葛葉は軽く言う。
お前はよいのう。
兄さまと契りを深めれば深めるほど、寿命が妖狐に寄る。
兄さまも尾が増える。
いずれ九尾になれば、めでたいこと尽くしじゃ。
だが。
その先を、葛葉は言わなかった。
炉の炭を火箸でつつき、ぱちりと火の粉を散らしている。
いつものように、物知り気で得意気な横顔だった。
珠璃は、膝の上で指を組んだ。
「まだ大丈夫。葛葉は……、人間へ嫁ぐのでしょう」
「うむ」
「葛葉の寿命は短くならないし、お相手の旦那さまも延びないのですか」
「延びぬ」
葛葉は、考える間も置かなかった。
炉火の赤が、葛葉の金の瞳に映る。
「なら、相手の方が先に……」
「そうじゃな」
珠璃は言葉を失った。
自分は、先に老いることばかり怖がっていた。
九郎助だけが変わらぬまま、珠璃の顔や髪が先に年を取る。
色街で育ち、その惨めさを嘆く女ばかりを見て来た。それに、珠璃には、同じ時間を失って嘆く両親も友もない。売られた日から、親子の時はとうに分かたれていた。
けれど、葛葉は逆なのだ。
置いていかれるのではない。
置いていく。
否。
見送るのだ。
嫁いだ先で、人間の夫が老いていく。
病み、衰え、土へ返るその日まで、傍にいる。
それから後も、葛葉だけはこの幼年の姿のまま、誰とも違う時間を長く生きる。
兄の九郎助以外には、同じ時間を持つ者がいない。
その兄には、番である珠璃がいる。
独り占めなど、できる筈がない。
「怖くないの?」
「怖いに決まっておろう」
葛葉は笑った。
笑ったのに、その笑みは火の色に負けていた。
「じゃが、それを兄さまに言うと面倒なのじゃ。ならば婚姻をやめよ、と言われるに決まっておる。……里のためにも、人間の世との結びのためにも、必要なことじゃと判っておるくせにのう」
「九郎助さまは、お優しいと思う……」
「うむ。兄さまは律儀で、頑固で、つまらぬほど優しい。珠璃のことも、わしのことも、守るとなれば自分を後にする」
炉の向こうで障子が鳴り、珠璃は顔を上げた。
いつからそこにいたのか、九郎助が広縁に立っていた。
水浴びの後なのか、髪はまだ結ばれていない。
夜着の上に、珠璃に貸したのとはまた別の羽織を掛けた姿だ。
「葛葉」
「ほれ、来た。面倒な兄さまじゃ」
「蔭口言うからだ」
「蔭ではない。薄い障子一枚向こうじゃ」
葛葉は悪びれもせず、火箸を置いた。
「では、わしは部屋に戻る。兄さま、珠璃を怖がらせるでないぞ」
葛葉は羽織を引っかけ直し、すいと立ち上がった。
珠璃の横を通る時、小さな手で半肩を軽く叩く。
「案じ過ぎるでない。怖いものが二つある時は、片方ずつ怖がればよい」
そう言って、葛葉は障子の向こうへ消えた。
残された炉辺に、九郎助が入って来る。
珠璃は火を見たまま、手首の狐火を袖で隠した。
里の暮らしは安穏としている。
だが、閑却できない問題を抱えながらも、その安逸さに紛れて、ずっと先送りにしている許りなだけだ。
「もしかして、聞いてた?」
「少し」
「……」
「……悪かった」
九郎助は炉の向こうへ座った。
この妖は、素直に謝る性質のようだ。
近すぎない。
けれど、遠すぎもしない。
珠璃は少し、その距離を寂しく感じた。
「葛葉は、いつか旦那さまを見送るの?」
「ああ」
「それでも嫁ぐしかないの?」
「本人が、行くと言った」
九郎助は短く答えた。
「どうしても必要だと譲らなかった」
「怖い、と」
「……だろうな」
火が、九郎助の横顔を照らした。
「俺も、怖い」
「九郎助さまも?」
「葛葉が泣くことを知っている。止めても泣く。行かせても泣く。ならば、あいつが自分で選んだ涙を選ぶしかない」
自分で選んだ涙。
珠璃は九郎助から借りた羽織の前を掻き合わせた。
「わたしも、選べるの?」
「ああ、選べる」
「寿命のことも」
