その報せが来たのは、五つの社を巡った身揚りの翌日のことだった。
深朱はいつものように、紅扇姐さまの部屋で煙管を磨いていた。
廊の向こうから、遣り手婆の足音が近付いてくる。
襖が開くより早く、部屋の空気が強張った。
「紅扇」
遣り手婆は深朱を見ずに言った。
一本立ちもしておらず、まだ金も稼がぬ新造など、目に入れる価値もないという態度だ。
「楼主が決めなすったよ。お大尽の三津田様が、深朱をご所望だ」
拭いていた煙管が、深朱の指の間で止まった。
紅扇姐さまは、文机で馴染み客への文を書いていた。
さらさらと走っていた、その筆先が紙の上でふつりと止まる。
墨が一点、黒く太った。
「深朱はまだ早うござんす」
姐さまは、振り返らずに言った。
その背はいつものようにしどけなく見える。
けれど、どこか硬質な態度だった。
「早い遅いは、あんたが決めることじゃないよ。この娘はお大尽の通人が育てると言ってる。見世にとっちゃァ願ったり叶ったりだ」
「育てる、ねえ」
紅扇姐さまの言葉は、ひどく怜悧に響いた。
女を育てる。
随分綺麗な言い方だ。
実のところは、借金地獄で雁字搦めにするだけなのに。
それを恩と呼び、仕込みと呼び、育てると呼ぶ。
廓は、そういう賢しらさにだけ長けている。
遣り手婆は、はん、と鼻で笑った。
返事を待つ気など、初めからないらしい。
それは頼みでも相談でもなく、ただの通達だった。
遣り手婆は癇の立ったような顔を見せて踵を返す。
畳を擦る鈍い音を残し、重たい背が襖の向こうへ消えていった。
姐さまはとうとう筆を置いた。
深朱の頭は、うまく働かなかった。
いつかこの日が来ることは、知っていた。
水揚げ。
通人。
育てる。
どれも廓では値のつく、目出度い言葉だ。
幼い剥げちょろ禿の頃なら、意味も判らず聞き流せた。
けれど今の深朱は知っている。
それらが自分の身へ向けられた時、何を指すのかを。
そこへ、番頭新造が入れ替わりのように入って来た。
入って来た――というより、ずっと機会を窺っていたのだろう。
部屋の中の空気が沈み、紅扇姐さまの手が止まり、深朱が何も言えなくなった、その隙を選んで。
ずっと狙い定めていたものに、漸くあり付ける、というような湿った笑顔だった。
「あらァ、恰度よいところに来たわ」
番頭新造は、そう言って部屋の中へ半歩踏み込んだ。
呼ばれもせぬのに来たくせに、まるで用向きを待たれていたかのような顔をしている。
「深朱に、もう一つ話がありんす」
「何でありんす」
紅扇姐さまの問いは機嫌の悪さを隠そうともしていない。
それでも番頭新造は、すぐには答えない。
姐の苛立ちさえ吝嗇に独り愉しんでいる。
袖口を整え、帯の端を撫で、深朱の方へちらりと目を流す。
割床での御開帳でさえ、客の取れなかった女の笑みだ。
廊下とんびの覗き窓がある、遊郭の底の底。
そこですら避けられ続けた女の笑みだった。
誰かに見せるためではない。
もっと薄暗いところで育った、残忍さ。
同じ檻の中にいる女を、さらに狭い場所へ押し込める――。
その瞬間だけ、自分が上へ立てると信じている者の顔だった。
「西河岸の伽羅売りがねェ、水揚げ日にもう一件どうかって」
「どういうこと――」
「黙りなんし」
番頭新造は、遮った。
その途切れた言葉の先にある紅扇の怖れを、わざと舌の上で転がしているようだった。
「あんたは水揚げの日、陰でもう一人、相手をするんだよ」
番頭新造は、何でもない勘定のように言った。
「妾が段取りしてやる。なァに、天井の染みを数えて四半刻ほどで済むさ」
深朱は煙管拭きの布をぎゅっと握り締めた。
布の中で、指先が白くなる。
「同じ日に披露目を済ませちまえば、どちらにも判りゃしんせん。銭子は二倍だんす」
何か大事なものを、売られる前から踏み荒らされるような気がした。
水揚げという言葉だけでも、喉の奥が詰まる。
それをこの女は、帳面の隙間にもう一行書き足すように言う。
「婆ァに言い付けんじゃないよッ」
番頭新造の狙いは、陰銭稼ぎ丈ではない。
花魁にとって、最も華々しく大事な日。
その日に、深朱を座敷から引き剥がす。
見世とお大尽との話へ、わざと泥を混ぜる。
深朱を、安く買い叩かれる、値崩れ女へ追い落とす。
それも狙いのうちなのだ。
高く買われるのが憎くて仕方がない。
ならば最高値がつくその日に、値そのものを濁して了えばよい。
上がりを掠めとっちまって、懐へ入れて減らせばよい。
なァに銭子が二倍だ、悪い話じゃなかろう、と手薬煉を引きながら。
「深朱」
そのとき、隣の紅扇姐さまが、番頭新造に聞こえぬよう、小声で言った。
「九郎助さんへ行きなんし」
え、と思う間もなかった。
九郎助稲荷。
縁結びの神。
