っこはその西河岸に来る草売りからお買いなんし。橙色の袋がついている、あれだんす」
「鬼灯も洗い張りに使うの?」
そう訊ねると、紅扇姐さまは笑った。
いつものように綺麗な笑みだったのにどこかでひやりとする。
「深くは聞かないことだんす。賢く持って来られる子が生き残れるだんす」
菓子に釣られたのに、深朱の指先はいつの間にか帯の端を握り込んでいた。
何か、いけないものを頼まれている。
そう判っても、断れる境遇ではなかった。
姐さまたちの個室は二階にあった。
禿たちは、さらに奥のどん詰まり、行燈部屋の手前にある大部屋で雑魚寝だった。
どの部屋も外へ出るには遠いが、それぞれ宛がわれた禿を手元へ置き、用事を言いつけるには恰度具合がいい配置になっている。
梯子段を降りるすぐ手前には、遣り手婆の部屋がある。
襖一枚隔てた向こうで、誰が上がり、誰が降りるか、婆は音だけで聞き分けていた。
用向きがあっても、勝手に外には行けない。
ときには梯子そのものが外されている。
幸い、その日は梯子が掛けられていた。
深朱は引付座敷の前を通り過ぎ、二階廻しの横をすり抜ける。
昼客の笑いと三味線の端唄を背に、奥の梯子段へ足をかけた。
下へ降りるにつれ、飯炊きの湯気と、湿気を吸った板間の匂いが濃くなる。
外の若衆小屋の脇を抜ける。
厭だったが、深朱は奥の帳面部屋へ向かった。
帳面に覆い被さるようにして算盤を弾いていた番頭新造に頭を下げ、握っていた銭を差し出す。
飯炊き女に直接頼めば、あとで代わりに叱られて了い、可哀想で堪忍ならない。
米も味噌も薪も布海苔も、見世に出入りするものは、みな帳面に載る。
その帳面を握っているのが、この女だった。
「洗い張りに使うだんす」
番頭新造は、帳面から目も上げずに舌打ちした。
忙しいところを邪魔されたのが、ありありと判る顔だった。
「なら、早くおし。あんたらみたいに暇じゃァないんだよ」
そう言うなり立ち上がり、帳面を小脇に抱えたまま先へ歩き出す。
深朱は小走りについて行き、土間で布海苔の包みを受け取った。
番頭新造は、飯炊き女に何やら短く言いつけると、すぐに踵を返した。
その間も、眉間には深い皺が寄ったままだ。
手の内で、湿った包みがぬめった。
指先にまとわりつく感触を、気味悪がってはならない。
そういう顔をすれば、また田舎者と嗤われる。
この姐さんは、売れっ子になれなかった。
客のつかぬ夜を重ね、お茶を引き、やがて帳面の傍へ回されたはみ出し者なのだと、深朱はもう知っていた。
だから外連味が強く卑しいのか、性根が元より卑しいから裏方へ回されたのかは判らない。
ただ、板の間稼ぎをしながら人の失敗を見つける目丈は、厭に鋭い。
売れっ子の花魁が客の欲と懐具合を見抜くよりも、ずっと早く。
鬼灯の根は西河岸に扱いがあると、紅扇姐さまは言っていた。
深朱は袂に小銭を忍ばせ、露店と露店の間を縫うように歩いた。火事の用心に処々水を溜めた手桶が配されている。
西河岸は大華通の華やぎとは違う匂いだった。
伽羅からは格の落ちる桂皮や丁字の匂い、乾いた薬草、古い油といったものが漂っている。
草売りは、錆びた火鉢の脇に座っていた。
笊には干した根、紙に包まれた種、色の褪せた薬草が並び、その端の一つに赤い鬼灯が二つ三つ転がっている。
草売りの老婆は、鬼灯を見ている深朱に、曰くありげな目を細めた。
「鬼灯かい。小さい手で買いに来るには厭な品だねェ。誰かの遣いかい」
「…… 姐さまの」
「ふうん。姐さまね」
老婆はそれ以上聞かなかった。
まさか深朱を素人家と勘違いした筈もないが、聞かないことに慣れている者の顔だった。
