濡れた白い衣の裾が、灯りの上を渡って来る。
水妖は、物の怪の背を追っているはずなのに、どこか違うものを見ているようだった。
伏せた目もと。
紅を引いた唇のかたち。
濡れ髪の奥に覗く、珠璃を突き放すようでいて結局のところ見捨てられぬ、姐やの面差し。
紅扇姐さまではない。
そう思おうとした。
けれど、あの肩の傾け方を知っている。
叱る前に舞扇で口もとを隠す癖を知っている。
見世の格子越しに、つまらぬ男をあしらいながら、妹分だけは横目ながら身銭を切って守って来た姐の立ち姿。
珠璃の喉が詰まった。
橋姫は、いよいよ物の怪の背後へ迫る。
その途端、物の怪の腹に吊るされた帳面が、ひとりでに開いた。
濡れて膨れた頁が、ばらばらとめくれる。
墨が飛んだ。
墨は空中で糸になり、縄になり、女の髪のように長く伸びて、橋姫へ絡みつこうとした。
橋姫は避ける素振りもない。
むしろ珠璃たちを背に庇うように位置取った。
青白い腕を伸ばし、物の怪へ喰らいつくように身を寄せる。
水の袖が墨を受けた。黒が白へ滲みて広がっていく。
水に溶けるはずの墨が、かえって濃く、女の腕へ這い上がっていく。
と、思うと、物の怪の視線が、こちらへと上がった。
番頭新造だったものの顔が、縦に裂ける。
その裂け目の奥から、いくつもの顔が覗いた。
名を奪われ、値を書かれ、帳面の奥へ押し込められた顔が、墨の中で重なっている。
橋姫は、それでも離れなかった。
濡れた髪を振り乱し、物の怪の胎へ手を伸ばす。
帳面を掴み、引き摺り出そうとする指から、水が迸った。
帳面はすぐに閉じた。
まるで胎の中へ戻ろうとする赤子のように、ぶるぶると震えながら、物の怪の胎へ食い込む。
橋姫の白い手が、帳面ごと腹の中へ中へと吸い込まれて行く。
珠璃は足を出そうとした。
だが、動けない。
朱籬廓の、どぶ溝を浄化しなければならない。
自分こそが泥の底の女たちへ届くのだと、あれほど覚悟した筈だった。
なのに、目の前に紅扇姐さまの面影が立った瞬間、身体が固まっていた。
「葛葉」
九郎助が短く呼んだ。
「判っておる」
葛葉が鳥居の内で袖を払う。
童女めいた姿の背後で、狐の尾の気配が大きく膨れた。
金の狐火が、葛葉の掌に生まれる。
一つではない。
二つ、三つ、五つ。
火は珠のように並び、鳥居の朱を照らしながら宙へ浮いた。
「墨だけ焼くのじゃ」
言うなり、葛葉は狐火を放った。
金気を帯びた狐火が、夜を裂いて走る。
金は水の相生、金生水の理だ。
その火は橋姫の袖を焼かない。
水の輪郭すれすれを撫で、そこに絡みつく濁った墨だけを焦がしていく。
墨の縄までついに縮れ上がり、焦げた臭いが立った。
おもむろに、物の怪が仰け反った。
「成程」
九郎助も前へ出た。
その金の眼が、物の怪の肚を射る。
指先から狐火が伸びた。
今度の火は矢のようだった。
帳面を吊るす縄を狙い、一本、また一本と断っていく。
縄とは、もとは草木で造られる咒いの形だ。
そして、木は火にくべられれば燃える。
縄が切れるたび、帳面が石畳へ落ちた。
濡れた虫のように頁を震わせる、落ちた帳面を捕らえようと、物の怪が足もとへ這いつくばる。
「行っけー! にゃっ」
蘭が御侠な仕草で袖をまくる。
赤い本物の熱を持つ火が、掌から爪の先へ走った。
赤猫お蘭の火の玉は、落ちた帳面へ跳びかかり、紙の端へ爪を立てるように燃え移る。
「燃えろーーーにゃ! 女たちを縛った墨ごと、灰になれ!」
赤い火が膨らんでいく。
