昼餉の支度を手伝おうとして、珠璃はまた手持ち無沙汰になった。
竈の前に立てば、薪をくべる加減が判らない。井戸端へ行けば、釣瓶の縄に手間取ってしまう。
畑へ行っても、霜の降りた畝や、土の締まり具合を見て、皆が何を言っているのか少しも見えない。
結局気後れして引き返し、九郎助稲荷の銀杏の木に凭れかかる。
そんなことばかりだった。
身過ぎ世過ぎもなく、この妖の里では我が身を活かせない。
団吾には、もともと珠璃に手伝わせる気などないらしい。
九郎助も葛葉も、何も言わない。
それがかえって、珠璃には堪えた。
役に立ちたい気持ちはある。
九郎助との契りが深まれば、木の気配も判るようになるのだという。
けれど今の珠璃には、まだ何一つ見えない。
役目も、力も、差し出せるものもない。
そう思った途端、自分の輪郭がひどく薄くなる気がした。
ただ居てよい、という感覚を、珠璃はまだ持てないでいた。
役に立つから置かれる。値があるから求められる。
そういう場所でしか、生き方を教えられてこなかった。
結局、今日は炉端に座っていた九郎助の隣に無言で腰を下ろして、小さな包みを広げた。
逃げる夜に懐へ押し込んだびらびら簪と、それから紅扇姐さまが格子越しに渡してくれた古い九郎助稲荷の木札だ。
簪は草庵にあってもまだ華やかだった。
金具の先に揺れる薄い飾りは、少し欠けても光を拾う。
簪の扱いなら、まだ判る。
歩くたび、どれほど揺らせば客の目を引けるか。
どの角度で挿せば、顔がより華やかに、目がより深く見えるか。
判るものは、皆、廓の中で仕込まれたものだ。
珠璃は、指先で角ばった古い木札を撫でた。
表には、薄れかけた墨で九郎助稲荷の名が残っている。
どうして、これを渡してくれたのだろう。
苦しい夜の底で、誰にも言わずに握り、願を掛けてきた木札だっただろうに。
それを、珠璃へ渡した。
よもや、もう願う心算がなくなったのか。
そう思うと、木札の薄さが急に頼りなく見えた。
見たこともない大門切手は、こんな形をしているとは聞いていた。
まさか薄暗がりに、その通行手形と空目させるためか。
否、検問がそれで済まされる訳はないだろう。
格子の内と外を分けるもの。
通ってよい者と、戻される者を分けるもの。
持つ者だけが、門の向こうへ行けるもの――。
今、珠璃は、九郎助から選択権を委ねられている。
姐さんも九郎助も、そうして珠璃に大切なものを差し出したのだ。
「のう、珠璃」
いつの間にか葛葉が外から戻り、戸口に立っていた。
小さな姫は、顔を上げて各瓶の狐火を見まわしているようだ。
見えぬものの匂いを嗅ぎ分ける狐のように鼻を上げている。
「人間の世に、生じる乱れを感じるぞ」
「大結界師が死んだ……から?」
「そういうことじゃ」
「里の外も結界がなくなったの?」
訊いた途端、珠璃は自分の言葉に寒気を覚えた。
それは、この里が見つかるという話きりではないということに今更気付いたからだ。
何か目に見えぬものを押し留めていた境の緩み。
「――そうだ。……薄れ切って、もうあらぬ」
葛葉が、すぐには答えられずにいた問いへ、返したのは九郎助だった。
朝のことで眠気に負けて、胡坐をかいたまま寝入っているのではないかと思ったほど、身じろぎ一つしていなかったのに。
「朱籬廓にも綻びが出る」
その名を聞いた途端、珠璃の指先が木札の角を押した。
「紅扇姐さま……」
「あそこは人間の欲と穢れを受け止める場所じゃ」
葛葉がこちらに来て、珠璃の向かいに腰を下ろした。
金の眼が、畳の上の簪へ止まった。
「華やかな色街などと呼んでおるが、あれは都に溜まる穢れを逃がす樋でもある。恨み、嫉み、病、妬み、金で流す欲。人間の世はそれらを綺麗な座敷へ押し込め、花と呼んで誤魔化しておる」
花。
何度も言われてきた言葉だ。
よい花になれ。高く咲け。紅籬楼の大輪になれ。
「そこを結界で囲って区切ることが、これまでは機能しておったが……」