九郎助は葛葉の後を引き取って火の様子を見ている。
炭の赤みを見計らい、火箸で一つ奥へ寄せた。
珠璃は上にかかる鉄瓶の湯気を見た。
細く立つ白い筋が、そろそろ湯の頃合いだと教えている。
土瓶へ茶葉を入れ、鉄瓶の湯をゆっくり移す。
湯が落ちる音とともに、茶の香がふわりと立った。
廓で客の相手を務めるために覚えた手つきだった。
けれど今は、誰かに命じられたからではない。
珠璃は薄く出した茶を、九郎助の前へ置いた。
「お前が俺の気を受ければ寿命は変わる。……尾も、いずれ増えるかもしれぬ。それは事実だ。だが、お前に急げとは言えない。廓では随分つらい思いもしただろう」
「……でも、九尾になりたいよね?」
「なりたくないと言えば嘘になる」
殊勝な答えだった。
珠璃は顔を上げた。
「では、わたしでなくても?」
「もう番だ」
躊躇いのない声だった。
心臓が、一度強く打つ。
どうして、なのだろう。
「九尾のために必要なのではない。物の怪調伏には他にも手段が幾つかある」
「では、何のために」
九郎助は、そこで漸く珠璃を見た。
「俺が、お前の隣にいたい」
炉の炭が崩れた。
ぱち、と火の粉が小さく跳ねる。
珠璃は、自分のために淹れた茶碗へ目を落とした。
湯気の向こうで、茶の色が深く沈んでいる。
指先で茶碗を寄せ、一口含むと、熱が喉をゆっくり下りていった。
「紅扇は、長く願っていた」
その言葉は、茶の苦みを噛みしめるように響いた。
九郎助も珠璃の淹れた茶へ手を伸ばした。
茶碗を持ち上げ、一口含む。
それから、暫く炉の火を見ていた。
「九郎助稲荷の銀杏の下の社で、幾度も幾度も同じ名を置いていった。珠璃が、値でなく人間と情で結ばれるように。身体で結ばれても情は生まれるが、――それほどにお前の最善を願っていた」
珠璃は、袖の中の狐火にそっと触れた。
手首に絡む金の火は、縄ではなく、ただそこにいる灯りなのだ。
「姐さまが……」
「不可抗力に堕とされた者が、他人の幸せをなおも願う。紅扇の願いはとても美しかった」
息が詰まった。
紅扇姐さまは、そんなことは悟らせなかった。
厭味も言うし、突き放されることもあった。
それなのに、社の前では珠璃について願って来たという。
否、一度だけ、安く売られぬようにとだけ言ったことがあったか。
「俺はそれを聞いていた。どんな娘か、――そのうち自分の眼で見たくなった」
炉の火が小さく鳴った。
では、岡惚れなのだろうか。
否、姐さまからの願いを長く聞いていたと言っている。
珠璃は男女の睦ごとを聞きながら育ったのに、その胸中までは全く判らないのだった。
「それで……助けてくれたの」
「それだけではない」
九郎助は、思案するように少し言葉を切った。
「物の怪の現れた気配を追って、格子に囚われたお前を見た時、判った。……これが紅扇が願っていた娘だと。……紅扇が願ったのは、ただ命を逃がすことのみではない」
袖の内に、金の狐火が静かに揺れている。
まるで、そこにあることを許されるまで待っているように。
「お前が己自身の心で誰かを見ることそのものを、紅扇は願っていたのだと。……目の前のお前は生きた人間で、感情を持っていた」
心。感情。
その言葉が、珠璃には遠いもののように聞こえた。
「しかも、唯独りでも虚栄を見抜く、強く美しい娘だった。……共に過ごすうち、それが判った」
心……。
朱籬廓では、そんなものは後回しだった。
先に値があり、客があり、帳面があり、女の身体がある。
嫌かどうかなど、訊かれるものではない。
望むかどうかすら、自らに問う間もなかった。
「身体は奪える」
奪える力を持つ者の口から聞く覚悟だ。
九郎助の金の眼は欲ではなく、戒めの色を浮かべている。
「名も縛れる。匂いも、契りも、妖の理でも人間の婚姻の仕組みでも同じだ」
