名を奪われて最初に仕込まれたのは、泣き方だった。
泣いてよいのではない。
泣く場所と、泣いてはならぬ時を教えられたのだ。
並べられた朝餉の膳を前にして、昨夜折檻されたらしい娘がすすり泣いている。
禿たちが外の手習い所へ通うことはなかった。そのような場所へ出してもらえる身ではないし、そもそも廓には学ばせるという考え自体がない。
紅籬楼へは昼見世の前に手習いの師匠が来る。
字を覚え歌を覚え、三味線の爪弾きと膝を崩さぬ座り方を覚える。
そのどこかで、この少し年上の禿はしくじったのだろう。
遣り手婆は「飯がまずくなる」と不機嫌そうに言い、とうとう癇癪を起こした。箸も取らず、膳の向こうから吐き捨てる。
「その膳、下げてお了い。泣いた子に食わせる飯はないよ」
禿は慌てて袖で顔を拭ったが、飯炊の女がもう飯椀を持っていった後だった。
深朱は自分の膳を見た。麦の混じった飯、薄い汁、萎びた菜。それでも腹は鳴る。
分けてやりたいと思ったが、手は動かなかった。
ここで優しくすれば、自分の分まで無くなる。
「返事がねェぞ」
柱の傍から突然、男の声が飛び、深朱は肩を跳ねさせた。
「はい」
深朱が返すより早く、あちこちから返事が零れ始めた。
はい、はい、と細い声が重なり、遅れてもう一つ、先程の娘の泣き損ねたような生返事が混じる。禿たちは皆、叱られぬために応えていた。
「遅い。呼ばれたら、先に返事だ。ここでは考えるんじゃない」
若衆は若くはなかった。
顔の皺に潮焼けが染み、指は太く、女子供を叱り飛ばすのが唯一の愉しみだというような残忍な顔をしていた。
客にはならず、楼主にもなれず、女たちのすぐ傍にいながら稼ぎを莫迦にされ命令され、決して手を伸ばすことは許されない。
その鬱屈が太い指の節にも、黒ずんだ爪の先にも溜まっているようだった。
食事の間も、禿たちは放っておかれない。
板間の端では、若衆が一人、柱にもたれて箸の持ち方から返事の遅れまで見張っていた。
深朱も慌てて「はい」と言うと、今度は番頭新造が鼻で笑った。
「はんッ。田舎の子は返事まで泥臭い」
「膝を開くんじゃねェ。指を丸めて握らない。何でェ、箸も使えねェでやんの」
昨夜は疲れて、戌の刻の閉門前に眠り込んでしまったし、この朝に客などまだ一人も見ていない。
それなのに若衆はもう客の目があるという。
客の前では箸の上げ下ろし一つまで見られる。そう責め立てられながら口へ運ぶ飯は、こちらの方こそ味など判る筈もなかった。
深朱は膝を寄せ、指を伸ばし、背を立てながら食べた。
そうすると腹が苦しい。
けれど、苦しいと顔に出せばまた直される。
ここでは、息の仕方さえ誰かの商売に触れていた。
七つで引込禿となった深朱が最初に覚えたのは、文字でも三味線でもなかった。
己がまだ花ですらなく、花の影を運ぶものに過ぎぬということだ。
姐さまたちが見世の外へ出る時、深朱はその裾を持たされた。
引手茶屋へ呼ばれた時。
馴染み客へ顔を出す時。
あるいは近くの用足しに出る時でさえ。
綺羅びやかなものの傍にいると、いくらびらびら簪を挿していても妾はまだ美しいものの側ではないと思い知らされた。
憧れ丈でもない。
こんなの値が張る順に並べられただけの、ただの階級なのだ。
ある春の日、奥から呼び出されて客からは見えぬように張見世の格子の陰に跪いた時、深朱は初めて道中の突出しを見た。
紅籬楼は大華通から一本奥へ入った見世だったが、格子の隙間からは、斜め向こうに大通りの明るさが切れて見える。
そこを、今まさに他所の大見世の花魁が通っていく。
桜の花びらが舞い散る中、屋号紋の入った裾を幾重にも引き、外八文字でゆるりと大通りを割ってゆく花魁の前には、見物も遣り手も若衆も、みな道を開けていた。傍らには肩貸しが付き従い、先では若衆の打ち鳴らす金棒が、しゃん、しゃんと春の通りに響いている。
仲之町の大通り全てがあの花魁のものになっていた。
あれが、右京朱籬廓の名を背負う遊女なのだ。