紅籬楼に戻って包みを差し出しても、紅扇姐さまは礼を言わなかった。
「余計なことを覚えて来た顔だね。そういう子ほど、長くここに残るだんす」
深朱は返す言葉がなかった。
長く残る。それは褒め言葉ではない。呪いにも似ていた。
その夜、紅扇姐さまは、本来なら深朱などに構っている暇はなかった。
夜見世の支度は終わっても、客へ返す文があり、明日の座敷の打掛を選び、遣り手婆に呼ばれればすぐ立たねばならない。
それでも姐さまは、どこからか冷やし飴の入った硝子の杯を持って来て、幼い深朱の手に渡した。
「そこにお座りんす」
鏡台の前を指され、深朱は言われるままに腰を下ろした。
「髪が乱れておりんす」
紅扇姐さまは背後へ回り、櫛を取った。
結い残した髪の先から、ゆっくりと梳いていく。
深朱は両手で硝子の杯を持ち、一口含んだ。
冷やし飴の甘さが、口いっぱいに広がった。
紅扇姐さまは、紅籬楼でただ一人の座敷持昼三だ。
名こそ昼三で、昼きりで済む身ではないが、要すればこの中見世で唯一、花魁と呼ばれる高位遊女である。
その姐やが髪結に命ずるのでなく、夜の座敷に茶を運ぶ禿の髪を手ずから直してやる。
それ丈で、見世の者には意味が通じた。
この子は紅扇専用の禿となり、いずれ振袖新造となり、紅扇の後に続き、紅籬楼の次の花に仕立てられる。
髪を強く引かれて少し痛かったが、深朱は動かなかった。
髪油も使わないので横兵庫でこそなかったが、一通り結い終えると、姐さまは簪を一本、深朱の髪に当ててみて、すぐに外した。
「まだ早いだんす」
それは叱責ではなかった。
いつか挿す日が来る、ということに思いを馳せたようでもあった。
「座敷に煙草盆をやったら、もう寝るだんす」
それ丈言って簪を箱へ戻した。
深朱は鏡の中の自分を見た。
綺麗にすることが、銭に繋がる世界だ。
優等の総牡丹になることが、死と隣り合わせの貧困から一等遠ざかる道となる。
怖いのに、少し嬉しくも感じる。
そして嬉しいと思うよう、既に躾られて了ったことが、一番怖かった。
泣いてよいのではない。
泣く場所と、泣いてはならぬ時を教えられたのだ。
並べられた朝餉の膳を前にして、昨夜折檻されたらしい娘がすすり泣いている。
禿たちが外の手習所へ通うことはなかった。そのような場所へ出してもらえる身ではないし、そもそも廓には学ばせるという考え自体がない。
紅籬楼へは昼見世の前に手習いの師匠が来る。字を覚え歌を覚え、三味線の爪弾きと膝を崩さぬ座り方を覚える。
そのどこかで、この少し年上の禿は失敗ったのだろう。
遣り手婆が「飯がまずくなる」と癇を立てて言った。
箸も取らず、膳の向こうから吐き捨てる。
「その膳、下げてお了い。泣いた子に食わせる飯はないよ」
禿は慌てて袖で顔を拭ったが、飯炊の女がもう飯椀を持っていった後だった。
深朱は自分の膳を見た。麦の混じった飯、薄い汁、萎びた菜。それでも腹は鳴る。
分けてやりたいと思ったが、手は動かなかった。
ここで優しくすれば、自分の分まで無くなる。
「返事がねェぞ」
柱の傍から突然、男の声が飛び、深朱は肩を跳ねさせた。
「はい」
深朱が返すより早く、方々から返事が零れ始めた。
はい、はい、と細い声が重なり、遅れてもう一つ、先程の娘の泣き損ねたような生返事が混じる。禿たちは皆、叱られぬために応えていた。
「呼ばれたら先に返事だ。遅いッ。ここでは考えるんじゃァねェ」
若衆と呼ばれる男たちの殆どは若くはない。
顔の皺に潮焼けが染み、指は太く、女子供を叱り飛ばすのが唯一の愉しみだというような残忍な顔をしていた。
客にはならず、楼主にもなれず、女たちのすぐ傍にいながら稼ぎを莫迦にされ命令され、決して手を伸ばすことは許されない。
