朱籬姫の嫁入り 〜売られた花魁は大妖狐に囲われる〜


 朱籬廓(しゅりかく)へ戻るのは、逃げ出した夜よりも怖かった。
 (あし)(ぶね)が、音もなく葭津(よしづ)の水際の桟橋(さんばし)へ寄る。

 大華通(たいかどおり)を目にした途端、昔の景色が胸裏(きょうり)へ押し寄せた。
 かつて女衒(ぜげん)に荷物のように運ばれたときと、今とではまるで違う。
 あの日はもう帰る家もなく、行く先もなく、物心もはっきりする前だった。

 今は、対峙するべき者の名を知っている。
 楼主(ろうしゅ)、遣り手婆、番頭新造(しんぞう)
 そして、証文と帳面の重さ――。

 紅籬楼(こうりろう)は、以前と同じ顔をしていた。
 あの夜から、さほど時が過ぎていないように見えて、珠璃(しゅり)は胸の(つかえ)が少し溶けるのを覚えた。

 大見世には届かぬが、小店にも落ちぬ、中途半端な欲の匂い。
 牢獄のような格子の内の胡粉(おしろい)煙草(たばこ)伽羅(きゃら)、古い畳。

 だが、珠璃(しゅり)はもう()められた遊女ではない。

「入るぞ」
「はい」

 若衆(わかしゅ)誰何(すいか)するより早く、九郎助(くろすけ)の狐火が足元を走った。
 床板を焦がさず、ただ廊下の奥までまっすぐ伸びる。
 まるでこの見世に隠れていた悪い筋を照らすようだった。

「な、何だい、あんたらは――あ、(あやかし)……」

 遣り手婆が奥から出て来た。
 その顔が、珠璃(しゅり)を見た途端に凍り付く。

 足抜けした娘。
 それが、(あやかし)を連れて戻ってきたのだ。

深朱(みあけ)……あんた、よく戻ったじゃない」
珠璃(しゅり)です」

 自分でも驚くほど、すんなり名乗りが出た。
 もう珠璃(しゅり)は、玻璃(はり)の宝石眼を持つ娘であって、深朱(みあけ)ではない。

 深朱(みあけ)
 帳面につけられた名だ。
 紅籬楼(こうりろう)の朱を深く背負わせるための名だった。
 けれど今、手首の狐火が、違う名を支えている。

珠璃(しゅり)と名乗っております」

 遣り手婆の目が、珠璃(しゅり)の宝石眼から廊下を走る狐火へと落ちた。
 口元が引きつる。

「足抜けして、二晩で戻って来るとはねえ」

 遣り手婆の声に、珠璃(しゅり)は息を止めた。

 二晩。
 あの里で過ごした時間は、もっと長かった。
 なのに朱籬廓(しゅりかく)では、まだ数えられるほどの夜しか経っていないようだ。
 微かな眩暈(めまい)を覚えたが、時の流れは葭海(よしうみ)の向こうと現世とでは噛み合わないのが常と聞いていたので、どうにか飲み込もうとする。
 むしろ紅扇姐さまと離れていた時間が短いということでもある。

楼主(ろうしゅ)はどこだ」

 九郎助(くろすけ)は声を荒げてもいないが、老婆は逆らわなかった。

 奥の帳場へ通されると、珠璃(しゅり)の足が一瞬止まった。
 古い畳、墨と錆びた銭と伽羅(きゃら)の匂い。
 売られて来た夜、ここで元の真名(まな)を奪われた。
 今はもう、人間(ひと)(あやかし)の半()(よう)になった珠璃(しゅり)だ。

 文机(ふづくえ)の向こうに、楼主(ろうしゅ)が座っていた。
 その脇で、番頭新造(しんぞう)が帳面を抱え込んでいる。
 遣り手婆は入口近くに座り、逃げ道を塞ぐように背を丸めた。

「これはこれは」

 楼主(ろうしゅ)は、怒鳴らなかった。
 (いぶ)し責めの折檻(せっかん)を下した、あの時と同じだ。
 いつも温厚そうな顔をして、いちばん冷たい決定を下す。

「戻って来るとは殊勝だねえ。これで三津田様への話も取り返しがつく」

 珠璃(しゅり)の身体がぴくりと反射的に肩を揺らしそうになったが、今は九郎助(くろすけ)が隣にいる。
 その気配が背中から支えてくれていた。

「取り返すのは、こちらだ」

 九郎助(くろすけ)は、低く言った。
 明らかな恫喝を用いずに、相手の逃げ道を一つずつ塞いでいく者の目だ。

「帳面を出せ」
「帳面?」

 高価な紬を着込んだ楼主(ろうしゅ)の眉が動いた。

 その一瞬で、珠璃(しゅり)にも判った。
 帳面はある。
 この家に来た日から、何を食べ、何を着せられ、誰に稽古を付けられ、髪油や薬の値に至るまで、折檻(せっかん)のあとに巻かれた布切れ一枚さえ、細大漏らさず記されたもの。