そこでいったん、葛葉は話を切った。
続けるべきか、選ぶように目を伏せる。
珠璃の眼の裏に、紅扇姐さまの横顔が浮かぶ。
社の前で長く手を合わせていた人。
死んでいった姐さん達のことを祈っていた。
女は大切にされないと、恨み節に堕ちて了うのだ、と――。
あの言葉は、ただの喩えではなかったのかもしれない。
「穢れを受け止める器に綻びが出れば零れる」
九郎助は炉の火を見た。
長く考えてきたことを、ようやく言葉の形にしたようだった。
炭火がほの赤く息づき、金の狐火がそれに応じるように揺れた。
「恨みを呑んだ者が、もはや人間でいられなくなる。――物の怪へ堕ちる者も増えるだろう」
珠璃の耳の奥で、あの黒い影の言葉が蘇った。
名を奪われたもの。
売られたもの。
恨みを呑んだもの。
まだ堕ちきらぬもの。
格子に張りついていた、あの指先の長く、数の合わない黒い手。
どこかで名を失い、願いを呑み下し、恨み節へ堕ちた――あれは、いつかの誰かだったのだ。
「では、あの物の怪は……」
「朱籬廓の綻びから出たものだろう。もしくは、呑もうと引き寄せられたもの」
九郎助が眉を寄せた。
忌まわしいものを見た記憶を思い返したからではない。
あれを一体の物の怪と呼んでしまえば、そこに詰まっていたものの多くを取り落とす。
そう判っている者の厳正な顔だった。
「あれには幾つもの顔が混じていた。恨みが重なり、名が解け、誰のものともつかぬ影になっていた」
珠璃は、思わず膝の上の簪を見た。
金具の先のびらびら飾りが、狐火の灯りを拾ってきらりと光る。
それは綺麗だった。
綺麗であるほど怖かった。
裏側にはたくさんの遊女の怨念を隠して。
「わたし……あの物の怪に、もうすぐ堕ちそうな者、と言われた……」
九郎助の金の眼が、珠璃へ向いた。
すぐには答えが返らなかった。
その間が、かえって怖かった。
九郎助は、慰めるために嘘を置く性質ではない。
否定するなら否定する。危ういなら、危ういと直截に言うだろう。
だから、金の眼が自分を見据えたまま黙っていることが、何より答えに近かった。
「だが、間に合ったんだ。……お前の和魂は荒魂に屈しなかった」
やがて九郎助は、そう言った。
切り捨てる言い方ではなかった。
「人間が堕ちたものが物の怪、妖の堕ちたものが妖怪だ。…… 妖怪の方が強大な力を揮うが、物の怪も堕ちかけた者を幾人も呑めば力を増す。……そのため囚われの身のお前を食うに易きと見て、取り込もうとしたのだ」
では九郎助は、食い止めるためにも契ってくれたのだろうか。
手首の狐火が、珠璃の脈に合わせるように金色を深く増している。
「紅扇が願い、お前が手を伸ばし、俺が見つけた。だから今はここにいる」
「……わたし、助かったの?」
「まだじゃ」
長く黙っていた葛葉が、間を置かずに言った。
こちらもまた、今、思いついた答えではない。
珠璃がこの里へ足を踏み入れてから、何が変わったのか。
結界に何が起き、穢れがどこへ流れ、物の怪どもがなぜ寄って来るのか。
葛葉もまた、九郎助とは別にずっと考えていたのだ。
「ここで終わりではない。朱籬廓が崩れれば、穢れは葭海を越えて来る。この里はすぐ傍じゃ。葦原の水際に、悪いものが絡まりやすくもなる」
珠璃は戸の外を見た。
庭の向こう、葦の群れが冬の陽に色を失っている。
朱籬廓から零れたものは、この水際へ届くのだ。
「この里にも、物の怪が」
「来る」
九郎助は短く答えた。
言い切るまでに、迷いはなかった。
迷う段は、もう過ぎているのだろう。
炉の火を見ている金の眼には、これから起こることがすでに映っているようだった。
「お前を目印にしてな」
珠璃は、膝の上で指を握った。
目印。
その一語が、皮膚の下へ冷たく沈む。
「だが、その前にあの朱籬廓では、お前のような半怪が殆どであろう。足止めはできているが、取り込む度に、あの物の怪は力を増していく」
