桶の外で、番頭新造が凄絶に嗤っていた。
胡粉の下で、口許がいやに大きく裂けている。
目尻には勝ち誇った皺が寄り、顎は僅かに上がっていた。
ついに自分の手で、深朱を桶へ落としたのだ。
まるで鬼の首でも取ったような顔だ。
「あは、あァ……鄙女には、よく似合うじゃないか」
言いながら、番頭新造は足許の土を爪先で蹴った。
乾いた砂が桶の縁を叩き、跳ねた粒が深朱の頬と襟元へぱらぱらと散る。
「都の砂でも浴びたら、少しは泥臭さが落ちるかと思ったけどねェ。駄目だェ。臭いったら、ありゃァしない」
都生まれ。
この女に最後まで残った自慢は、おそらくそれきりなのだ。
だから事あるごとに深朱を、遠い在所から出て来た田舎娘と呼ぶ。
何を仕込まれても、どれほど芸を覚えても、男の目を奪う衣を纏っても。
深朱は都の女ではないと、頑として譲らない。
もはや譲れないのだろう。
自分より若く、自分より美しく。
自分より値を付けられていく娘を前に、最後に爪を立てられる場所が、そこしかない。
もう八年近くも廓にいる。
もうすぐ水揚げからの苦界十年に入る。
生まれ落ちた境遇丈は生涯誰にも変えようがないのに、きっとこの先どれほど廓暮らしを重ねようと言い続けるのだろう。
――鄙女、と。
この女の前で丈は泣くまい。
なのに、煙が目に滲み、涙が止まらない。
熱い。苦しい。息が足りない。
逃げることは敵わない。
身体の自由は全て奪われていた。
どれほど経ったのか判らない。
桶の前を行き来する足音が変わった。
「そこまでにしなんし」
紅扇姐さまだった。
お座敷をほっぽり出して来て呉れたのだ。
「この子は、妾の預かりだんす」
「なら、あんたの仕込みが悪いんじゃァないのかい」
「そうでありんすね。預かりの子に、鬼灯を持たせたのは妾だんす」
桶の内で、深朱は息を詰めた。
紅扇姐さまが、自分から名乗り出ている。
「けれど鬼灯の根を持っていたことと、お前が口にした咎とは別でありんしょう」
「……」
「濡れ衣の上へ、誤解まで被せるのはおよしなんし。重くて、子どもが潰れんす」
鬼灯を持っていた。それは確かだ。
けれど、番頭新造が口にしたような使い道ではない。
そのことを、深朱は後になって紅扇姐さまから聞かされた。
それは同時に遊女の抜き差しならぬ運命の話でもあった。
いずれ望まぬ、誰とも知らぬ男の種を胎に残される。
そうなれば、身体は客を取る道具ではなくなる。
見世にとっては、銭を生まぬ身体になる。
番頭新造は黙っていた。
もう目的を果たしている。
潔白などという、白々しい弁解をする気もないようだ。
「金なら払うだんす」
じゃらり、と金の音がした。
深朱は桶の内で目を開けた。
涙で何も見えない。
けれど、その音丈は聞こえた。
姐さまが金を払っている。
折り合いの悪い番頭新造に。
深朱のために――。
助かった、と思った途端、その言葉は胸の内で潰れた。
ここで動く金は、誰かが払えば誰かの帳面に乗る。
姐さまが深朱を桶から出すために払った金は、姐さまの自由をまた一つ遠ざける金だった。
身揚りの一日、たった一夜息をつく余地さえ、金に変えられて帳面へ沈む。
深朱一人を助けるために、姐さまの明日が削られたのだ。
そう思った瞬間、煙より苦しいものが、ひゅっと喉へ上がった。
「その子は、妾が面倒を見てるでありんす」
桶が持ち上げられた途端、深朱の身体が前へ崩れた。
固まっていた胸が急に動き、咳が込み上げる。
床に手をつこうとしても、指がうまく開かなかった。
姐さまは、桶を退ける若衆に言った。
「乱暴はおよしなんし」
紅扇姐さまの部屋へ戻ると、姐さまは深朱を鏡の前に座らせた。
濡れた手拭いで目元を拭かれ、乱れた髪に櫛を入れられる。
「礼は言わなくていいよ」
姐さまが言った。
甘やかす響きではなかった。
けれど、突き放す響きでもなかった。
「言ったら恩になるだんす。妾は高い。お前にはまだ払えない」
深朱は、鏡の中で姐さまを見た。
なぜか泣きそうになる。
恩を着せずに、助けてくれる人がいる。
それを知ったのは、この時が初めてだった。
