居留地南の、とある夜。
海から来る風は、葭を鳴らして大華通を抜けた。
大門は残っている。
けれど、そこへ掛かる札はもう違う。
かつて朱籬廓と呼ばれた場所は、朱璃新地と名を改めていた。
遊女を囲うための門ではなく、芸妓を見に来る客を迎える門であり、日中も深夜も閉ざされることはなくなった。
中には、その芸と才気を見初められ、時の権勢を誇る内大臣の内儀へと収まった者まであった。
揚屋の灯りは消え、三味線の余韻も畳の目へ落ちた頃、珠璃は羽織を肩に掛けた。
お座敷は引けた。
客たちは笑いながら帰り、芸妓衆は髪を解き、舞妓たちは湯の支度へ散っている。
小料理屋のほうへ顔を出す心算だった。
遅くまで働く芸妓たちのために、熱い汁と握り飯を置かせている。
誰かが遠慮していないか、帰り支度はどうか、自分の目で見ておきたかったのだ。
珠璃は逃げ出した場所へ戻り、名を改め、商いの形を変えた。
そして今、朱璃新地は、芸事ただそれのみを売る街へ変わりつつある。
左褄から内儀に収まった女の話は、たちまち評判を呼んだ。
あの街なら、身体を切り売りせずとも身を立てられる。
芸で名を上げ、才で客を選び、身一つで立身出世を望むこともできる。
望むなら、自分の足で出て行くことさえできる。
そんな夢にあやかろうと、三味線を抱く娘、舞を習う娘、読み書きを覚えようとする娘が、一人、また一人とかつての朱籬廓の大門をくぐるようになった。
無論、そこにはもう、大門切手など要らない。
紅扇屋でも格子は外した。帳場も改めた。
女の借りを記した証文も帳面もとうとう焼いた。
だが、紅扇姐さまは戻らなかった。
無理情死ではないかという者さえあった。
そんな夜。
珠璃が門口へ出たときだった。
ふいに風が止まった。
文目も分かたぬ暗闇の、葭津へと続く方角に、誰かがいた。
始めは人影に見えた。
夜更けに酔客が戻って来たのかと思った。
けれど、歩き方が違う。
足を運んでいるのに、身体の芯が水に流されているように揺らぎを見せている。
一歩。
また一歩。
近付いて来る。
灯りの届くところへ入った瞬間、珠璃は息を呑んだ。
それは女の異形をした――怪異だった。
髪は乱れ、濡れた束となって頬に貼り付いている。
衣は番頭新造のものに似ていた。
けれど袖も裾も、水で重く汚れ、ところどころに破れた紙片が絡み付いている。
よく見ると、懐妊した腹へ巻かれた腹帯めいたものから、臍の緒じみた縄が幾筋も垂れ、その先には赤子の代わりに黒い帳面がいくつも吊られていた。
歩くたびに、角が膝を打ち、古い紙の束が、濡れて膨れ、今にも裂けそうになっている。
そこから墨が溢れ出していた。
否、墨は帳面からだけではなく、細い指先からも――
――物の怪だ。
以前遭遇したものと同じかどうかは判らないが、確かに指の数は合わない。
珠璃は踵を返した。
長く考える暇はなかった。
小料理屋の暖簾を押し分ける。
土間に立っていた女たちが、一斉にこちらを見た。
鍋から湯気が上がり、醤油と椀の匂いが満ちている。
「お蘭姐さん」
蘭は、とんとんと小気味良い音を立てていた包丁を置いた。
紅い髪を結い上げた横顔が、珠璃の様子の乱れから事態を悟ったように引き締まる。
「来たのにゃ?」
「帳面を下げた――物の怪が」
「帳面……!?」
蘭の目に、火が差した。
「戸を閉めて、誰も表へ出しちゃ駄目にゃ。みんな、今夜は上に泊まっていってにゃ」
蘭は、いつもの語尾を残していた。
その目は、我が意を得たりとばかりに爛々と輝いている。
火の番を任された猫のように、すでにもう一つの裏の仕事の顔になっていた。
包丁を仕舞い、濡れた手を前掛けで拭う。
その一つ一つが素早い。
「明かりは落とさず。暗いと、かえって寄ってくるにゃ。戸板を二枚内側から噛ませて、あてしたちの心配は無用にゃ」
命じるなり、蘭は階段へ向かった。
二階には、九郎助がいる。
珠璃も後を追おうとしたが、足が半ばで止まった。
通りの向こうから、まだ来ている。
一歩。
また一歩。
物の怪は、急がない。
のろまな歩みを、一つずつ確かに進めてくる。
店は逃げ出しようがない。
急ぐ必要などないと知っているかのように。