姐さまが、どのお社より長く祈る場所だ。
深朱はいつものように、紅扇姐さまの部屋で煙管を磨いていた。
廊の向こうから、遣り手婆の足音が近付いてくる。
襖が開くより早く、部屋の空気が強張った。
「紅扇」
遣り手婆は深朱を見ずに言った。
一本立ちもしておらず、まだ金も稼がぬ新造など、目に入れる価値もないという態度だ。
「楼主が決めなすったよ。お大尽の三津田様が、深朱をご所望だ」
拭いていた煙管が、深朱の指の間で止まった。
紅扇姐さまは、文机で馴染み客への文を書いていた。
さらさらと走っていた、その筆先が紙の上でふつりと止まる。
墨が一点、黒く太った。
「深朱はまだ早うござんす」
姐さまは、振り返らずに言った。
その背はいつものようにしどけなく見える。
けれど、どこか硬質な態度だった。
「早い遅いは、あんたが決めることじゃないよ。この娘はお大尽の通人が育てると言ってる。見世にとっちゃァ願ったり叶ったりだ」
「育てる、ねえ」
紅扇姐さまの言葉は、ひどく怜悧に響いた。
女を育てる。
随分綺麗な言い方だ。
実のところは、借金地獄で雁字搦めにするだけなのに。
それを恩と呼び、仕込みと呼び、育てると呼ぶ。
廓は、そういう賢しらさにだけ長けている。
遣り手婆は、はん、と鼻で笑った。
返事を待つ気など、初めからないらしい。
それは頼みでも相談でもなく、ただの通達だった。
遣り手婆は癇の立ったような顔を見せて踵を返す。
畳を擦る鈍い音を残し、重たい背が襖の向こうへ消えていった。
姐さまはとうとう筆を置いた。
深朱の頭は、うまく働かなかった。
いつかこの日が来ることは、知っていた。
水揚げ。
通人。
育てる。
どれも廓では値のつく、目出度い言葉だ。
幼い剥げちょろ禿の頃なら、意味も判らず聞き流せた。
けれど今の深朱は知っている。
それらが自分の身へ向けられた時、何を指すのかを。
そこへ、番頭新造が入れ替わりのように入って来た。
入って来た――というより、ずっと機会を窺っていたのだろう。
部屋の中の空気が沈み、紅扇姐さまの手が止まり、深朱が何も言えなくなった、その隙を選んで。
ずっと狙い定めていたものに、漸くあり付ける、というような湿った笑顔だった。
「あらァ、恰度よいところに来たわ」
番頭新造は、そう言って部屋の中へ半歩踏み込んだ。
呼ばれもせぬのに来たくせに、まるで用向きを待たれていたかのような顔をしている。
「深朱に、もう一つ話がありんす」
「何でありんす」
紅扇姐さまの問いは機嫌の悪さを隠そうともしていない。
それでも番頭新造は、すぐには答えない。
姐の苛立ちさえ吝嗇に独り愉しんでいる。
袖口を整え、帯の端を撫で、深朱の方へちらりと目を流す。
割床での御開帳でさえ、客の取れなかった女の笑みだ。
廊下とんびの覗き窓がある、遊郭の底の底。
そこですら避けられ続けた女の笑みだった。
誰かに見せるためではない。
もっと薄暗いところで育った、残忍さ。
同じ檻の中にいる女を、さらに狭い場所へ押し込める――。
その瞬間だけ、自分が上へ立てると信じている者の顔だった。
「西河岸の伽羅売りがねェ、水揚げ日にもう一件どうかって」
「どういうこと――」
「黙りなんし」
番頭新造は、遮った。
その途切れた言葉の先にある紅扇の怖れを、わざと舌の上で転がしているようだった。
「あんたは水揚げの日、陰でもう一人、相手をするんだよ」
番頭新造は、何でもない勘定のように言った。
「妾が段取りしてやる。なァに、天井の染みを数えて四半刻ほどで済むさ」
深朱は煙管拭きの布をぎゅっと握り締めた。
布の中で、指先が白くなる。
「同じ日に披露目を済ませちまえば、どちらにも判りゃしんせん。銭子は二倍だんす」
何か大事なものを、売られる前から踏み荒らされるような気がした。
水揚げという言葉だけでも、喉の奥が詰まる。
それをこの女は、帳面の隙間にもう一行書き足すように言う。
「婆ァに言い付けんじゃないよッ」
番頭新造の狙いは、陰銭稼ぎ丈ではない。
花魁にとって、最も華々しく大事な日。
その日に、深朱を座敷から引き剥がす。
見世とお大尽との話へ、わざと泥を混ぜる。
深朱を、安く買い叩かれる、値崩れ女へ追い落とす。
それも狙いのうちなのだ。
高く買われるのが憎くて仕方がない。
ならば最高値がつくその日に、値そのものを濁して了えばよい。
上がりを掠めとっちまって、懐へ入れて減らせばよい。
なァに銭子が二倍だ、悪い話じゃなかろう、と手薬煉を引きながら。
「深朱」
そのとき、隣の紅扇姐さまが、番頭新造に聞こえぬよう、小声で言った。
「九郎助さんへ行きなんし」
え、と思う間もなかった。
九郎助稲荷。
縁結びの神。
姐さまが、どのお社より長く祈る場所だ。