胡粉の下で、口許がいやに大きく裂けている。
目尻には勝ち誇った皺が寄り、顎は僅かに上がっていた。
ついに自分の手で、深朱を桶へ落としたのだ。
まるで鬼の首でも取ったような顔だ。
「あは、あァ……鄙女には、よく似合うじゃないか」
言いながら、番頭新造は足許の土を爪先で蹴った。
乾いた砂が桶の縁を叩き、跳ねた粒が深朱の頬と襟元へぱらぱらと散る。
「都の砂でも浴びたら、少しは泥臭さが落ちるかと思ったけどねェ。駄目だェ。臭いったら、ありゃァしない」
都生まれ。
この女に最後まで残った自慢は、おそらくそれきりなのだ。
だから事あるごとに深朱を、遠い在所から出て来た田舎娘と呼ぶ。
何を仕込まれても、どれほど芸を覚えても、男の目を奪う衣を纏っても。
深朱は都の女ではないと、頑として譲らない。
もはや譲れないのだろう。
自分より若く、自分より美しく。
自分より値を付けられていく娘を前に、最後に爪を立てられる場所が、そこしかない。
もう八年近くも廓にいる。
もうすぐ水揚げからの苦界十年に入る。
生まれ落ちた境遇丈は生涯誰にも変えようがないのに、きっとこの先どれほど廓暮らしを重ねようと言い続けるのだろう。
――鄙女、と。
この女の前で丈は泣くまい。
なのに、煙が目に滲み、涙が止まらない。
熱い。苦しい。息が足りない。
逃げることは敵わない。
身体の自由は全て奪われていた。
どれほど経ったのか判らない。
桶の前を行き来する足音が変わった。
「そこまでにしなんし」
紅扇姐さまだった。
お座敷をほっぽり出して来て呉れたのだ。
「この子は、妾の預かりだんす」
「なら、あんたの仕込みが悪いんじゃァないのかい」
「そうでありんすね。預かりの子に、鬼灯を持たせたのは妾だんす」
桶の内で、深朱は息を詰めた。
紅扇姐さまが、自分から名乗り出ている。
「けれど鬼灯の根を持っていたことと、お前が口にした咎とは別でありんしょう」
「……」
「濡れ衣の上へ、誤解まで被せるのはおよしなんし。重くて、子どもが潰れんす」
鬼灯を持っていた。それは確かだ。
けれど、番頭新造が口にしたような使い道ではない。
そのことを、深朱は後になって紅扇姐さまから聞かされた。
それは同時に遊女の抜き差しならぬ運命の話でもあった。
いずれ望まぬ、誰とも知らぬ男の種を胎に残される。
そうなれば、身体は客を取る道具ではなくなる。
見世にとっては、銭を生まぬ身体になる。
番頭新造は黙っていた。
もう目的を果たしている。
潔白などという、白々しい弁解をする気もないようだ。
「金なら払うだんす」
じゃらり、と金の音がした。
深朱は桶の内で目を開けた。
涙で何も見えない。
けれど、その音丈は聞こえた。
姐さまが金を払っている。
折り合いの悪い番頭新造に。
深朱のために――。
助かった、と思った途端、その言葉は胸の内で潰れた。
ここで動く金は、誰かが払えば誰かの帳面に乗る。
姐さまが深朱を桶から出すために払った金は、姐さまの自由をまた一つ遠ざける金だった。
身揚りの一日、たった一夜息をつく余地さえ、金に変えられて帳面へ沈む。
深朱一人を助けるために、姐さまの明日が削られたのだ。
そう思った瞬間、煙より苦しいものが、ひゅっと喉へ上がった。
「その子は、妾が面倒を見てるでありんす」
桶が持ち上げられた途端、深朱の身体が前へ崩れた。
固まっていた胸が急に動き、咳が込み上げる。
床に手をつこうとしても、指がうまく開かなかった。
姐さまは、桶を退ける若衆に言った。
「乱暴はおよしなんし」
紅扇姐さまの部屋へ戻ると、姐さまは深朱を鏡の前に座らせた。
濡れた手拭いで目元を拭かれ、乱れた髪に櫛を入れられる。
「礼は言わなくていいよ」
姐さまが言った。
甘やかす響きではなかった。
けれど、突き放す響きでもなかった。
「言ったら恩になるだんす。妾は高い。お前にはまだ払えない」
深朱は、鏡の中で姐さまを見た。
なぜか泣きそうになる。
恩を着せずに、助けてくれる人がいる。
それを知ったのは、この時が初めてだった。