帳面を腹へ下げ、濡れた裾を引きずりながら、朱璃新地の灯りの下へ近付いてくる。
道の両側で、人間の気配が消えていった。
戸が閉まる。障子の向こうで、誰かが息を殺す。
この朱璃新地の者たちは荒魂が強くなり、見えている者が多いのだろう。
酒肴の折詰を提げた客が、顔色を変えて暖簾の陰へ引っ込んでいく。
それでも、ずるずると歩いて来る。
とうに焼いた筈の帳面を腹に吊るして。
終わらせたはずの廓の夜を、身体ごと引きずって。
やがて、箱階段を荒く踏む音が下りて来た。
蘭が先に、裏通りに飛び出して来た。
その後から、九郎助が現れた。
金の眼が、遠くの物の怪を捉える。
九郎助の指先に狐火が灯った。
火は一つでは終わらない。
金の火の玉が、夜空へ跳ね上がる。
二つ、三つ、四つ。
風に散らされることなく、大華通の上を走った。
里に居る妹の葛葉まで走らせて、知らせるための狐火だ。
火は屋根を越え、門を越え、里へ続く闇の筋を縫うように飛び、その軌跡が夜半に金の糸を引いていく。
「土御門一門の社へ……なんといったか?」
「榎本吉徳稲荷にゃ」
「そこで迎え撃つ。他の場所では土の気が足りん」
九郎助は言い終えるなり、指先に宿していた狐火を放った。
金の火が、夜の通りを裂いて飛ぶ。
物の怪の足もとで、狐火がぱんと弾けた。
注意を引いて進ませる先を、こちらが決めるためだ。
濡れた紙の束が揺れる。
物の怪の腹に下がった帳面が、ぎち、と嫌な音を立てた。
次の瞬間、歩みが変わった。
一歩ずつ近付いていたものが、獣のように身を沈めた。
かと思うと、濡れた裾を引きずりながら、膝を折り腕を振り、一気に加速してこちらへ駆け出して来た。
あれはやはり歩けぬものではなかったのだ。急いでいなかっただけだ。
逃げ場がないと知っていたが、挑発されるのは話が別だったのだ。
それは獲物に気付かれたことを意味する。
「走るにゃ!」
蘭が駆け出した。
九郎助が珠璃の手を取る。
珍しく九郎助の手は温かくなっていた。
人の手ではない熱が、珠璃の指の骨の奥まで入ってくる。
「来い」
言われるより早く、珠璃も踏み出していた。
朱璃新地の中央に祀られた榎本吉徳稲荷へ着く頃には、葛葉もすでに到着していたものと見え、鳥居の下で一同を待っていた。
小さな社である。
だが、奇妙に大きく見えた。
朱の鳥居は地に深く根を張り、石畳の下へ沈んだ土の気を確かに抱えている。
この頃、珠璃にも気の巡りが感じられるようになってきていた。
九郎助の狐火が金に燃える。
蘭の赤い火が、袖口から尾を引く。
葛葉は鳥居の内側に立ち、金の眼で大華通を見据えていた。
「これで、五行の筈じゃ」
葛葉が言った。
木。火。土。金。水。
珠璃には、その理がまだすべて判っているわけではない。
けれど社の土を踏んだ瞬間、逃げ続けていた足の裏に、太い木の根のような力が絡み付いた。
怖いものではない。
引き止められるのではなく、支えられる。
土の底から木が水を吸い上げるように、震えていた身体の内へ、土の社の気がゆっくり満ちていく。
ここで迎え撃つ。
ここで、止める。
大華通の向こうから、物の怪が追いついて来ていた。
帳面を腹に下げ、濡れた裾を引きずってまっすぐ進んでくる。
石畳に墨が落ちる。
一滴ごとに、古い数字が浮かび、遊女の名がいくつも滲み、すぐ黒く潰れた。
――と、同時に。
その背後に、もう一つ、影があった。
橋姫だ。
大華通の灯を受けて、濡れた白い衣が揺れている。
髪は水草のように長く、足もとは石畳を踏んでいるはずなのに、そこだけ水面の上を滑っているように見えた。
「橋姫……」
名が、珠璃の唇から落ちた。
九郎助の金の眼が暗闇に浮かび上がる。
蘭の掌の火が、ぼう、と赤く膨らんだ。
橋姫は、物の怪のあとを追っていた。
助けに来たのか。
それとも、あれを奪いに来たのか。
あるいは、珠璃たちごと水底へ引く腹づもりなのか。
判らない。
けれど一つ、判ることがあった。
五行は揃った。
その水が、弁才天の清い水なのか、橋姫の妬みを帯びた水なのかは判らないが――。
しかし近付くにつれ、珠璃には、橋姫に紅扇姐さまの面影があるように思われて来ていた。