幼い深朱は、羨むより先に怖くなった。
あそこまで飾られ、あそこまで見られ、笑うことを求められる。
花とは、咲くものではない。
水面下に努力して、美しく咲いているように見せるものなのだった。
紅扇姐さまの部屋では、いつも簪と煙管を磨かされた。
銀やべっ甲の飾りには手油がつき、長い煙管の雁首には煤が残っている。
すぐ脇に紅扇姐さまは鏡台の前で片膝を崩し、素足を裾から投げ出すようにして座っている。
緋の襦袢が畳へ流れ、白い足の甲だけが灯に浮く。
客前の張りつめた姿とは違う、しどけない座り方だった。
深朱が布を当て始めると、紅扇姐さまは鏡の前で髪を梳きながら横目で見た。
「その目で人を見上げるのはおよし。真向かいから受けるのもいけんせん。憐れまれる女は安く買われるだんす」
深朱は慌てて目を伏せた。
「伏せすぎてもおかしいよ。丸っきり盗人だんす」
「……済みません、です」
「見るでもなく、逸らすでもなく。眼の遣い方を覚えなんし」
厭味は痛い。
紅扇姐さまの言葉には、いつも棘がある。
それでも、ほかの大人よりはましだった。
綺麗だと誰からも言われるこの眼を、どう使えば値になるのか。紅扇姐さまは実際に見せてくれる。
「そうそう、布海苔と鬼灯を都合して来て呉れたら、お菓子をあげるだんす」
「布海苔って、海藻?」
「そうでありんす。洗い張りにも使うものだから飯炊女も怪しまないだんす。五月蠅く言うようなら、金子を握らせなんし」
姐さまは、何でもないことのように言って、金貨を握らせてくれた。
「うまくやれたら残りはあげるだんす。西河岸の立ち食い露店を覗くのは楽しかろ。二八蕎麦でも菓子でも好きに買いなんし」
小さな掌には、余るほどの重さだった。
菓子を買う銭よりたっぷり多い。
落とせば叱られるどころでは済まないと幼い深朱にも判る。
なのに姐さまは、まるで簪を一本渡すような顔をしていた。
「鬼灯はその西河岸に来る草売りからお買いなんし。橙色の袋がついている、あれだんす」
「鬼灯も洗い張りに使うの?」
そう訊ねると、紅扇姐さまは笑った。
いつものように綺麗な笑みだったのにどこかでひやりとする。
「深くは聞かないことだんす。賢く持って来られる子丈が生き残れるだんす」
菓子に釣られたはずなのに、深朱の指先はいつの間にか帯の端を握っていた。
何か、いけないものを頼まれている。
そう判っても、断れる境遇ではなかった。
姐さまたちの個室は二階にあった。
禿たちは更に奥のどん詰まりの大部屋でみなで雑魚寝だった。
どの部屋も外へ出るには遠いが、それぞれ宛がわれた禿を手元へ置き、髪を結わせ、煙管を磨かせ、用を言いつけるには丁度具合がいい配置になっている。
階段を降りるすぐ手前には遣り手婆の部屋があり、襖一枚隔てた向こうで、誰が上がり、誰が降りるかを聞き分けている。
深朱は引付座敷の前を通り過ぎ、昼客の笑いと三味線の音を背にして、奥の階段を降りた。下は飯炊きの湯気と湿った板間の匂いが漂っていた。
外の若衆小屋の脇を抜け、荷の出入りを記した帳面を抱える番頭新造に頭を下げる。洗い張りに使いたいと言って布海苔を受け取った。
手の内で湿った包みが少しぬめる。しかし気味が悪いと思ってはいけない。そういう顔をすれば、また田舎者と笑われる。
この姐さんは、売れっ子になれなかった。
客のつかぬ夜を重ね、お茶を引き、やがて帳面の傍へ回されたはみ出し者なのだと、深朱はもう知っていた。だから意地が悪いのか、意地が悪いから回されたのかは判らない。ただ、人の失敗を見つける目丈は、売れっ子の花魁よりよほど鋭かった。
鬼灯は西河岸に扱いがあると、紅扇姐さまは言った。
深朱は袂に小銭を忍ばせ、処々手桶を積んで水を溜めてある露店と露店の間を縫うように歩いた。
西河岸は大華通の華やぎとは違う匂いだ。
伽羅からは少し格の落ちる桂皮や丁字の匂い、乾いた薬草、古い油といったものが漂っている。
草売りは、錆びた火鉢の脇に座っていた。