珠璃は手首の狐火を見下ろした。
金の火は、縄のようには締めつけない。
けれど、結ばれている。
「だが紅扇の願いの通り、俺はそれ以上を美しい珠璃から進んで与えられたい。それに足る我が身でありたい」
珠璃が、自分から差し出すものを待つ、と。
心で結ばれる覚悟ができるように。
「身は、後でよいのですか」
「お前が望むなら」
誰かに決められるのではなく、自分の眼で選べるように。
紅扇姐さまが社へ置いていった願い。
そうしたものが美しいと、九郎助は言ったのだ。
「望まなければ?」
「待つ」
「いつまで」
「お前が俺を信じられるまで」
信じられるまで。
それは、一夜の約束ではない。
明日まででも、次の満月まででもない。
九郎助のように長く生きるものが言う「待つ」は、珠璃の知る待つとは長さの違う覚悟を以って口にした約束だ――。
百年でも。
珠璃の一生でも。
命を落とした後も、独りで幼い頃の約束を守り続けているように。
ふいに、珠璃は思ってしまった。
この人の腕の内へ、背中からすっぽり包まれてみたい。
縛られるのではなく、閉じ込められるのでもなく。
ただ、逃げなくてよい場所として。
「……背中」
「なんだ?」
言葉が喉でつかえた。
こんな願いを口にしてよいのか、まだ判らない。
それでも、珠璃は続けた。
「背中から、温めて」
奪われるためではなく、守られるためなら触れてほしい。
「待つと言われると、わたしの方から近付きたくなる……」
言ってしまってから、やけに炉の爆ぜる音が耳についた。
ぱち、ぱち、と炭の内側で、――珠璃のうちでも、何かがちりちりと燃え立つ。
珠璃は、返答を待つ間も怖く、目を伏せた。
「……よいのか」
低く問われて、珠璃は頷いた。
九郎助はすぐには動かなかった。
「嫌になったら、すぐ言え」
九郎助は茶器を避けながら、炉端から少し離れたところへ腰を下ろし直した。
片膝を崩し、やがて胡坐をかいて、その内側を空ける。
珠璃はそこへ、おずおずと近付いた。
珠璃が腰を下ろすと、九郎助の腕が背中から回った。
抱き締めるのではない。
閉じ込めるのでもない。
寒さが入り込まぬよう、両側からそっと囲うような腕だった。
続いて、長いふさふさした尻尾も包みたいとでもいうように、くるんと前にまわって来る。
背を向けて座るのは、いつもひどく心許ない。
見えないところから、包まれるように触れられる。
だが、背後に在るのは九郎助だ。
むしろ味わったことのない、確かに守られている安心感がある。
硬い胸板が、背に触れている。
珠璃が思わず肩を押し付けると、九郎助の腕が、そこで止まった。
抱き寄せることも、離すこともせず、ただ珠璃の反応を窺っている。
「やめるか」
その一言に、かえって息が詰まった。
やめると言えば、九郎助は本当にやめるのだろう。
廓で、そんなふうに訊かれたことはなかった。
嫌か。怖いか。やめるか。そんな言葉は、珠璃のために用意されたものではなかった。
「……ううん」
自分の口から出た言葉に、珠璃のほうが驚いた。
九郎助の腕が、ほんの少しだけ力を取り戻す。
閉じ込める強さではない。
逃げようと思えば逃げられる、けれど離れれば夜に呑まれてしまいそうな、そんな距離だった。
草庵の外では、夜の虫が鳴いている。
珠璃の知らない名の木々が揺れ、知らない土が冷えていく。
九郎助は眠らなかった。
妖狐は夜のものだと、葛葉が言っていた。
その横顔は闇に慣れていて、珠璃のみが眠りに引かれていく。
背にある温もりを確かめるうち、いつの間にか目蓋が重くなった。
男の腕の中で眠るなど、怖くない筈がなかった。
だが、珠璃の身体からは少しずつ力が抜けていった。
小袖を握っていた指が解け、手首の狐火が覗く。
眠ってしまう。
そう思った時には、もう抗えなかった。



