夜、野良仕事に疲れているのに布団に入っても眠れなくなった。
珠璃は、目を閉じていた。
けれど眠りは訪れて来ない。
薄い掛け布団の下で、指先が落ち着かず、気になって何度も手首を撫でてしまう。
外では水音がしていた。
牡丹雪の降る真冬の夜である。
吐く息さえ白くなるような刻限に、九郎助と葛葉は裏庭の泉で身を清めているらしい。
先刻葛葉が、兄さまは土の気を浴びすぎたゆえ水で落とすのじゃ、と何でもないことのように言った。
水で、落とす。
真冬に。
外の泉で。
兄妹で。
どこから驚けばよいのかも判らなかった。
何もかもが違う。
朱籬では、女の身体は冷やすなと言われた。
客に見せる肌が荒れ、風邪を引けば見世へ出てもみっともないから。
けれどこの里では、冬の真水も、土の上を渡る夜風も、妖の身には毒ではないらしい。
人と妖は、本当に何もかも違う。
昼の柿の木が思い出された。
百年前に人間の子から頼まれた木。
百年も独り、忠実に守り続けている約束。
それを、九郎助は「まだ」と言った。
まだ百年。
その言い方が、布団の中まで追ってくる。
人間の一生なら、もう終わっている。
娘は女になり、女は老い、老いた者は土へ返る。
遊女なら、もっと早い。
若いうちに値が付けられ、盛りを過ぎれば客の目が変わる。
衣を替えても、髪を飾っても、隅へ追いやられる。
まして妖の男の隣では、その残酷さがもっとはっきりするのだ。
珠璃のみが老いる。
珠璃のみが、あっという間に枯れる。
九郎助は変わらぬ顔で、百年後も柿の木に藁を巻くのかもしれない。
その隣に、珠璃は居ない。
居たとしても、今の、男という男に血湧き肉躍らせるような姿では居られない。
若い間には傍へ置く。
美しい娘だから眺める。
飽きれば返す。
返す場所がなくなっていれば、忘れる。
男とはそういうものだと、珠璃はそう学んできた。
なのに、妖の掟では、もう番の契りを結んでいると言われたのだ。
騙された、と言い切れたならよかった。
けれど、たぶん違う。
九郎助たちは、珠璃を欺こうとしたのではない。
ただ、妖同士では言わずとも通じることを、珠璃は知らなかったことからの行き違いだ。
知らなかったのだから、自分には関わりのないことだと逃げることもできる。
人の娘である珠璃に、妖の理など通じない。
妖の里を出て、何食わぬ顔をして暮らしてしまえばいいのだ――物の怪のことは別とするなら。
それに番の座を占めたところで、九郎助たちにとっては短い春の一夜のようなものかもしれない。
思い返してみれば――
護符だと思って受けた印も。
名を呼ばれて返したことも。
里の木へ手をかけたことも。
後から一つずつ並べられると、まるで珠璃が自分で頷いてきたような形をしていた。
金狐と呼ばれる身でありながら、九郎助が司るのは陰陽五行でいう「木」の気であるらしい。
ならば、あの柿の木に触れたことも、ただ藁を巻いたきりでは済まなかったのだろう。
守る衣を着せた心算で、珠璃は九郎助の気の通うものへ、自分の手を重ねていたのだ。
そう思った瞬間、手首が熱を持った。
珠璃は息を止め、布団の中で左手首を握った。
そこには狐火の契りがある。
九郎助が結んだものだ。
物の怪に狙われぬように――という目的で、契りを交わした。
目には糸のようにしか見えないのに、夜になると仄かに灯っている。
寿命の長い妖には、ほんの瞬く間のことであり、軽はずみな気持ちなのだろうか。