海から来る風は、葭を鳴らして大華通を抜けた。
大門は残っている。
けれど、そこへ掛かる札はもう違う。
かつて朱籬廓と呼ばれた場所は、朱璃新地と名を改めていた。
遊女を囲うための門ではなく、芸妓を見に来る客を迎える門であり、日中も深夜も閉ざされることはなくなった。
中には、その芸と才気を見初められ、時の権勢を誇る内大臣の内儀へと収まった者まであった。
揚屋の灯りは消え、三味線の余韻も畳の目へ落ちた頃、珠璃は羽織を肩に掛けた。
お座敷は引けた。
客たちは笑いながら帰り、芸妓衆は髪を解き、舞妓たちは湯の支度へ散っている。
小料理屋のほうへ顔を出す心算だった。
遅くまで働く芸妓たちのために、熱い汁と握り飯を置かせている。
誰かが遠慮していないか、帰り支度はどうか、自分の目で見ておきたかったのだ。
珠璃は逃げ出した場所へ戻り、名を改め、商いの形を変えた。
そして今、朱璃新地は、芸事ただそれのみを売る街へ変わりつつある。
左褄から内儀に収まった女の話は、たちまち評判を呼んだ。
あの街なら、身体を切り売りせずとも身を立てられる。
芸で名を上げ、才で客を選び、身一つで立身出世を望むこともできる。
望むなら、自分の足で出て行くことさえできる。
そんな夢にあやかろうと、三味線を抱く娘、舞を習う娘、読み書きを覚えようとする娘が、一人、また一人とかつての朱籬廓の大門をくぐるようになった。
無論、そこにはもう、大門切手など要らない。
紅扇屋でも格子は外した。帳場も改めた。
女の借りを記した証文も帳面もとうとう焼いた。
だが、紅扇姐さまは戻らなかった。
無理情死ではないかという者さえあった。
そんな夜。
珠璃が門口へ出たときだった。
ふいに風が止まった。
文目も分かたぬ暗闇の、葭津へと続く方角に、誰かがいた。
始めは人影に見えた。
夜更けに酔客が戻って来たのかと思った。
けれど、歩き方が違う。
足を運んでいるのに、身体の芯が水に流されているように揺らぎを見せている。
一歩。
また一歩。
近付いて来る。
灯りの届くところへ入った瞬間、珠璃は息を呑んだ。
それは女の異形をした――怪異だった。
髪は乱れ、濡れた束となって頬に貼り付いている。
衣は番頭新造のものに似ていた。
けれど袖も裾も、水で重く汚れ、ところどころに破れた紙片が絡み付いている。
よく見ると、懐妊した腹へ巻かれた腹帯めいたものから、臍の緒じみた縄が幾筋も垂れ、その先には赤子の代わりに黒い帳面がいくつも吊られていた。
歩くたびに、角が膝を打ち、古い紙の束が、濡れて膨れ、今にも裂けそうになっている。
そこから墨が溢れ出していた。
否、墨は帳面からだけではなく、細い指先からも――
――物の怪だ。
以前遭遇したものと同じかどうかは判らないが、確かに指の数は合わない。
珠璃は踵を返した。
長く考える暇はなかった。
小料理屋の暖簾を押し分ける。
土間に立っていた女たちが、一斉にこちらを見た。
鍋から湯気が上がり、醤油と椀の匂いが満ちている。
「お蘭姐さん」
蘭は、とんとんと小気味良い音を立てていた包丁を置いた。
紅い髪を結い上げた横顔が、珠璃の様子の乱れから事態を悟ったように引き締まる。
「来たのにゃ?」
「帳面を下げた――物の怪が」
「帳面……!?」
蘭の目に、火が差した。
「戸を閉めて、誰も表へ出しちゃ駄目にゃ。みんな、今夜は上に泊まっていってにゃ」
蘭は、いつもの語尾を残していた。
その目は、我が意を得たりとばかりに爛々と輝いている。
火の番を任された猫のように、すでにもう一つの裏の仕事の顔になっていた。
包丁を仕舞い、濡れた手を前掛けで拭う。
その一つ一つが素早い。
「明かりは落とさず。暗いと、かえって寄ってくるにゃ。戸板を二枚内側から噛ませて、あてしたちの心配は無用にゃ」
命じるなり、蘭は階段へ向かった。
二階には、九郎助がいる。
珠璃も後を追おうとしたが、足が半ばで止まった。
通りの向こうから、まだ来ている。
一歩。
また一歩。
物の怪は、急がない。
のろまな歩みを、一つずつ確かに進めてくる。
店は逃げ出しようがない。
急ぐ必要などないと知っているかのように。