帳面の表紙が隅から黒く丸まってめくれ、内側から数字が溢れ出す。
衣。飯。煙管。髪油。稽古。折檻。座敷に並べる膳。
燃え上がるたび、珠璃の肌が古い記憶に粟立った。
そこへ、橋姫が、物の怪の腹へもう一度手を伸ばす。
橋姫の指が、胎の中心に残った一番古い帳面へ届いた。
その帳面だけは、他のものと違った。
表紙が濃い朱色で、角が擦り切れている。
幾度も幾度も開かれ、女の名を確かめ、借りを増やし、逃げ道を塞いできた裏の帳面なのだろう。
物の怪が、口を開いた。
そこから、番頭新造の笑いが漏れる。
あのとき桶の外で聞いた、鬼の首でも取ったかのような凄絶な嗤い。
都生まれであることだけに縋り、若く美しく、売られて来た娘たちを鄙女と呼んで踏みつけてきた女。
その最後に残った、醜い誇りだった。
そういえば、番頭新造の名を、誰一人知らない。
橋姫の白い指が墨に沈む。
水の腕が黒く染まる。
そして、とうとう帳面を引き抜いた。
物の怪の肚から、黒い水が噴き出す。
墨とも血ともつかぬそれが、大華通へ散った。
だが、地へ落ちる前に、社の土が受ける。
鳥居の下から土の気が立ち上がり、黒い水を押さえ込む。
帳面が開き、頁の上に、名が浮かぶ。
一つ。
また一つ。
女たちの名が、墨の底から剥がれていく。
物の怪が崩れ始めた。
髪が墨へ戻る。
衣が濡れた紙片へ変わる。
合わなかった指の数が、ばらばらに解ける。
番頭新造だった顔の下から、別の顔が現れ、また別の顔が現れ、最後にはどれが誰のものかも判らない黒い影になった。
帳面をめくれる音のような燃える音も、もう聞こえない。
最後に残ったのは、焦げた綴じ紐一本だった。
墨の臭いが薄れていく。
濡れた紙の重さが消えていく。
誰かの火が、その紐を焼いた。
ぷつり、と切れる。
その瞬間、物の怪は夜の中で弾けた。
橋姫は、その様子を凝視しながら鳥居の外に立っていた。
濡れた白い衣は、もう墨を帯びていない。
髪から落ちる水が、石畳へ細い輪を作る。
その後ろ姿は、見世の灯が消えたあと、誰にも見せずに一人で廊下を渡っていく紅扇姐さまに似ていた。
珠璃は、漸く息を吸った。
「……姐さま」
呼んでしまった。
呼ばずにはいられなかった。
橋姫の足が止まる。
九郎助も、葛葉も、蘭も、何も言わなかった。
大華通の灯りだけが、濡れた白い背を照らしている。
橋姫が、最後に振り向いた。
その顔は、紅扇姐さまそのものではなかった。
橋を守る水妖の顔だった。
嫉妬を帯び、怨みを知り、水底の女たちを抱えた、古い神の顔だった。
だが、古い和歌が、ふと橋姫の唇の形に乗せられる。
さむしろに 衣かたしき 今宵もや
我をまつらむ 宇治の橋姫
その時許りは、哀愁を帯びた面差しに、慈愛のような色が差していた。
珠璃は花街きっての花魁になるべく育てられた身である。
三味線はもとより、ときに相伴する和歌の歌意までも仕込まれていた。
その歌を珠璃に教え込んだのは、他でもない紅扇姐さま自身だ。
待つらむ。
その音が、珠璃の内で、祀らむへ裏返る。
――我を祀らむ、宇治の橋姫。
妻を二人持ちながら、海に棲まう龍王にまで奪われた男が、置いてきた女を思って詠った歌だ。
共に海底に沈んだ本妻の嫉妬を、その歌ゆえに招いた和歌――
目もとが、あまりにも似ていた。
とすれば、紅扇姐さまにも、恋しい情人がいたのだろうか。
その目は、叱るでもない。慰めるでもない。
ただ九郎助と二人で、共に在りなさいと送り出していた。