笊には干した根、紙に包まれた種、色の褪せた薬草が並び、その端の一つに赤い鬼灯が二つ三つ転がっている。
草売りの老婆は、鬼灯を見ている深朱に、曰くありげな目を細めた。
「鬼灯かい。小さい手で買いに来るには厭な品だね。誰かの遣いかい」
「…… 姐さまの」
「ふうん。姐さまね」
老婆はそれ以上聞かなかった。
聞かないことに慣れている者の顔だった。
紅籬楼に戻って包みを差し出しても、紅扇姐さまは礼を言わなかった。
「余計なことを覚えて来た顔だね。そういう子ほど、長くここに残るだんす」
深朱は返す言葉がなかった。
長く残る。それは褒め言葉ではない。呪いにも似ていた。
その夜、紅扇姐さまは、本来なら妾などに構っている暇はなかった。
夜見世の支度は終わっても、客へ返す文があり、明日の座敷の衣を選び、遣り手婆に呼ばれればすぐ立たねばならない。
それでも姐さまは、鏡台の前へ深朱を座らせた。
「髪が乱れておりんす」
そう言って、紅扇姐さまは深朱の髪に櫛を入れた。
紅扇姐さまは、紅籬楼でただ一人の座敷持昼三だった。
名こそ昼三で、昼丈で済む商売の身ではないが、要すればこの中見世でただ一人、花魁と呼ばれる遊女である。
その姐やが、夜の座敷に茶を運ぶ丈の禿の髪を直してやる。
それ丈で、見世の者には意味が通じた。
この子は紅扇専用の禿となり、いずれ振袖新造となり、紅扇の後に続き、紅籬楼の次の花に仕立てられる。
髪を強く引かれて少し痛かったが、深朱は動かなかった。
結い終えると、姐は簪を一本、深朱の髪に当ててすぐ外した。
「まだ早いだんす」
それは叱責ではなかった。
いつか挿す日が来る、という印のようでもあった。
「座敷に煙草盆をやったら、もう寝るだんす」
それ丈言って簪を箱へ戻した。
深朱は鏡の中の自分を見た。
綺麗にすることが、銭に繋がる世界だった。
優等の総牡丹になることが、死と隣り合わせの貧困から一等遠ざかる道だった。
怖いのに、少し丈嬉しかった。
そして嬉しいと思うよう、既に躾られて了ったことが、一番怖かった。
泣いてよいのではない。
泣く場所と、泣いてはならぬ時を教えられたのだ。
並べられた朝餉の膳を前にして、昨夜折檻されたらしい娘がすすり泣いている。
禿たちが外の手習い所へ通うことはなかった。そのような場所へ出してもらえる身ではないし、そもそも廓には学ばせるという考え自体がない。
紅籬楼へは昼見世の前に手習いの師匠が来る。
字を覚え歌を覚え、三味線の爪弾きと膝を崩さぬ座り方を覚える。
そのどこかで、この少し年上の禿はしくじったのだろう。
遣り手婆は「飯がまずくなる」と不機嫌そうに言い、とうとう癇癪を起こした。箸も取らず、膳の向こうから吐き捨てる。
「その膳、下げてお了い。泣いた子に食わせる飯はないよ」
禿は慌てて袖で顔を拭ったが、飯炊の女がもう飯椀を持っていった後だった。
深朱は自分の膳を見た。麦の混じった飯、薄い汁、萎びた菜。それでも腹は鳴る。
分けてやりたいと思ったが、手は動かなかった。
ここで優しくすれば、自分の分まで無くなる。
「返事がねェぞ」
柱の傍から突然、男の声が飛び、深朱は肩を跳ねさせた。
「はい」
深朱が返すより早く、あちこちから返事が零れ始めた。
はい、はい、と細い声が重なり、遅れてもう一つ、先程の娘の泣き損ねたような生返事が混じる。禿たちは皆、叱られぬために応えていた。
「遅い。呼ばれたら、先に返事だ。ここでは考えるんじゃない」
若衆は若くはなかった。
顔の皺に潮焼けが染み、指は太く、女子供を叱り飛ばすのが唯一の愉しみだというような残忍な顔をしていた。
客にはならず、楼主にもなれず、女たちのすぐ傍にいながら稼ぎを莫迦にされ命令され、決して手を伸ばすことは許されない。
その鬱屈が太い指の節にも、黒ずんだ爪の先にも溜まっているようだった。
食事の間も、禿たちは放っておかれない。
板間の端では、若衆が一人、柱にもたれて箸の持ち方から返事の遅れまで見張っていた。
深朱も慌てて「はい」と言うと、今度は番頭新造が鼻で笑った。
