深朱は、親に売られて都へ来た。
船に載せられたのはまだ名を変える前のことだった。
親に呼ばれていた元の名は、もう覚えてもいない。
親の顔も、覚えていない。
潮と吐瀉と泣き腫らした顔の満ちた船底。
女衒たちは面倒そうに煙管を鳴らし、連れて来た娘たちを眺めていた。
「新帝が践祚されたんだってね。売れるかねえ」
「莫迦いってらァ。側室であろうと帝のお妃は華族の姫でねえと、なれねぇやい」
「なら、尚いいだろうさ。行き場のない男の欲望は、こっちの懐へ流れらァ」
誰に買われようと、銭になればよい。
売られた娘の行く先など、その程度の胸先三寸の勘定で決まる。
大きな小早の船が、方々の湊へ着いた。
最後に乗せられたのは、猪牙に似た飫肥杉のちょろ舟だった。
そうして深朱は、右京の外れへ運ばれた。
居留地の煉瓦塀の灯を遠くに望む、右京朱籬廓である。
その色街は、居留地の南に開けていた。
一丁目から五丁目まで、町は技巧的に割られている。
大門を潜れば、桜並木の大華通が、廓の奥へ真っ直ぐに延びていた。
西は葭海に開けていた。
船着き場の葭津では、葦の群れる水際へ、女衒の舟がしばしば漕ぎ着ける。
深朱を乗せて来た舟も、その一つだった。
東には西河岸。
水と塀と籬と門。
それらに囲われた廓は、都の内にありながら、全く別の世界を形作っていた。
逃げようと思えば、逃げられぬこともない。
朱籬廓は、四方のうち三方を籬に囲われている。
出入り口は大門のみ。
残る一方だけが、葭海へと開かれていた。
ならば、船に乗せられて海から来たように。
どこかの船底に潜り込めばいい。
けれど、誤って女衒の舟に転がり込めば。
今度こそ、からゆきさんにされて了う。
海の向こうへ渡る女の噂には、いつも暗い銭の匂いがした。
からゆきと呼ばれるなら、朱籬から朱籬へ売られたのと何も変わらない。
遠くへ行きたい。
けれど、それは厭だと思う。
荷車に押し込められたまま、深朱は朱籬廓の端を、どぶ溝のある塀に沿って運ばれていった。
溝に溜まっているのは、水というより黒い泥だった。
紙屑や折れた箸、腐った菜っ葉、誰かの吐いたものまで浮いている。
泡が一つ浮かび、ぷつりと潰れるたび、深朱は息を止めた。
あれへ落ちたら、もう洗っても落ちない気がした。
その黒さから逃げるように、深朱は少し上へ目をやった。
どぶ溝を囲む塀の向こうに、それより遥かに高い煉瓦塀が覗いている。
荷車がその外れへ差しかかると、通りの匂いが変わった。
異国めいた言葉。
嗅ぎ慣れぬ、温かみのある香。
それらが、どぶの臭いに混じって流れてくる。
その先、水戸尻と呼ばれる端で、男たちに手招きしている女がいた。
前帯はだらしなく崩れ、裾も引かず、誰の許しも受けぬまま壁に凭れかかっている。
銘々の見世から現れる遊女たちは、容易に歩けないほど重い衣を纏う。
髪飾りを揺らしながら、客の目に適う歩き方をする。
その見世に居る女たちとは、何もかもが違って見えた。
「あれは、浮かれ女だ」
女衒の一人が吐き捨てるように言った。
「ああなりゃァ抱える見世もなく、間もなくくたばるぜ」
その言葉の意味を、深朱はまだ知らなかった。
女衒は足元の葦をよし、葦原をよしわらと呼んだ。
訊けばもとは葦という名だったが、悪しに通じるから葭と呼び替えたのだという。
悪しをよしと言いくるめる。
この土地に似つかわしい名だと、ずっと後になって深朱は思った。
船に載せられたのはまだ名を変える前のことだった。
親に呼ばれていた元の名は、もう覚えてもいない。
親の顔も、覚えていない。
潮と吐瀉と泣き腫らした顔の満ちた船底。
女衒たちは面倒そうに煙管を鳴らし、連れて来た娘たちを眺めていた。
「新帝が践祚されたんだってね。売れるかねえ」
「莫迦いってらァ。側室であろうと帝のお妃は華族の姫でねえと、なれねぇやい」
「なら、尚いいだろうさ。行き場のない男の欲望は、こっちの懐へ流れらァ」
誰に買われようと、銭になればよい。
売られた娘の行く先など、その程度の胸先三寸の勘定で決まる。
大きな小早の船が、方々の湊へ着いた。
最後に乗せられたのは、猪牙に似た飫肥杉のちょろ舟だった。
そうして深朱は、右京の外れへ運ばれた。
居留地の煉瓦塀の灯を遠くに望む、右京朱籬廓である。
その色街は、居留地の南に開けていた。
一丁目から五丁目まで、町は技巧的に割られている。
大門を潜れば、桜並木の大華通が、廓の奥へ真っ直ぐに延びていた。
西は葭海に開けていた。
船着き場の葭津では、葦の群れる水際へ、女衒の舟がしばしば漕ぎ着ける。
深朱を乗せて来た舟も、その一つだった。
東には西河岸。
水と塀と籬と門。
それらに囲われた廓は、都の内にありながら、全く別の世界を形作っていた。
逃げようと思えば、逃げられぬこともない。
朱籬廓は、四方のうち三方を籬に囲われている。
出入り口は大門のみ。
残る一方だけが、葭海へと開かれていた。
ならば、船に乗せられて海から来たように。
どこかの船底に潜り込めばいい。
けれど、誤って女衒の舟に転がり込めば。
今度こそ、からゆきさんにされて了う。
海の向こうへ渡る女の噂には、いつも暗い銭の匂いがした。
からゆきと呼ばれるなら、朱籬から朱籬へ売られたのと何も変わらない。
遠くへ行きたい。
けれど、それは厭だと思う。
荷車に押し込められたまま、深朱は朱籬廓の端を、どぶ溝のある塀に沿って運ばれていった。
溝に溜まっているのは、水というより黒い泥だった。
紙屑や折れた箸、腐った菜っ葉、誰かの吐いたものまで浮いている。
泡が一つ浮かび、ぷつりと潰れるたび、深朱は息を止めた。
あれへ落ちたら、もう洗っても落ちない気がした。
その黒さから逃げるように、深朱は少し上へ目をやった。
どぶ溝を囲む塀の向こうに、それより遥かに高い煉瓦塀が覗いている。
荷車がその外れへ差しかかると、通りの匂いが変わった。
異国めいた言葉。
嗅ぎ慣れぬ、温かみのある香。
それらが、どぶの臭いに混じって流れてくる。
その先、水戸尻と呼ばれる端で、男たちに手招きしている女がいた。
前帯はだらしなく崩れ、裾も引かず、誰の許しも受けぬまま壁に凭れかかっている。
銘々の見世から現れる遊女たちは、容易に歩けないほど重い衣を纏う。
髪飾りを揺らしながら、客の目に適う歩き方をする。
その見世に居る女たちとは、何もかもが違って見えた。
「あれは、浮かれ女だ」
女衒の一人が吐き捨てるように言った。
「ああなりゃァ抱える見世もなく、間もなくくたばるぜ」
その言葉の意味を、深朱はまだ知らなかった。
女衒は足元の葦をよし、葦原をよしわらと呼んだ。
訊けばもとは葦という名だったが、悪しに通じるから葭と呼び替えたのだという。
悪しをよしと言いくるめる。
この土地に似つかわしい名だと、ずっと後になって深朱は思った。



