紅籬楼は、もはや以前の紅籬楼ではなかった。
紅扇と珠璃。
花魁を一度に二人失い、楼主は夜逃げした。遣り手婆も、次の晩には消えた。
番頭新造は、それよりもっと前から姿を見せていない。
帳場には、多くの遊女を縛っていた証文と帳面だけが残された。
珠璃は、それを紅扇姐さまが戻ってくるまで燃やさないことにした。
九郎助と話してそう決めたあと、最後に一度きり、花魁道中をしたいと願い出た。
どこかで紅扇姐さまが見ているかもしれない。
珠璃が自由になって戻っていると、知らせるために。
師走の風が石畳を撫で、銘々の見世先の水桶には薄氷が張っている。
九郎助が大華通の端へ立ち、指先で空を撫でると、桜並木の黒い枝が一斉に目を覚ましたように震えた。
一つ、蕾が解ける。
また一つ。
やがて枝という枝に薄紅が灯るというように――。
真冬の大華通に、冬桜が満開に咲き、その夜は絢爛豪華に春めいた。
見物人の間から、押し殺した声が漏れた。
「冬に桜だと」
「狂い咲きじゃねえか」
「莫迦言えや。あれは桜の方が狂ったんじゃねえ。咲かせている……妖が居るんだ」
「妖だってェ!?」
「狐火が枝を走ってる……見えるか」
「見えるもんか。だが、寒いのに花の匂いがする」
吉兆と見る者もいた。
凶兆と見る者もいた。
ただの見世物と思って笑う者の顔にも、どこか引き攣ったものがある。
冬の桜は、人間の世の理から少し外れていた。
その外れたところへ、今から珠璃は足を踏み出すのだ。
九郎助は木の気を操る妖狐だが、これほどのものを和魂の勝った人間にまで見せるには、妖力を相当に削られているのだと珠璃にも判った。
金の狐火が木の根元を走ると、幹を上り、枝先で花へ変わっていく。
花びらは雪のように舞い、雪より温かい色をしていた。
今宵の珠璃の前帯は、そこまで華美なものではない。
けれど、歩くたびに緞子が狐火の光を返す。
結髪には、逃げる夜に懐へ押し込んだびらびら簪も挿した。
珠璃がここまで歩いてきたことを、自身が忘れぬための飾りだ。
箱提灯はない。
金棒も鳴らさない。
長柄の傘も用いない。
代わりに、傍らの九郎助の狐火が、道の両側に燈った。
金の火は、一つ、また一つと宙に浮かび、珠璃の歩む先へ道筋を作っていく。
箱提灯の代わりに、火の玉が彼女の名を掲げるように連なった。
金棒の代わりに、火先が地を払う。
人間の群れも、その光に押されて道を開けた。
長柄の傘の代わりに、頭上へ渡った狐火が、金の天蓋となって珠璃を覆う。
団吾が腕を組んで人払いをしている。
葛葉は鷹揚に顎を上げ、見物人を睥睨していた。
珠璃は、内八文字を踏んだ。
これもまた、廓で仕込まれたものだ。
客に見せるための歩き方。
値を吊り上げるための歩き方。
だが今夜きりは、もう誰も、誰にも売られぬために踏む。
真冬の桜が舞う。
大華通の奥に、水の祠が見える。
紅扇姐さまも、どこかで見ている気がした。
珠璃は大華通の中央で立ち止まり、顔を上げた。
「人間よ、聞きなんし」
桜の花びらが珠璃の肩を掠めて落ちる。
「朱籬廓の結界は破れんした」
ざわめきが大華通を渡った。
恐れ。
疑い。
面白半分の気配。
それらのすべてを受け止めて、珠璃は続けた。
「穢れはもう、格子の内に押し込めておけぬ」
珠璃は、一つ息を吸った。
かつて、その格子の内に籠められた。
見られるために座り、値をつけられるために笑い、泣くことさえ商いにされた。
「人間と妖が共に在る世が始まりんす」
誰かが息を呑んだ。
昏き道に堕ち、見える者には珠璃の眼の異様な光が見えている。
見えぬ者にも、今夜の空気が変わったことは判る筈だ。
「人間も妖も、どちらも道を踏み外せば、物の怪へ堕ちんす」
珠璃は、大華通の奥、水の祠のある方角を見た。