廓にいた頃も、いつも誰かの目に晒されていた。
値踏みされ、呼ばれ、選ばれ、請出れた。
逃げて来たはずなのに、今度は人間ではないものにまで見つけられる。
「五行が揃わねば、闇の深いものは調伏できぬ」
葛葉が続けた。
童女の顔をしているのに、その言葉だけは古い社の石段のように冷えていた。
「今の兄さま一人では、焼けても祓い切れぬ」
「判っている」
九郎助の横顔が、灯りを受けて彫りの深い影をつくった。
判っていて、なお退かない顔だった。
火で焼けるものなら焼く。
爪で裂けるものなら裂く。
けれど、それでは届かぬ闇がある。
妖力の限りを、誰よりも、この人自身が知っている。
それでも珠璃を差し出す心算はない。
そう言われたわけではないのに、灯りの中の横顔から、それは判った。
「木は俺が受け持つ。金は白狐の葛葉だ。――だが、あと火、水、土が要る」
五行。
五つのお社。
珠璃の中で、紅扇姐さまと巡った社が一つずつ浮かぶ。
九郎助の木。
明石の火。
榎本吉徳の土。
開運の金。
弁才天の水。
「火は、赤猫お蘭という知り合いがいる」
九郎助には当てがあるようだ。
火。
その一字に、炉の炭が赤く息をした。
珠璃には、五行の理などまだ掴めない。
けれど、九郎助の口ぶりで判る。
これは妖どもが昔話のように語る力の名ではない。
これから妖も人間も本当に集めなければならない、命綱の数なのだ。
「土は、もう人間の土御門の一門のみじゃ。――妖すべてを統べる王は、係争により失われた」
葛葉が顎に指を添えた。
童女めいた仕草なのに、発言は重い。
土。
それは地面を指すのみではないのだろう。
中央に座し、四方を鎮め、散り散りになろうとするものを一つに留める、陸続きの大地の力。
その役目を負っていた妖の王が、もう居ないという。
「商才を持つ東宮妃を迎えて、千載一遇、このほど土御門一門の妖力は高まっておる。朱籬廓も都の一部なれば、なんとか筋はつく筈じゃ」
竈の前に立てば、薪をくべる加減が判らない。井戸端へ行けば、釣瓶の縄に手間取ってしまう。
畑へ行っても、霜の降りた畝や、土の締まり具合を見て、皆が何を言っているのか少しも見えない。
結局気後れして引き返し、九郎助稲荷の銀杏の木に凭れかかる。
そんなことばかりだった。
身過ぎ世過ぎもなく、この妖の里では我が身を活かせない。
団吾には、もともと珠璃に手伝わせる気などないらしい。
九郎助も葛葉も、何も言わない。
それがかえって、珠璃には堪えた。
役に立ちたい気持ちはある。
九郎助との契りが深まれば、木の気配も判るようになるのだという。
けれど今の珠璃には、まだ何一つ見えない。
役目も、力も、差し出せるものもない。
そう思った途端、自分の輪郭がひどく薄くなる気がした。
ただ居てよい、という感覚を、珠璃はまだ持てないでいた。
役に立つから置かれる。値があるから求められる。
そういう場所でしか、生き方を教えられてこなかった。
結局、今日は炉端に座っていた九郎助の隣に無言で腰を下ろして、小さな包みを広げた。
逃げる夜に懐へ押し込んだびらびら簪と、それから紅扇姐さまが格子越しに渡してくれた古い九郎助稲荷の木札だ。
簪は草庵にあってもまだ華やかだった。
金具の先に揺れる薄い飾りは、少し欠けても光を拾う。
簪の扱いなら、まだ判る。
歩くたび、どれほど揺らせば客の目を引けるか。
どの角度で挿せば、顔がより華やかに、目がより深く見えるか。
判るものは、皆、廓の中で仕込まれたものだ。
珠璃は、指先で角ばった古い木札を撫でた。
表には、薄れかけた墨で九郎助稲荷の名が残っている。
どうして、これを渡してくれたのだろう。
苦しい夜の底で、誰にも言わずに握り、願を掛けてきた木札だっただろうに。
それを、珠璃へ渡した。
よもや、もう願う心算がなくなったのか。
そう思うと、木札の薄さが急に頼りなく見えた。