そうして、橋姫は珠璃に背を向けた。
水妖は、物の怪の背を追っているはずなのに、どこか違うものを見ているようだった。
伏せた目もと。
紅を引いた唇のかたち。
濡れ髪の奥に覗く、珠璃を突き放すようでいて結局のところ見捨てられぬ、姐やの面差し。
紅扇姐さまではない。
そう思おうとした。
けれど、あの肩の傾け方を知っている。
叱る前に舞扇で口もとを隠す癖を知っている。
見世の格子越しに、つまらぬ男をあしらいながら、妹分だけは横目ながら身銭を切って守って来た姐の立ち姿。
珠璃の喉が詰まった。
橋姫は、いよいよ物の怪の背後へ迫る。
その途端、物の怪の腹に吊るされた帳面が、ひとりでに開いた。
濡れて膨れた頁が、ばらばらとめくれる。
墨が飛んだ。
墨は空中で糸になり、縄になり、女の髪のように長く伸びて、橋姫へ絡みつこうとした。
橋姫は避ける素振りもない。
むしろ珠璃たちを背に庇うように位置取った。
青白い腕を伸ばし、物の怪へ喰らいつくように身を寄せる。
水の袖が墨を受けた。黒が白へ滲みて広がっていく。
水に溶けるはずの墨が、かえって濃く、女の腕へ這い上がっていく。
と、思うと、物の怪の視線が、こちらへと上がった。
番頭新造だったものの顔が、縦に裂ける。
その裂け目の奥から、いくつもの顔が覗いた。
名を奪われ、値を書かれ、帳面の奥へ押し込められた顔が、墨の中で重なっている。
橋姫は、それでも離れなかった。
濡れた髪を振り乱し、物の怪の胎へ手を伸ばす。
帳面を掴み、引き摺り出そうとする指から、水が迸った。
帳面はすぐに閉じた。
まるで胎の中へ戻ろうとする赤子のように、ぶるぶると震えながら、物の怪の胎へ食い込む。
橋姫の白い手が、帳面ごと腹の中へ中へと吸い込まれて行く。
珠璃は足を出そうとした。
だが、動けない。
朱籬廓の、どぶ溝を浄化しなければならない。
自分こそが泥の底の女たちへ届くのだと、あれほど覚悟した筈だった。
なのに、目の前に紅扇姐さまの面影が立った瞬間、身体が固まっていた。
「葛葉」
九郎助が短く呼んだ。
「判っておる」
葛葉が鳥居の内で袖を払う。
童女めいた姿の背後で、狐の尾の気配が大きく膨れた。
金の狐火が、葛葉の掌に生まれる。
一つではない。
二つ、三つ、五つ。
火は珠のように並び、鳥居の朱を照らしながら宙へ浮いた。
「墨だけ焼くのじゃ」
言うなり、葛葉は狐火を放った。
金気を帯びた狐火が、夜を裂いて走る。
金は水の相生、金生水の理だ。
その火は橋姫の袖を焼かない。
水の輪郭すれすれを撫で、そこに絡みつく濁った墨だけを焦がしていく。
墨の縄までついに縮れ上がり、焦げた臭いが立った。
おもむろに、物の怪が仰け反った。
「成程」
九郎助も前へ出た。
その金の眼が、物の怪の肚を射る。
指先から狐火が伸びた。
今度の火は矢のようだった。
帳面を吊るす縄を狙い、一本、また一本と断っていく。
縄とは、もとは草木で造られる咒いの形だ。
そして、木は火にくべられれば燃える。
縄が切れるたび、帳面が石畳へ落ちた。
濡れた虫のように頁を震わせる、落ちた帳面を捕らえようと、物の怪が足もとへ這いつくばる。
「行っけー! にゃっ」
蘭が御侠な仕草で袖をまくる。
赤い本物の熱を持つ火が、掌から爪の先へ走った。
赤猫お蘭の火の玉は、落ちた帳面へ跳びかかり、紙の端へ爪を立てるように燃え移る。
「燃えろーーーにゃ! 女たちを縛った墨ごと、灰になれ!」
赤い火が膨らんでいく。
帳面の表紙が隅から黒く丸まってめくれ、内側から数字が溢れ出す。