帳面を腹へ下げ、濡れた裾を引きずりながら、朱璃新地の灯りの下へ近付いてくる。
道の両側で、人間の気配が消えていった。
戸が閉まる。障子の向こうで、誰かが息を殺す。
この朱璃新地の者たちは荒魂が強くなり、見えている者が多いのだろう。
酒肴の折詰を提げた客が、顔色を変えて暖簾の陰へ引っ込んでいく。
それでも、ずるずると歩いて来る。
とうに焼いた筈の帳面を腹に吊るして。
終わらせたはずの廓の夜を、身体ごと引きずって。
やがて、箱階段を荒く踏む音が下りて来た。
蘭が先に、裏通りに飛び出して来た。
その後から、九郎助が現れた。
金の眼が、遠くの物の怪を捉える。
九郎助の指先に狐火が灯った。
火は一つでは終わらない。
金の火の玉が、夜空へ跳ね上がる。
二つ、三つ、四つ。
風に散らされることなく、大華通の上を走った。
里に居る妹の葛葉まで走らせて、知らせるための狐火だ。
火は屋根を越え、門を越え、里へ続く闇の筋を縫うように飛び、その軌跡が夜半に金の糸を引いていく。
「土御門一門の社へ……なんといったか?」
「榎本吉徳稲荷にゃ」
「そこで迎え撃つ。他の場所では土の気が足りん」
九郎助は言い終えるなり、指先に宿していた狐火を放った。
金の火が、夜の通りを裂いて飛ぶ。
物の怪の足もとで、狐火がぱんと弾けた。
注意を引いて進ませる先を、こちらが決めるためだ。
濡れた紙の束が揺れる。
物の怪の腹に下がった帳面が、ぎち、と嫌な音を立てた。
次の瞬間、歩みが変わった。
一歩ずつ近付いていたものが、獣のように身を沈めた。
かと思うと、濡れた裾を引きずりながら、膝を折り腕を振り、一気に加速してこちらへ駆け出して来た。
あれはやはり歩けぬものではなかったのだ。急いでいなかっただけだ。
逃げ場がないと知っていたが、挑発されるのは話が別だったのだ。
それは獲物に気付かれたことを意味する。
「走るにゃ!」
蘭が駆け出した。
九郎助が珠璃の手を取る。
珍しく九郎助の手は温かくなっていた。
人の手ではない熱が、珠璃の指の骨の奥まで入ってくる。
「来い」
言われるより早く、珠璃も踏み出していた。
朱璃新地の中央に祀られた榎本吉徳稲荷へ着く頃には、葛葉もすでに到着していたものと見え、鳥居の下で一同を待っていた。
小さな社である。
だが、奇妙に大きく見えた。
朱の鳥居は地に深く根を張り、石畳の下へ沈んだ土の気を確かに抱えている。
この頃、珠璃にも気の巡りが感じられるようになってきていた。
九郎助の狐火が金に燃える。
蘭の赤い火が、袖口から尾を引く。
葛葉は鳥居の内側に立ち、金の眼で大華通を見据えていた。
「これで、五行の筈じゃ」
葛葉が言った。
木。火。土。金。水。
珠璃には、その理がまだすべて判っているわけではない。
けれど社の土を踏んだ瞬間、逃げ続けていた足の裏に、太い木の根のような力が絡み付いた。
怖いものではない。
引き止められるのではなく、支えられる。
土の底から木が水を吸い上げるように、震えていた身体の内へ、土の社の気がゆっくり満ちていく。
ここで迎え撃つ。
ここで、止める。
大華通の向こうから、物の怪が追いついて来ていた。
帳面を腹に下げ、濡れた裾を引きずってまっすぐ進んでくる。
石畳に墨が落ちる。
一滴ごとに、古い数字が浮かび、遊女の名がいくつも滲み、すぐ黒く潰れた。
――と、同時に。
その背後に、もう一つ、影があった。
橋姫だ。
大華通の灯を受けて、濡れた白い衣が揺れている。
髪は水草のように長く、足もとは石畳を踏んでいるはずなのに、そこだけ水面の上を滑っているように見えた。
「橋姫……」
名が、珠璃の唇から落ちた。
九郎助の金の眼が暗闇に浮かび上がる。
蘭の掌の火が、ぼう、と赤く膨らんだ。
橋姫は、物の怪のあとを追っていた。
助けに来たのか。
それとも、あれを奪いに来たのか。
あるいは、珠璃たちごと水底へ引く腹づもりなのか。
判らない。
けれど一つ、判ることがあった。
五行は揃った。
その水が、弁才天の清い水なのか、橋姫の妬みを帯びた水なのかは判らないが――。
しかし近付くにつれ、珠璃には、橋姫に紅扇姐さまの面影があるように思われて来ていた。