格子の向こうで手招きしていた、物の怪の黒い影。
名を奪われ、願いを呑み下し、恨みを抱いたまま輪郭を失ったものたち。
その姿が、脳裏へ蘇っていた。
「物の怪へ堕ちれば、輪廻の理からも外れんす。人間にも戻れず、妖にも成れず、ただ恨みの異形で現世を彷徨うばかり」
言葉にした途端、胸の奥が痛んだ。
もう、現世も幽世も珠璃にとって他人事ではない。
「この日より、紅籬楼は名を改めんす」
一拍置く。
「紅扇屋」
その名を口にした瞬間、胸が熱くなった。
紅扇姐さま。
戻ってきて。
あなたの名を、もう誰にも売らせないから。
「紅籬楼では、女の身は売りんせん。売るのは、旨い飯と、酒と、芸のみ」
珠璃は、びらびら簪を揺らし、まっすぐ前を見た。
「三味線、舞、唄、書、香、茶。覚えた芸は、すべて芸としてお見せしんす」
身体を飾るために仕込まれたものを、身体から引き剥がす。
値をつけるために覚えたものを、値札ではない名で差し出す。
「これより先、見ぬふりは許されん、のう、人間も、妖も、互いを知らねばなりんせん」
薄紅の花びらがまた、珠璃の髪に触れて落ちた。
「どうぞ御贔屓に、おいでくんなまし」
桜の花びらが地面からふわりと一斉に舞い上がる。
真冬の大華通に、薄紅の吹雪が舞う。
その中で珠璃は、初めて誰にも買われぬ女として、大家通の中央に立っていた。
紅扇屋の隣の小料理屋は、やがて珠璃の居場所になった。
昼前になると、葭海の方から小鬼の団吾が荷を担いでやって来る。
背中には大根、蕪、冬菜、牛蒡などの冬のもの。
ときどき葛葉も同行してきて、荷の中身を得意げに説明する。
「この蕪は旨いぞ」
「姫さまが昨日、葉付きがよいと言いなすったので、捥いで参りました」
「わしは一言申したまでじゃ」
「一言が御下命ですぞ」
そんなやり取りをしながら、二人は裏口へ入る。
闇堕ちしていない人間の目には、団吾は背の低い働き者の子どもに見えるようだ。
葛葉は狐耳も尻尾も見えぬ、少し生意気な良家の少女に見えるらしい。
蘭の猫耳も尻尾も、多くの客には見えない。
客の目にはただ、火の扱いが妙に巧い、炭火焼き鳥屋の看板娘と映っているらしい。
串を返す手つきは早く、炭を起こせば一息で火が立つ。
それを見た客たちは、器用な娘だと笑って酒を進めるという具合だ。
小料理屋の竈からは、蘭が醤油を炙っている匂いが立っている。
「珠璃、今日の座敷は二組にゃ。一組は商家の旦那衆、一組は三津田さま筋にゃ」
「舞妓たちにも伝えてあげて」
「はーい、朝飯前にゃ」
身体は売り物ではない。
それをかつて当然だったように言われるたび、まだ受け入れられない。
けれど、揺れながらも立てるようになってきた。
夜になると、珠璃は三味線を取った。
客は膳を前に座り、蘭の料理に舌鼓を打つ。
団吾の運んだ野菜は、冬の味が濃く、どれも絶品に誂えられている。
珠璃は小唄を歌った。
声を売るのではない。
身を誘うのでもない。
ただ、覚えた芸を、芸として差し出す。
紅扇屋に最後まで勤めていた遊女たちは、一度は夜に紛れて散った者まで、珠璃のところへ一人、また一人と顔を出すようになっていた。
行く当てなど、悲しいほどに誰にもそう多くはなかったのだ。
「雇っておくれよ」
「飯炊きでも、掃除でもいい」
「もう格子には座りたくないんだ」
珠璃は、蘭と相談して、一つずつ決めていった。
「働くなら、働いた分を払います」
「そんなの当たり前だろ」
女の一人が泣き笑いをした。
冗談の心算だったのだろう。
けれど、その当たり前があまりにも遠かった。
働いても借りが増え、食べても借りが増え、着ても借りが増える。
身体ごと帳面へ沈められてきた女たちには、働いた分を受け取るという当たり前さえ、遠い夢物語だったのだ。