衣。飯。煙管。髪油。稽古。折檻。座敷に並べる膳。
燃え上がるたび、珠璃の肌が古い記憶に粟立った。
そこへ、橋姫が、物の怪の腹へもう一度手を伸ばす。
橋姫の指が、胎の中心に残った一番古い帳面へ届いた。
その帳面だけは、他のものと違った。
表紙が濃い朱色で、角が擦り切れている。
幾度も幾度も開かれ、女の名を確かめ、借りを増やし、逃げ道を塞いできた裏の帳面なのだろう。
物の怪が、口を開いた。
そこから、番頭新造の笑いが漏れる。
あのとき桶の外で聞いた、鬼の首でも取ったかのような凄絶な嗤い。
都生まれであることだけに縋り、若く美しく、売られて来た娘たちを鄙女と呼んで踏みつけてきた女。
その最後に残った、醜い誇りだった。
そういえば、番頭新造の名を、誰一人知らない。
橋姫の白い指が墨に沈む。
水の腕が黒く染まる。
そして、とうとう帳面を引き抜いた。
物の怪の肚から、黒い水が噴き出す。
墨とも血ともつかぬそれが、大華通へ散った。
だが、地へ落ちる前に、社の土が受ける。
鳥居の下から土の気が立ち上がり、黒い水を押さえ込む。
帳面が開き、頁の上に、名が浮かぶ。
一つ。
また一つ。
女たちの名が、墨の底から剥がれていく。
物の怪が崩れ始めた。
髪が墨へ戻る。
衣が濡れた紙片へ変わる。
合わなかった指の数が、ばらばらに解ける。
番頭新造だった顔の下から、別の顔が現れ、また別の顔が現れ、最後にはどれが誰のものかも判らない黒い影になった。
帳面をめくれる音のような燃える音も、もう聞こえない。
最後に残ったのは、焦げた綴じ紐一本だった。
墨の臭いが薄れていく。
濡れた紙の重さが消えていく。
誰かの火が、その紐を焼いた。
ぷつり、と切れる。
その瞬間、物の怪は夜の中で弾けた。
橋姫は、その様子を凝視しながら鳥居の外に立っていた。
濡れた白い衣は、もう墨を帯びていない。
髪から落ちる水が、石畳へ細い輪を作る。
その後ろ姿は、見世の灯が消えたあと、誰にも見せずに一人で廊下を渡っていく紅扇姐さまに似ていた。
珠璃は、漸く息を吸った。
「……姐さま」
呼んでしまった。
呼ばずにはいられなかった。
橋姫の足が止まる。
九郎助も、葛葉も、蘭も、何も言わなかった。
大華通の灯りだけが、濡れた白い背を照らしている。
橋姫が、最後に振り向いた。
その顔は、紅扇姐さまそのものではなかった。
橋を守る水妖の顔だった。
嫉妬を帯び、怨みを知り、水底の女たちを抱えた、古い神の顔だった。
だが、古い和歌が、ふと橋姫の唇の形に乗せられる。
さむしろに 衣かたしき 今宵もや
我をまつらむ 宇治の橋姫
その時許りは、哀愁を帯びた面差しに、慈愛のような色が差していた。
珠璃は花街きっての花魁になるべく育てられた身である。
三味線はもとより、ときに相伴する和歌の歌意までも仕込まれていた。
その歌を珠璃に教え込んだのは、他でもない紅扇姐さま自身だ。
待つらむ。
その音が、珠璃の内で、祀らむへ裏返る。
――我を祀らむ、宇治の橋姫。
妻を二人持ちながら、海に棲まう龍王にまで奪われた男が、置いてきた女を思って詠った歌だ。
共に海底に沈んだ本妻の嫉妬を、その歌ゆえに招いた和歌――
目もとが、あまりにも似ていた。
とすれば、紅扇姐さまにも、恋しい情人がいたのだろうか。
その目は、叱るでもない。慰めるでもない。
ただ九郎助と二人で、共に在りなさいと送り出していた。
そうして、橋姫は珠璃に背を向けた。