その鬱屈が太い指の節にも、黒ずんだ爪の先にも溜まっているようだった。
食事の間も、肩上げ腰上げのある小さな着物を身に着けた禿たちは、気を抜くことを許されない。
板間の端では、若衆が一人、柱にもたれていた。
箸の持ち方から、椀を置く音、返事の遅れまで見張っている。
食べることさえ、躾の場なのだ。
深朱も慌てて「はい」と言った。
「はんッ。田舎の子は返事まで泥臭い」
用向きもないくせに見物へ来ていた番頭新造が、鼻で笑った。
「膝を開くんじゃねェ。指を丸めて握らない。何でェ、箸も使えねェでやんの」
昨夜は疲れて、戌の刻の閉門前に眠り込んで了ったし、この朝に客などまだ一人も見ていない。
それなのに若衆はもう客の目があるという。
客の前では箸の上げ下ろし一つまで見られる。そう責め立てられながら口へ運ぶ飯は、こちらの方こそ味など判る筈もなかった。
深朱は膝を寄せ、指を伸ばし、背を立てながら食べた。
そうすると腹が苦しい。
けれど苦しいと顔に出せば、絶対にまた直される。
七つで引込禿となった深朱は、姐さまたちが見世の外へ出る時、その裾を持たされた。
引手茶屋へ呼ばれた時。
馴染み客へ顔を出す時。
あるいは近くの用足しに出る時でさえ。
綺羅びやかなものの傍にいると、いくらびらびら簪を挿していても、こんなの値が張る順に並べられた丈の、ただの虚栄なのだと判って了った。
この頃には、禿たちとは仲良くなっていた。
狐拳で、深朱は狐を出すのが巧かった。
細い指を耳に見立て、袖口へ半ば隠す。
負けた禿が悔しがるたび、雑魚寝部屋は笑いに揺れた。
「また狐だんすか」
「狐に化かされる方が悪いだんす」
――そう返していた、この頃は、まだ判っていなかった。
まさか本当に、己が妖狐へ見初められる娘になろうとは。
ある春の日、奥から呼び出され、張見世の格子の陰へ跪いた時、深朱は初めて突出しの道中を見た。
紅籬楼は大華通から一本奥へ入った見世だった。
客の目に触れぬよう奥まった格子の陰にいても、隙間からは斜め向こうの大通りが見えた。
そこだけ、昼の光を集めたように明るくなっている。
そこを、今まさに他所の大見世の花魁が通っていく。
桜の花びらが舞い散る中、屋号紋の入った裾を幾重にも引き、内八文字でゆるりと大通りを割ってゆく花魁の前には、見物も遣り手も若衆も、みな道を開けていた。
傍らには肩貸しが付き従い、先では見世の若衆の打ち鳴らす金棒が、しゃん、しゃんと春の通りに響いている。
仲之町の大通り全てがあの花魁のものになっていた。
あれこそが右京朱籬廓の名を背負う遊女なのだ。
幼い深朱は怖くなった。
あそこまで飾られ、あそこまで見られ、笑うことを求められる。
深朱にとって花とは、自然に咲くものではない。
――水面下では、幾人もの手が根を縛り、茎を撓め、花びらの向きまで整えている。
それでも、咲いているように見せるのだ。
自分の力で、美しく開いた花であるかのように。
けれど、あそこまでも、だなんて。
この色街は、女を食いものにして、寄って集って花に仕立て上げる。
そういう場所なのだと、もう判って来ていた。
二階にある紅扇姐さまの部屋には、外へ向いた窓に細い格子が嵌められていた。
そこで深朱は、いつも簪と煙管を磨かされた。
何しろ姐さまの使うものは、銀流しなどという粗悪品とは訳が違う。
本物の銀やべっ甲の飾りには手油がつき、長い煙管の雁首には煤が残るのだ。
すぐ脇に紅扇姐さまは鏡台の前で片膝を崩し、素足を裾から投げ出すようにして座っている。
猩々緋の襦袢が畳へ流れ、白い足の甲丈が灯りに浮く。