「はんッ。田舎の子は返事まで泥臭い」
「膝を開くんじゃねェ。指を丸めて握らない。何でェ、箸も使えねェでやんの」
昨夜は疲れて、戌の刻の閉門前に眠り込んでしまったし、この朝に客などまだ一人も見ていない。
それなのに若衆はもう客の目があるという。
客の前では箸の上げ下ろし一つまで見られる。そう責め立てられながら口へ運ぶ飯は、こちらの方こそ味など判る筈もなかった。
深朱は膝を寄せ、指を伸ばし、背を立てながら食べた。
そうすると腹が苦しい。
けれど、苦しいと顔に出せばまた直される。
ここでは、息の仕方さえ誰かの商売に触れていた。
七つで引込禿となった深朱が最初に覚えたのは、文字でも三味線でもなかった。
己がまだ花ですらなく、花の影を運ぶものに過ぎぬということだ。
姐さまたちが見世の外へ出る時、深朱はその裾を持たされた。
引手茶屋へ呼ばれた時。
馴染み客へ顔を出す時。
あるいは近くの用足しに出る時でさえ。
綺羅びやかなものの傍にいると、いくらびらびら簪を挿していても妾はまだ美しいものの側ではないと思い知らされた。
憧れ丈でもない。
こんなの値が張る順に並べられただけの、ただの階級なのだ。
ある春の日、奥から呼び出されて客からは見えぬように張見世の格子の陰に跪いた時、深朱は初めて道中の突出しを見た。
紅籬楼は大華通から一本奥へ入った見世だったが、格子の隙間からは、斜め向こうに大通りの明るさが切れて見える。
そこを、今まさに他所の大見世の花魁が通っていく。
桜の花びらが舞い散る中、屋号紋の入った裾を幾重にも引き、外八文字でゆるりと大通りを割ってゆく花魁の前には、見物も遣り手も若衆も、みな道を開けていた。傍らには肩貸しが付き従い、先では若衆の打ち鳴らす金棒が、しゃん、しゃんと春の通りに響いている。
仲之町の大通り全てがあの花魁のものになっていた。
あれが、右京朱籬廓の名を背負う遊女なのだ。
幼い深朱は、羨むより先に怖くなった。
あそこまで飾られ、あそこまで見られ、笑うことを求められる。
花とは、咲くものではない。
水面下に努力して、美しく咲いているように見せるものなのだった。
紅扇姐さまの部屋では、いつも簪と煙管を磨かされた。
銀やべっ甲の飾りには手油がつき、長い煙管の雁首には煤が残っている。
すぐ脇に紅扇姐さまは鏡台の前で片膝を崩し、素足を裾から投げ出すようにして座っている。
緋の襦袢が畳へ流れ、白い足の甲だけが灯に浮く。
客前の張りつめた姿とは違う、しどけない座り方だった。
深朱が布を当て始めると、紅扇姐さまは鏡の前で髪を梳きながら横目で見た。
「その目で人を見上げるのはおよし。真向かいから受けるのもいけんせん。憐れまれる女は安く買われるだんす」
深朱は慌てて目を伏せた。
「伏せすぎてもおかしいよ。丸っきり盗人だんす」
「……済みません、です」
「見るでもなく、逸らすでもなく。眼の遣い方を覚えなんし」
厭味は痛い。
紅扇姐さまの言葉には、いつも棘がある。
それでも、ほかの大人よりはましだった。
綺麗だと誰からも言われるこの眼を、どう使えば値になるのか。紅扇姐さまは実際に見せてくれる。
「そうそう、布海苔と鬼灯を都合して来て呉れたら、お菓子をあげるだんす」
「布海苔って、海藻?」
「そうでありんす。洗い張りにも使うものだから飯炊女も怪しまないだんす。五月蠅く言うようなら、金子を握らせなんし」
姐さまは、何でもないことのように言って、金貨を握らせてくれた。
「うまくやれたら残りはあげるだんす。西河岸の立ち食い露店を覗くのは楽しかろ。二八蕎麦でも菓子でも好きに買いなんし」
小さな掌には、余るほどの重さだった。
菓子を買う銭よりたっぷり多い。
落とせば叱られるどころでは済まないと幼い深朱にも判る。
なのに姐さまは、まるで簪を一本渡すような顔をしていた。
「鬼灯はその西河岸に来る草売りからお買いなんし。橙色の袋がついている、あれだんす」
「鬼灯も洗い張りに使うの?」