紅扇と珠璃。
花魁を一度に二人失い、楼主は夜逃げした。遣り手婆も、次の晩には消えた。
番頭新造は、それよりもっと前から姿を見せていない。
帳場には、多くの遊女を縛っていた証文と帳面だけが残された。
珠璃は、それを紅扇姐さまが戻ってくるまで燃やさないことにした。
九郎助と話してそう決めたあと、最後に一度きり、花魁道中をしたいと願い出た。
どこかで紅扇姐さまが見ているかもしれない。
珠璃が自由になって戻っていると、知らせるために。
師走の風が石畳を撫で、銘々の見世先の水桶には薄氷が張っている。
九郎助が大華通の端へ立ち、指先で空を撫でると、桜並木の黒い枝が一斉に目を覚ましたように震えた。
一つ、蕾が解ける。
また一つ。
やがて枝という枝に薄紅が灯るというように――。
真冬の大華通に、冬桜が満開に咲き、その夜は絢爛豪華に春めいた。
見物人の間から、押し殺した声が漏れた。
「冬に桜だと」
「狂い咲きじゃねえか」
「莫迦言えや。あれは桜の方が狂ったんじゃねえ。咲かせている……妖が居るんだ」
「妖だってェ!?」
「狐火が枝を走ってる……見えるか」
「見えるもんか。だが、寒いのに花の匂いがする」
吉兆と見る者もいた。
凶兆と見る者もいた。
ただの見世物と思って笑う者の顔にも、どこか引き攣ったものがある。
冬の桜は、人間の世の理から少し外れていた。
その外れたところへ、今から珠璃は足を踏み出すのだ。
九郎助は木の気を操る妖狐だが、これほどのものを和魂の勝った人間にまで見せるには、妖力を相当に削られているのだと珠璃にも判った。
金の狐火が木の根元を走ると、幹を上り、枝先で花へ変わっていく。
花びらは雪のように舞い、雪より温かい色をしていた。
今宵の珠璃の前帯は、そこまで華美なものではない。
けれど、歩くたびに緞子が狐火の光を返す。
結髪には、逃げる夜に懐へ押し込んだびらびら簪も挿した。
珠璃がここまで歩いてきたことを、自身が忘れぬための飾りだ。
箱提灯はない。
金棒も鳴らさない。
長柄の傘も用いない。
代わりに、傍らの九郎助の狐火が、道の両側に燈った。
金の火は、一つ、また一つと宙に浮かび、珠璃の歩む先へ道筋を作っていく。
箱提灯の代わりに、火の玉が彼女の名を掲げるように連なった。
金棒の代わりに、火先が地を払う。
人間の群れも、その光に押されて道を開けた。
長柄の傘の代わりに、頭上へ渡った狐火が、金の天蓋となって珠璃を覆う。
団吾が腕を組んで人払いをしている。
葛葉は鷹揚に顎を上げ、見物人を睥睨していた。
珠璃は、内八文字を踏んだ。
これもまた、廓で仕込まれたものだ。
客に見せるための歩き方。
値を吊り上げるための歩き方。
だが今夜きりは、もう誰も、誰にも売られぬために踏む。
真冬の桜が舞う。
大華通の奥に、水の祠が見える。
紅扇姐さまも、どこかで見ている気がした。
珠璃は大華通の中央で立ち止まり、顔を上げた。
「人間よ、聞きなんし」
桜の花びらが珠璃の肩を掠めて落ちる。
「朱籬廓の結界は破れんした」
ざわめきが大華通を渡った。
恐れ。
疑い。
面白半分の気配。
それらのすべてを受け止めて、珠璃は続けた。
「穢れはもう、格子の内に押し込めておけぬ」
珠璃は、一つ息を吸った。
かつて、その格子の内に籠められた。
見られるために座り、値をつけられるために笑い、泣くことさえ商いにされた。
「人間と妖が共に在る世が始まりんす」
誰かが息を呑んだ。
昏き道に堕ち、見える者には珠璃の眼の異様な光が見えている。
見えぬ者にも、今夜の空気が変わったことは判る筈だ。
「人間も妖も、どちらも道を踏み外せば、物の怪へ堕ちんす」
珠璃は、大華通の奥、水の祠のある方角を見た。