客前の張りつめた姿とは違う、しどけない座り方だった。
また、それさえも濃艶だ。
深朱が端切れを当て始めると、紅扇姐さまは鏡の前で襟を抜き、首筋へ練胡粉を刷きながら、横目でこちらを見た。
刷毛の跡が、白い肌の上へ細く重なる。
うなじの際だけ、地の肌の色が筋のように残っており、そこがかえって生々しかった。
「その目で人を見上げるのはおよし。真向かいから受けるのもいけんせん。憐れまれる女は安く買われるだんす」
深朱は慌てて目を伏せた。
「伏せすぎてもおかしいよ。丸きり盗人だんす」
「……済みません、です」
「見るでもなく逸らすでもなく。眼の遣い方を覚えなんし」
紅扇姐さまの言葉には、いつも棘がある。
厭味も偶さかあるが、他の大人よりはましだった。
綺麗だと誰からも言われるこの眼を、どう使えば値になるのか。
姐さまは実際に見せて呉れる。
「そうそう、布海苔と鬼灯の根を都合して来て呉れたら、お菓子をあげるだんす」
「布海苔って、海藻?」
「そうでありんす。洗い張りにも使うものだから飯炊き女も怪しまないだんす。五月蠅く言うようなら、金子を握らせなんし」
姐さまは、何でもないことのように言って、お銭を握らせて呉れた。
「うまくやれたら残りはあげるだんす。西河岸の立ち食い露店を覗くのは楽しかろ。二八蕎麦でも菓子でも好きに買いなんし」
菓子を買う銭よりたっぷり多い。
小さな掌には、余るほどの重さだった。
落とせば叱られるどころでは済まないと幼い深朱にも判る。
なのに姐さまは、まるで簪を一本渡すような顔をしていた。
「鬼灯の根っこはその西河岸に来る草売りからお買いなんし。橙色の袋がついている、あれだんす」
「鬼灯も洗い張りに使うの?」
そう訊ねると、紅扇姐さまは笑った。
いつものように綺麗な笑みだったのにどこかでひやりとする。
「深くは聞かないことだんす。賢く持って来られる子が生き残れるだんす」
菓子に釣られたのに、深朱の指先はいつの間にか帯の端を握り込んでいた。
何か、いけないものを頼まれている。
そう判っても、断れる境遇ではなかった。
姐さまたちの個室は二階にあった。
禿たちは、さらに奥のどん詰まり、行燈部屋の手前にある大部屋で雑魚寝だった。
どの部屋も外へ出るには遠いが、それぞれ宛がわれた禿を手元へ置き、用事を言いつけるには恰度具合がいい配置になっている。
梯子段を降りるすぐ手前には、遣り手婆の部屋がある。
襖一枚隔てた向こうで、誰が上がり、誰が降りるか、婆は音だけで聞き分けていた。
用向きがあっても、勝手に外には行けない。
ときには梯子そのものが外されている。
幸い、その日は梯子が掛けられていた。
深朱は引付座敷の前を通り過ぎ、二階廻しの横をすり抜ける。
昼客の笑いと三味線の端唄を背に、奥の梯子段へ足をかけた。
下へ降りるにつれ、飯炊きの湯気と、湿気を吸った板間の匂いが濃くなる。
外の若衆小屋の脇を抜ける。
厭だったが、深朱は奥の帳面部屋へ向かった。
帳面に覆い被さるようにして算盤を弾いていた番頭新造に頭を下げ、握っていた銭を差し出す。
飯炊き女に直接頼めば、あとで代わりに叱られて了い、可哀想で堪忍ならない。
米も味噌も薪も布海苔も、見世に出入りするものは、みな帳面に載る。
その帳面を握っているのが、この女だった。
「洗い張りに使うだんす」
番頭新造は、帳面から目も上げずに舌打ちした。
忙しいところを邪魔されたのが、ありありと判る顔だった。
「なら、早くおし。あんたらみたいに暇じゃァないんだよ」
そう言うなり立ち上がり、帳面を小脇に抱えたまま先へ歩き出す。
深朱は小走りについて行き、土間で布海苔の包みを受け取った。