見たこともない大門切手は、こんな形をしているとは聞いていた。
まさか薄暗がりに、その通行手形と空目させるためか。
否、検問がそれで済まされる訳はないだろう。
格子の内と外を分けるもの。
通ってよい者と、戻される者を分けるもの。
持つ者だけが、門の向こうへ行けるもの――。
今、珠璃は、九郎助から選択権を委ねられている。
姐さんも九郎助も、そうして珠璃に大切なものを差し出したのだ。
「のう、珠璃」
いつの間にか葛葉が外から戻り、戸口に立っていた。
小さな姫は、顔を上げて各瓶の狐火を見まわしているようだ。
見えぬものの匂いを嗅ぎ分ける狐のように鼻を上げている。
「人間の世に、生じる乱れを感じるぞ」
「大結界師が死んだ……から?」
「そういうことじゃ」
「里の外も結界がなくなったの?」
訊いた途端、珠璃は自分の言葉に寒気を覚えた。
それは、この里が見つかるという話きりではないということに今更気付いたからだ。
何か目に見えぬものを押し留めていた境の緩み。
「――そうだ。……薄れ切って、もうあらぬ」
葛葉が、すぐには答えられずにいた問いへ、返したのは九郎助だった。
朝のことで眠気に負けて、胡坐をかいたまま寝入っているのではないかと思ったほど、身じろぎ一つしていなかったのに。
「朱籬廓にも綻びが出る」
その名を聞いた途端、珠璃の指先が木札の角を押した。
「紅扇姐さま……」
「あそこは人間の欲と穢れを受け止める場所じゃ」
葛葉がこちらに来て、珠璃の向かいに腰を下ろした。
金の眼が、畳の上の簪へ止まった。
「華やかな色街などと呼んでおるが、あれは都に溜まる穢れを逃がす樋でもある。恨み、嫉み、病、妬み、金で流す欲。人間の世はそれらを綺麗な座敷へ押し込め、花と呼んで誤魔化しておる」
花。
何度も言われてきた言葉だ。
よい花になれ。高く咲け。紅籬楼の大輪になれ。
「そこを結界で囲って区切ることが、これまでは機能しておったが……」
そこでいったん、葛葉は話を切った。
続けるべきか、選ぶように目を伏せる。
珠璃の眼の裏に、紅扇姐さまの横顔が浮かぶ。
社の前で長く手を合わせていた人。
死んでいった姐さん達のことを祈っていた。
女は大切にされないと、恨み節に堕ちて了うのだ、と――。
あの言葉は、ただの喩えではなかったのかもしれない。
「穢れを受け止める器に綻びが出れば零れる」
九郎助は炉の火を見た。
長く考えてきたことを、ようやく言葉の形にしたようだった。
炭火がほの赤く息づき、金の狐火がそれに応じるように揺れた。
「恨みを呑んだ者が、もはや人間でいられなくなる。――物の怪へ堕ちる者も増えるだろう」
珠璃の耳の奥で、あの黒い影の言葉が蘇った。
名を奪われたもの。
売られたもの。
恨みを呑んだもの。
まだ堕ちきらぬもの。
格子に張りついていた、あの指先の長く、数の合わない黒い手。
どこかで名を失い、願いを呑み下し、恨み節へ堕ちた――あれは、いつかの誰かだったのだ。
「では、あの物の怪は……」
「朱籬廓の綻びから出たものだろう。もしくは、呑もうと引き寄せられたもの」
九郎助が眉を寄せた。
忌まわしいものを見た記憶を思い返したからではない。
あれを一体の物の怪と呼んでしまえば、そこに詰まっていたものの多くを取り落とす。
そう判っている者の厳正な顔だった。
「あれには幾つもの顔が混じていた。恨みが重なり、名が解け、誰のものともつかぬ影になっていた」
珠璃は、思わず膝の上の簪を見た。
金具の先のびらびら飾りが、狐火の灯りを拾ってきらりと光る。
それは綺麗だった。
綺麗であるほど怖かった。
裏側にはたくさんの遊女の怨念を隠して。
「わたし……あの物の怪に、もうすぐ堕ちそうな者、と言われた……」
九郎助の金の眼が、珠璃へ向いた。
すぐには答えが返らなかった。
その間が、かえって怖かった。
九郎助は、慰めるために嘘を置く性質ではない。