格子の向こうで手招きしていた、物の怪の黒い影。
名を奪われ、願いを呑み下し、恨みを抱いたまま輪郭を失ったものたち。
その姿が、脳裏へ蘇っていた。
「物の怪へ堕ちれば、輪廻の理からも外れんす。人間にも戻れず、妖にも成れず、ただ恨みの異形で現世を彷徨うばかり」
言葉にした途端、胸の奥が痛んだ。
もう、現世も幽世も珠璃にとって他人事ではない。
「この日より、紅籬楼は名を改めんす」
一拍置く。
「紅扇屋」
その名を口にした瞬間、胸が熱くなった。
紅扇姐さま。
戻ってきて。
あなたの名を、もう誰にも売らせないから。
「紅籬楼では、女の身は売りんせん。売るのは、旨い飯と、酒と、芸のみ」
珠璃は、びらびら簪を揺らし、まっすぐ前を見た。
「三味線、舞、唄、書、香、茶。覚えた芸は、すべて芸としてお見せしんす」
身体を飾るために仕込まれたものを、身体から引き剥がす。
値をつけるために覚えたものを、値札ではない名で差し出す。
「これより先、見ぬふりは許されん、のう、人間も、妖も、互いを知らねばなりんせん」
薄紅の花びらがまた、珠璃の髪に触れて落ちた。
「どうぞ御贔屓に、おいでくんなまし」
桜の花びらが地面からふわりと一斉に舞い上がる。
真冬の大華通に、薄紅の吹雪が舞う。
その中で珠璃は、初めて誰にも買われぬ女として、大家通の中央に立っていた。
紅扇屋の隣の小料理屋は、やがて珠璃の居場所になった。
昼前になると、葭海の方から小鬼の団吾が荷を担いでやって来る。
背中には大根、蕪、冬菜、牛蒡などの冬のもの。
ときどき葛葉も同行してきて、荷の中身を得意げに説明する。
「この蕪は旨いぞ」
「姫さまが昨日、葉付きがよいと言いなすったので、捥いで参りました」
「わしは一言申したまでじゃ」
「一言が御下命ですぞ」
そんなやり取りをしながら、二人は裏口へ入る。
闇堕ちしていない人間の目には、団吾は背の低い働き者の子どもに見えるようだ。
葛葉は狐耳も尻尾も見えぬ、少し生意気な良家の少女に見えるらしい。
蘭の猫耳も尻尾も、多くの客には見えない。
客の目にはただ、火の扱いが妙に巧い、炭火焼き鳥屋の看板娘と映っているらしい。
串を返す手つきは早く、炭を起こせば一息で火が立つ。
それを見た客たちは、器用な娘だと笑って酒を進めるという具合だ。
小料理屋の竈からは、蘭が醤油を炙っている匂いが立っている。
「珠璃、今日の座敷は二組にゃ。一組は商家の旦那衆、一組は三津田さま筋にゃ」
「舞妓たちにも伝えてあげて」
「はーい、朝飯前にゃ」
身体は売り物ではない。
それをかつて当然だったように言われるたび、まだ受け入れられない。
けれど、揺れながらも立てるようになってきた。
夜になると、珠璃は三味線を取った。
客は膳を前に座り、蘭の料理に舌鼓を打つ。
団吾の運んだ野菜は、冬の味が濃く、どれも絶品に誂えられている。
珠璃は小唄を歌った。
声を売るのではない。
身を誘うのでもない。
ただ、覚えた芸を、芸として差し出す。
紅扇屋に最後まで勤めていた遊女たちは、一度は夜に紛れて散った者まで、珠璃のところへ一人、また一人と顔を出すようになっていた。
行く当てなど、悲しいほどに誰にもそう多くはなかったのだ。
「雇っておくれよ」
「飯炊きでも、掃除でもいい」
「もう格子には座りたくないんだ」
珠璃は、蘭と相談して、一つずつ決めていった。
「働くなら、働いた分を払います」
「そんなの当たり前だろ」
女の一人が泣き笑いをした。
冗談の心算だったのだろう。
けれど、その当たり前があまりにも遠かった。
働いても借りが増え、食べても借りが増え、着ても借りが増える。
身体ごと帳面へ沈められてきた女たちには、働いた分を受け取るという当たり前さえ、遠い夢物語だったのだ。