そう訊ねると、紅扇姐さまは笑った。
いつものように綺麗な笑みだったのにどこかでひやりとする。
「深くは聞かないことだんす。賢く持って来られる子丈が生き残れるだんす」
菓子に釣られたはずなのに、深朱の指先はいつの間にか帯の端を握っていた。
何か、いけないものを頼まれている。
そう判っても、断れる境遇ではなかった。
姐さまたちの個室は二階にあった。
禿たちは更に奥のどん詰まりの大部屋でみなで雑魚寝だった。
どの部屋も外へ出るには遠いが、それぞれ宛がわれた禿を手元へ置き、髪を結わせ、煙管を磨かせ、用を言いつけるには丁度具合がいい配置になっている。
階段を降りるすぐ手前には遣り手婆の部屋があり、襖一枚隔てた向こうで、誰が上がり、誰が降りるかを聞き分けている。
深朱は引付座敷の前を通り過ぎ、昼客の笑いと三味線の音を背にして、奥の階段を降りた。下は飯炊きの湯気と湿った板間の匂いが漂っていた。
外の若衆小屋の脇を抜け、荷の出入りを記した帳面を抱える番頭新造に頭を下げる。洗い張りに使いたいと言って布海苔を受け取った。
手の内で湿った包みが少しぬめる。しかし気味が悪いと思ってはいけない。そういう顔をすれば、また田舎者と笑われる。
この姐さんは、売れっ子になれなかった。
客のつかぬ夜を重ね、お茶を引き、やがて帳面の傍へ回されたはみ出し者なのだと、深朱はもう知っていた。だから意地が悪いのか、意地が悪いから回されたのかは判らない。ただ、人の失敗を見つける目丈は、売れっ子の花魁よりよほど鋭かった。
鬼灯は西河岸に扱いがあると、紅扇姐さまは言った。
深朱は袂に小銭を忍ばせ、処々手桶を積んで水を溜めてある露店と露店の間を縫うように歩いた。
西河岸は大華通の華やぎとは違う匂いだ。
伽羅からは少し格の落ちる桂皮や丁字の匂い、乾いた薬草、古い油といったものが漂っている。
草売りは、錆びた火鉢の脇に座っていた。
笊には干した根、紙に包まれた種、色の褪せた薬草が並び、その端の一つに赤い鬼灯が二つ三つ転がっている。
草売りの老婆は、鬼灯を見ている深朱に、曰くありげな目を細めた。
「鬼灯かい。小さい手で買いに来るには厭な品だね。誰かの遣いかい」
「…… 姐さまの」
「ふうん。姐さまね」
老婆はそれ以上聞かなかった。
聞かないことに慣れている者の顔だった。
紅籬楼に戻って包みを差し出しても、紅扇姐さまは礼を言わなかった。
「余計なことを覚えて来た顔だね。そういう子ほど、長くここに残るだんす」
深朱は返す言葉がなかった。
長く残る。それは褒め言葉ではない。呪いにも似ていた。
その夜、紅扇姐さまは、本来なら妾などに構っている暇はなかった。
夜見世の支度は終わっても、客へ返す文があり、明日の座敷の衣を選び、遣り手婆に呼ばれればすぐ立たねばならない。
それでも姐さまは、鏡台の前へ深朱を座らせた。
「髪が乱れておりんす」
そう言って、紅扇姐さまは深朱の髪に櫛を入れた。
紅扇姐さまは、紅籬楼でただ一人の座敷持昼三だった。
名こそ昼三で、昼丈で済む商売の身ではないが、要すればこの中見世でただ一人、花魁と呼ばれる遊女である。
その姐やが、夜の座敷に茶を運ぶ丈の禿の髪を直してやる。
それ丈で、見世の者には意味が通じた。
この子は紅扇専用の禿となり、いずれ振袖新造となり、紅扇の後に続き、紅籬楼の次の花に仕立てられる。
髪を強く引かれて少し痛かったが、深朱は動かなかった。
結い終えると、姐は簪を一本、深朱の髪に当ててすぐ外した。
「まだ早いだんす」
それは叱責ではなかった。
いつか挿す日が来る、という印のようでもあった。
「座敷に煙草盆をやったら、もう寝るだんす」
それ丈言って簪を箱へ戻した。
深朱は鏡の中の自分を見た。
綺麗にすることが、銭に繋がる世界だった。
優等の総牡丹になることが、死と隣り合わせの貧困から一等遠ざかる道だった。
怖いのに、少し丈嬉しかった。
そして嬉しいと思うよう、既に躾られて了ったことが、一番怖かった。