「この娘へ積んだ借り。すべて書いてあるのだろう」

 すると、文机に付いていた番頭新造(しんぞう)が振り返り、嘲笑(わら)った。

「おやまあ。妖狐さまは、お女郎(じょろう)の借りまでお支払いなさる気で」

 その(わら)いに、珠璃(しゅり)の指先が冷えた。
 何度も聞いた調子だった。
 逃げたいと言った禿(かむろ)を笑うとき。
 痛いと訴えた新造(しんぞう)を笑うとき。
 客に嫌われた花魁(おいらん)へ、これでまた借りが増えたねェと告げるとき。

 大体、珠璃(しゅり)は、芸事で魅せるのが本分の花魁(おいらん)だ。
 西河岸(かし)の長屋見世で、身体一つを畳の上へ転がして開く鉄砲女郎(じょろう)であったことはない。

「でもォ、旦那ァ。見世の帳面は外へ見せるもんじゃありんせんよ。まして足抜け女郎(じょろう)のために――」

 その時、狐火が一筋、番頭新造(しんぞう)の抱えた帳面の上へ落ちた。
 帳面の表紙に染みた墨が、じわりと浮き上がる。

 隠した数字。
 削った揚代。
 誰にも見せぬ陰銭(かげぜに)
 火は文字を焦がさず、嘘の上に金の縁をつけていく。

 番頭新造(しんぞう)の顔は、胡粉(おしろい)を塗ってなお血の気を失った。

「やめなんし、それは――」
「お前の粉飾の跡だ」

 九郎助(くろすけ)が言う。
 我が刀で首を切るとはこのことだ。
 楼主(ろうしゅ)の目が素早く、番頭新造(しんぞう)へと動いた。

 風もないのに帳面が次々と開かれる。
 これが肌よりも深く、名よりも重く、帳面の黒い文字と線とで、珠璃(しゅり)を縛っていたもの。
 ――番頭新造(しんぞう)の指が震えている。

 九郎助の狐火が、(ページ)の端を撫でる。
 すると、墨の一部がふっと青黒く変わった。

「これは何だ」

 九郎助(くろすけ)が指したのは、珠璃(しゅり)の水揚げ前夜の日付だった。

 帳面の同じ場所に受け取りが二つ浮かんでいる。
 一つは三津田。
 もう一つは、西河岸(かし)伽羅(きゃら)売り。
 いかにも同じ商いの内に収まっているかのようだった。

「番頭、お前……ッ」

 上前(うわまえ)()ねるための、阿漕(あこぎ)な二重取引だと悟った瞬間、遣り手婆の顔へかあっと血が上った。

 婆にとって、遊女の苦しみなどどうでもよいことだが、見世の帳面を抜かれたとなれば、話は別だった。
 番頭新造(しんぞう)に負けず劣らず、遊女を縛ってきたこの婆も、銭の流れを汚されることだけは許さない。

(ぜに)()は二倍だと、わたしに誘いかけたのは、この女だった……! だから逃げるしか」

 言い終えた途端、帳場の空気が変わった。

 楼主(ろうしゅ)の顔から、珍しく温厚そうなものが消える。
 怒りではない、憐れみでもない。
 深朱(みあけ)だけどころではない大損を見つけた商人の顔だった。

「お、お前、まさか深朱(みあけ)以外にも……ッ」

 遣り手婆が戸口を離れ、番頭新造(しんぞう)の方へにじり寄った。

 それを(さえぎ)るように、九郎助(くろすけ)の狐火が帳面から伸びる。
 金の火は番頭新造(しんぞう)の指先まで這い上がる。
 熱くはない(はず)なのに、番頭新造(しんぞう)は喉の奥で悲鳴を噛み殺した。