番頭新造は、飯炊き女に何やら短く言いつけると、すぐに踵を返した。
その間も、眉間には深い皺が寄ったままだ。
手の内で、湿った包みがぬめった。
指先にまとわりつく感触を、気味悪がってはならない。
そういう顔をすれば、また田舎者と嗤われる。
この姐さんは、売れっ子になれなかった。
客のつかぬ夜を重ね、お茶を引き、やがて帳面の傍へ回されたはみ出し者なのだと、深朱はもう知っていた。
だから外連味が強く卑しいのか、性根が元より卑しいから裏方へ回されたのかは判らない。
ただ、板の間稼ぎをしながら人の失敗を見つける目丈は、厭に鋭い。
売れっ子の花魁が客の欲と懐具合を見抜くよりも、ずっと早く。
鬼灯の根は西河岸に扱いがあると、紅扇姐さまは言っていた。
深朱は袂に小銭を忍ばせ、露店と露店の間を縫うように歩いた。火事の用心に処々水を溜めた手桶が配されている。
西河岸は大華通の華やぎとは違う匂いだった。
伽羅からは格の落ちる桂皮や丁字の匂い、乾いた薬草、古い油といったものが漂っている。
草売りは、錆びた火鉢の脇に座っていた。
笊には干した根、紙に包まれた種、色の褪せた薬草が並び、その端の一つに赤い鬼灯が二つ三つ転がっている。
草売りの老婆は、鬼灯を見ている深朱に、曰くありげな目を細めた。
「鬼灯かい。小さい手で買いに来るには厭な品だねェ。誰かの遣いかい」
「…… 姐さまの」
「ふうん。姐さまね」
老婆はそれ以上聞かなかった。
まさか深朱を素人家と勘違いした筈もないが、聞かないことに慣れている者の顔だった。
紅籬楼に戻って包みを差し出しても、紅扇姐さまは礼を言わなかった。
「余計なことを覚えて来た顔だね。そういう子ほど、長くここに残るだんす」
深朱は返す言葉がなかった。
長く残る。それは褒め言葉ではない。呪いにも似ていた。
その夜、紅扇姐さまは、本来なら深朱などに構っている暇はなかった。
夜見世の支度は終わっても、客へ返す文があり、明日の座敷の打掛を選び、遣り手婆に呼ばれればすぐ立たねばならない。
それでも姐さまは、どこからか冷やし飴の入った硝子の杯を持って来て、幼い深朱の手に渡した。
「そこにお座りんす」
鏡台の前を指され、深朱は言われるままに腰を下ろした。
「髪が乱れておりんす」
紅扇姐さまは背後へ回り、櫛を取った。
結い残した髪の先から、ゆっくりと梳いていく。
深朱は両手で硝子の杯を持ち、一口含んだ。
冷やし飴の甘さが、口いっぱいに広がった。
紅扇姐さまは、紅籬楼でただ一人の座敷持昼三だ。
名こそ昼三で、昼きりで済む身ではないが、要すればこの中見世で唯一、花魁と呼ばれる高位遊女である。
その姐やが髪結に命ずるのでなく、夜の座敷に茶を運ぶ禿の髪を手ずから直してやる。
それ丈で、見世の者には意味が通じた。
この子は紅扇専用の禿となり、いずれ振袖新造となり、紅扇の後に続き、紅籬楼の次の花に仕立てられる。
髪を強く引かれて少し痛かったが、深朱は動かなかった。
髪油も使わないので横兵庫でこそなかったが、一通り結い終えると、姐さまは簪を一本、深朱の髪に当ててみて、すぐに外した。
「まだ早いだんす」
それは叱責ではなかった。
いつか挿す日が来る、ということに思いを馳せたようでもあった。
「座敷に煙草盆をやったら、もう寝るだんす」
それ丈言って簪を箱へ戻した。
深朱は鏡の中の自分を見た。
綺麗にすることが、銭に繋がる世界だ。
優等の総牡丹になることが、死と隣り合わせの貧困から一等遠ざかる道となる。
怖いのに、少し嬉しくも感じる。
そして嬉しいと思うよう、既に躾られて了ったことが、一番怖かった。



