事が起きたのは、その夜だった。
深朱は姐さまに頼まれていた鬼灯の包みを、袖の奥に隠していた。
ふいに台所に続く廊下の角で、番頭新造に呼び止められた。
「袖が重そうだねェ」
逃げる暇はなかった。
経木の包みが床に落ちた。
鬼灯の毒々しい赤と、土に塗れた汚い根がばらばらと床に転がった。
番頭新造の唇が歪む。
深朱が鬼灯の根を都合しても可笑しくないほどの年になったことに、初めて思い至ったような顔だった。
「水揚げ前から、陰で不見転の荒稼ぎでもする気かい」
紅扇姐さまの名を言うこともできた。
頼まれたのだと言えば、深朱の咎ではなくなる。
けれど紅扇姐さまの名を出した途端、姐さまも済まされない。
番頭新造は、それを待っている。
この女は深朱丈が憎いのではない。
売れっ子花魁の紅扇姐さまが憎い。
紅扇姐さまの傍に置かれる深朱が憎い。
自分が座れなかった場所へ、まだ何も知らぬ娘が招かれている。
その娘は招かれたことの重ささえ知らない。
年を重ねた女にはもう得られぬ席がある。
遊女として選ばれる前の疵の浅さも、まだ値の定まらぬ余白も、深朱は知らぬ顔で全てを持っていた。
庇う相手がいること。庇われるほどのつながりがあること。
そのやり取り一つ一つを日々見ることさえ、この女の疵口へ塩を塗るのだ。
それを、虐め抜きたくてたまらないのだ。
男にも女にも、見世にも、選ばれなかった年月が女の目の奥に澱んでいる。
欲しい場所へ呼ばれなかった、湿った怨念だった。
だから番頭新造は深朱の沈黙を内心喜んでいる。
「不見転だってェ!?」
そのとき、遣り手婆が血相を抱えて板間から滑り出て来た。
深朱は答えなかった。
不見転の意味を知らなかったのだ。
ただ、それが女をひどく汚す言葉なのだということ丈は、番頭新造の嗤い方で判った。
いつも温厚な楼主は、無論怒鳴らなかった。
奥から出て来て、床に転がった鬼灯を一つ見やる。
「顔は残せ。手も残せ。膝もだ。疵になる折檻はするな」
手織り紬の綿入に兵児帯から金の鎖を垂らしたその男は、深朱を見やる。
「余計な計算丈、削げ」
連れて行かれたのは、見世の蔵の奥だった。
壁際に大きな桶が置かれていた。
客が揚代を払えぬ時に晒す、桶伏せの話は聞いたことがある。飯丈は与えられ、身を動かすことも許されず、家の者が金を持ってくるまで置かれるのだと。
深朱に与えられたのは、それに似た罰だった。
手首を結ばれ、膝を折らされた。
腰を浮かせることも、倒れることもできぬ姿にされる。
巨大な桶を被せられると、暗がりが顔のすぐ近くまで落ちてきた。
桶伏せ罰に使われて来た内側には、古い木と湿気とが染みついている。
深朱は口を閉じた。
閉じていれば、何とかなると思った。
外で何かを焚く音がした。
最初は藁の匂いだった。
次に山椒。乾いた莨の葉。最後に少し唐辛子が混じった。
燻し責めだ。
息を吸った瞬間、喉の奥が焼けた。
咳が出る。咳をすると、桶の内側で熱が跳ね返る。
目から涙があふれ、鼻の奥が裂けるように痛む。
顔を覆いたくても、手は動かない。
膝がしびれ、爪先の感覚が薄れていく。
助けて、と言おうとしても、咳に切られて声にならない。
深朱は姐さまに頼まれていた鬼灯の包みを、袖の奥に隠していた。
ふいに台所に続く廊下の角で、番頭新造に呼び止められた。
「袖が重そうだねェ」
逃げる暇はなかった。
経木の包みが床に落ちた。
鬼灯の毒々しい赤と、土に塗れた汚い根がばらばらと床に転がった。
番頭新造の唇が歪む。
深朱が鬼灯の根を都合しても可笑しくないほどの年になったことに、初めて思い至ったような顔だった。
「水揚げ前から、陰で不見転の荒稼ぎでもする気かい」
紅扇姐さまの名を言うこともできた。
頼まれたのだと言えば、深朱の咎ではなくなる。
けれど紅扇姐さまの名を出した途端、姐さまも済まされない。
番頭新造は、それを待っている。
この女は深朱丈が憎いのではない。
売れっ子花魁の紅扇姐さまが憎い。
紅扇姐さまの傍に置かれる深朱が憎い。
自分が座れなかった場所へ、まだ何も知らぬ娘が招かれている。
その娘は招かれたことの重ささえ知らない。
年を重ねた女にはもう得られぬ席がある。
遊女として選ばれる前の疵の浅さも、まだ値の定まらぬ余白も、深朱は知らぬ顔で全てを持っていた。
庇う相手がいること。庇われるほどのつながりがあること。
そのやり取り一つ一つを日々見ることさえ、この女の疵口へ塩を塗るのだ。
それを、虐め抜きたくてたまらないのだ。
男にも女にも、見世にも、選ばれなかった年月が女の目の奥に澱んでいる。
欲しい場所へ呼ばれなかった、湿った怨念だった。
だから番頭新造は深朱の沈黙を内心喜んでいる。
「不見転だってェ!?」
そのとき、遣り手婆が血相を抱えて板間から滑り出て来た。
深朱は答えなかった。
不見転の意味を知らなかったのだ。
ただ、それが女をひどく汚す言葉なのだということ丈は、番頭新造の嗤い方で判った。
いつも温厚な楼主は、無論怒鳴らなかった。
奥から出て来て、床に転がった鬼灯を一つ見やる。
「顔は残せ。手も残せ。膝もだ。疵になる折檻はするな」
手織り紬の綿入に兵児帯から金の鎖を垂らしたその男は、深朱を見やる。
「余計な計算丈、削げ」
連れて行かれたのは、見世の蔵の奥だった。
壁際に大きな桶が置かれていた。
客が揚代を払えぬ時に晒す、桶伏せの話は聞いたことがある。飯丈は与えられ、身を動かすことも許されず、家の者が金を持ってくるまで置かれるのだと。
深朱に与えられたのは、それに似た罰だった。
手首を結ばれ、膝を折らされた。
腰を浮かせることも、倒れることもできぬ姿にされる。
巨大な桶を被せられると、暗がりが顔のすぐ近くまで落ちてきた。
桶伏せ罰に使われて来た内側には、古い木と湿気とが染みついている。
深朱は口を閉じた。
閉じていれば、何とかなると思った。
外で何かを焚く音がした。
最初は藁の匂いだった。
次に山椒。乾いた莨の葉。最後に少し唐辛子が混じった。
燻し責めだ。
息を吸った瞬間、喉の奥が焼けた。
咳が出る。咳をすると、桶の内側で熱が跳ね返る。
目から涙があふれ、鼻の奥が裂けるように痛む。
顔を覆いたくても、手は動かない。
膝がしびれ、爪先の感覚が薄れていく。
助けて、と言おうとしても、咳に切られて声にならない。