「やめ、やめなんし……!」
珠璃(しゅり)を汚そうとし、紅扇の顔を潰し、見世の上がりの横領分を補填させていた」

 九郎助(くろすけ)の金の眼が、冷えていく。
 番頭新造(しんぞう)の醜さを一つずつ帳面の上へ並べ、逃げられぬ形にしていく。

「よくここまで腐ったものだ」

 番頭新造(しんぞう)の唇が、醜く(ゆが)んだ。

「小娘があッ! こんな(おとこ)ォ、作って戻ってきやがってええェ!」

 それは珠璃(しゅり)へ向けたものか。
 それとも、自分より若く、高く売られたすべての娘へ向けたものか。

 その憎しみは、帳面の墨より黒かった。
 女の形をしたまま、長い年月をかけて腐っていた。

 またしても、妖力(ちから)のある男に選ばれた娘。
 またしても、泥の底から白い手で(すく)い上げられる娘。
 またしても、自分ではない娘。

 その悔しさが、番頭新造(しんぞう)の顔を歪ませる。
 胡粉(おしろい)の下で皮膚がひび割れ、紅を引いた唇の端から、黒いものが滲んだ。

 若いから。
 美しいから。
 高く売れるから。
 男が救いたがる顔をしているから。
 そんなものの全部憎かった。

 自分もかつては、誰かに選ばれると思っていた。
 値を付けられ、競られ、褒めそやされると信じた夜もあった。
 けれど、誰も来なかった。

 この女に残ったのは帳面だけ。
 名前と値と借金と、使った髪油の銭まで書き付けた、女を縛る墨の列だけだった。

「紅扇の超過払い分は、珠璃(しゅり)の分を差し引いても、もう借りはない」

 九郎助(くろすけ)楼主(ろうしゅ)を正面から捉えて(のたま)った。

「二人は自由にさせてもらう」
「そんな……勝手な」

 その時、帳場の外から、軽やかな足音が近付いた。

 この部屋に似合わぬ足取りだった。
 畳の湿りも、銭の匂いも、墨の暗さも、平気で踏み越えてくる。

「勝手じゃないですよーだ」

 遣り手婆が振り返るより早く、でっぷり太った身体の脇を、するりと何かが抜けた。

「帳尻合わせなら、あてしも見ましたにゃ」

 そこに降り立ったのは、珠璃(しゅり)の知らない娘だった。

 年頃は珠璃(しゅり)より少し上に見える。
 紅の混じる先端娘(モガ)風の短い髪に、ぴんと立った猫耳。
 (はかま)の尻から、赤茶の尻尾がゆらりと揺れている。

 手には、小料理屋の角盆。
 紅い和服に前掛の小柄な姿。
 帳場に現れた猫耳娘は、尾の先まで紅く、この場に居合わせた全員にも見えているようだった。

 余りに場違いで、誰もすぐには口を開けなかった。
 紅籬楼(こうりろう)の狭い帳場は、いつの間にか、人間(ひと)の商いだけでは収まりきらぬ場所になっている。

「あてし、(らん)。隣の小料理屋で二日ほど働いてたにゃ。潜入調査、だーい好きにゃ。ふふふ」

 (らん)は角盆を、ことりと畳へ置いた。

 愛想のよい声だった。
 けれど、猫耳はぴんと立ち、あくまで真剣な様子だ。
 赤茶の尾の先が、焦れたようにゆっくりと揺れている。

 番頭新造(しんぞう)が立ち上がりかけた。

「猫畜生(ちくしょう)が、何を――」
「華族でもない、異能もない人間(ひと)が、あんまり(あやかし)を舐めると痛い目を見ますにゃ?」

 (らん)の尻尾が、ふわりと膨らんだ。

 同時に、帳場の灯が赤く揺れる。
 ただの猫娘ではない。
 火の気配がある。
 九郎助(くろすけ)の金の火とは違う。

 もっと近く、もっと生活の底にある、(かまど)で鍋を煮立てるような火。
 生き物じみた熱さを持つ赤だった。

「火は舌を持ってるにゃ」

 (らん)は番頭新造(しんぞう)をちらりと見た。

「隣の土間の(かまど)に聞きましたにゃ。番頭さんの悪巧みは合ってる(はず)だそうでーす。納得できないと言うなら、妓楼(ぎろう)の格子が燃えたみたいに、燃やしちゃいまーす」

 番頭新造(しんぞう)の顔が、更に崩れた。
 九郎助(くろすけ)(らん)を見て、すぐに問いを変えた。

「紅扇はどこだ。探せと言った筈だが」

 その名が出た途端、珠璃(しゅり)の胸が縮んだ。
 とすれば、九郎助(くろすけ)は姐やを探してくれていたのだ。

 楼主(ろうしゅ)も遣り手婆も顔色を変えたのを見て、九郎助(くろすけ)は無言で狐火を揺らした。

「こ、紅扇は戻らない。深朱(みあけ)が足抜けして、後追いかと思っていたが……」

 戻らない。
 後追い。
 珠璃(しゅり)の指先から血の気が引いた。

「どこへ行った」

 楼主(ろうしゅ)を振り返った九郎助(くろすけ)の金の眼は鋭かった。

 楼主(ろうしゅ)が更に何かを答えようとするより早く、(らん)がひょいと立ち上がった。
 猫耳がぴんと立っている。
 先ほどまでのふざけた調子が、急に消えていた。

「待つにゃ。この帳場の火に聞いてみる」

 (らん)は、帳場の隅に置かれた燭台へ指をかざした。
 赤い火が、芯からふっと伸びる。
 それは狐火のように飛ばず、揺れる灯の中で舌の形を取った。

 火が、何かを舐め取っている。
 この妓楼(ぎろう)に残った言葉、廊下を通った足音。
 (らん)はそれを聞いているのだ。
 珠璃(しゅり)は息を潜めて待った。

 暫くして、(らん)が目を開いた。

「……水の(ほこら)にゃ」
橋姫(はしひめ)か」

 九郎助(くろすけ)が言った。

 その名で、珠璃(しゅり)の記憶に水色の()が揺れた。
 濡れた黒髪。
 蒼白の顔。
 古い橋の欄干のような木片を抱いて、音もなく(くるわ)の夜を歩いていた女。

「そこにいるみたいにゃ」

 (らん)は角盆を抱え直し、わざと明るく笑った。

「それじゃ、紅扇さんと珠璃(しゅり)ちゃんは返して(もら)いまーす」