否定するなら否定する。危ういなら、危ういと直截に言うだろう。
だから、金の眼が自分を見据えたまま黙っていることが、何より答えに近かった。
「だが、間に合ったんだ。……お前の和魂は荒魂に屈しなかった」
やがて九郎助は、そう言った。
切り捨てる言い方ではなかった。
「人間が堕ちたものが物の怪、妖の堕ちたものが妖怪だ。…… 妖怪の方が強大な力を揮うが、物の怪も堕ちかけた者を幾人も呑めば力を増す。……そのため囚われの身のお前を食うに易きと見て、取り込もうとしたのだ」
では九郎助は、食い止めるためにも契ってくれたのだろうか。
手首の狐火が、珠璃の脈に合わせるように金色を深く増している。
「紅扇が願い、お前が手を伸ばし、俺が見つけた。だから今はここにいる」
「……わたし、助かったの?」
「まだじゃ」
長く黙っていた葛葉が、間を置かずに言った。
こちらもまた、今、思いついた答えではない。
珠璃がこの里へ足を踏み入れてから、何が変わったのか。
結界に何が起き、穢れがどこへ流れ、物の怪どもがなぜ寄って来るのか。
葛葉もまた、九郎助とは別にずっと考えていたのだ。
「ここで終わりではない。朱籬廓が崩れれば、穢れは葭海を越えて来る。この里はすぐ傍じゃ。葦原の水際に、悪いものが絡まりやすくもなる」
珠璃は戸の外を見た。
庭の向こう、葦の群れが冬の陽に色を失っている。
朱籬廓から零れたものは、この水際へ届くのだ。
「この里にも、物の怪が」
「来る」
九郎助は短く答えた。
言い切るまでに、迷いはなかった。
迷う段は、もう過ぎているのだろう。
炉の火を見ている金の眼には、これから起こることがすでに映っているようだった。
「お前を目印にしてな」
珠璃は、膝の上で指を握った。
目印。
その一語が、皮膚の下へ冷たく沈む。
「だが、その前にあの朱籬廓では、お前のような半怪が殆どであろう。足止めはできているが、取り込む度に、あの物の怪は力を増していく」
廓にいた頃も、いつも誰かの目に晒されていた。
値踏みされ、呼ばれ、選ばれ、請出れた。
逃げて来たはずなのに、今度は人間ではないものにまで見つけられる。
「五行が揃わねば、闇の深いものは調伏できぬ」
葛葉が続けた。
童女の顔をしているのに、その言葉だけは古い社の石段のように冷えていた。
「今の兄さま一人では、焼けても祓い切れぬ」
「判っている」
九郎助の横顔が、灯りを受けて彫りの深い影をつくった。
判っていて、なお退かない顔だった。
火で焼けるものなら焼く。
爪で裂けるものなら裂く。
けれど、それでは届かぬ闇がある。
妖力の限りを、誰よりも、この人自身が知っている。
それでも珠璃を差し出す心算はない。
そう言われたわけではないのに、灯りの中の横顔から、それは判った。
「木は俺が受け持つ。金は白狐の葛葉だ。――だが、あと火、水、土が要る」
五行。
五つのお社。
珠璃の中で、紅扇姐さまと巡った社が一つずつ浮かぶ。
九郎助の木。
明石の火。
榎本吉徳の土。
開運の金。
弁才天の水。
「火は、赤猫お蘭という知り合いがいる」
九郎助には当てがあるようだ。
火。
その一字に、炉の炭が赤く息をした。
珠璃には、五行の理などまだ掴めない。
けれど、九郎助の口ぶりで判る。
これは妖どもが昔話のように語る力の名ではない。
これから妖も人間も本当に集めなければならない、命綱の数なのだ。
「土は、もう人間の土御門の一門のみじゃ。――妖すべてを統べる王は、係争により失われた」
葛葉が顎に指を添えた。
童女めいた仕草なのに、発言は重い。
土。
それは地面を指すのみではないのだろう。
中央に座し、四方を鎮め、散り散りになろうとするものを一つに留める、陸続きの大地の力。
その役目を負っていた妖の王が、もう居ないという。
「商才を持つ東宮妃を迎えて、千載一遇、このほど土御門一門の妖力は高まっておる。朱籬廓も都の一部なれば、なんとか筋はつく筈じゃ」