だが、ふいに抱き上げられた時の硬い胸板を思い出してしまい、珠璃は顔の上まで布団を被った。
広縁の辺りで、足音が止まった。
戻って来たのは、先に水浴びを終えた葛葉らしかった。
濡れた髪の匂いと、冬の水気が障子越しに近付いてくる。
その気配が一度通り過ぎかけ、ふいに止まる。
「何じゃ? 起きておったか」
珠璃は布団の下で固まった。
「……寝てる」
「起きておる者の返事じゃな」
障子の向こうで、葛葉がくつくつと笑った気配がした。
この里の者たちは、夜目も利く。気配にも敏い。
まして狐耳は、布団を被る音まで拾うらしい。誤魔化せる筈もなかった。
「出てこい」
「今……!?」
「今じゃ。布団の中で考えごとをすると碌な方へ転がらぬ。炉辺へ来い。温かい火を点けてやろう」
「でも」
「待たぬ」
するりと障子が開いた。
葛葉は、寝間着の上に狐毛の羽織を掛けている。
昼間よりもいっそう幼く見えるのに、月明かりを受けた金の瞳は、珠璃よりずっと長い時を知っているようだった。
「人間の身は冷えるのであろう。ならば火に当たれ」
「……はい」
珠璃は布団から出た。
足を畳へ下ろすと、夜の冷えがすぐに染みる。
ここでも珠璃は足袋とは無縁の生活だ。
手首の狐火を袖で隠しながら、葛葉の後を追った。
居間には、炉に火が熾っていた。
炭が赤く燃え、灰の底で息をしている。
鉄瓶から細い湯気が立ち、ぱち、と小さく火が鳴った。
茶を淹れるには恰度よい頃合いだろう。傍らの茶碗にはまだ手の付いていない茶葉が残っている。
葛葉は炉の向こうへ座り、火箸で炭を寄せる。
「そなた、手首を握っておったな」
「見えたの?」
「見ずとも判る。兄さまの狐火が、そなたの不安に当てられて、ちりちり騒いでおった」
「騒ぐ……」
「うむ。番の契りは、糸ではあるが、ただの糸ではない。結ばれた者の気を表す。兄さまの狐火を通してわしにも解る」
葛葉は当然のように言い、火箸を炉の縁へ置いた。
珠璃は膝の上で、左手首を袖の中へ隠した。
「怖いのか」
いきなり問われ、珠璃は答えを失った。
怖い。けれど、その一言で済むものではなかった。
「……寿命のこと、なら」
「寿命?」
葛葉は首を傾げた。
「あぁ、人間は短いからのう」
余りにあっさり言われて、珠璃は、長く抱えた懊悩をいきなりぎゅっと掴まれたような気がした。
「そんな風に、簡単に……」
「簡単ではない。じゃが、事実じゃ。春の花と秋の虫、どちらが偉いという話でもあるまい。ただ、持つ時が違う」
「わたしは花でも虫でもない……」
「判っておる。兄さまの番じゃ」
「でも、まだ番でもない」
「では、番の手前じゃ」
葛葉は譲らない。
珠璃は袖の端を握った。
「わたしが先に老いたら、どうなるの……」
言ってしまった。
口にすると、思っていたより本当に惨めだ。
若さに値を付けられる因習の軛から逃げて来たのに、また同じことを恐れている。
九郎助の隣に立つ自分の顔が、年々変わっていくところを想像してしまう。
葛葉は、長い睫毛をぱちぱちと瞬いた。
「そなたは、兄さまが老いたそなたを捨てると思うておるのか」
「男は、若い女が好きだから」
「人間の男は知らぬ。兄さまは、木を司る狐じゃぞ」
「……そんな気はしてた」
「芽のみを愛でるに非ず、花も、実も、幹も、根も見る。丸ごと愛でるのじゃ。……枯れた枝も、すぐには捨てぬ。なぜ枯れたかを見、残すべきか、払うべきか、次の芽へどう渡すかを考える」
珠璃は、何も言い返せなかった。
葛葉は小さな手を伸ばし、炉越しに珠璃の左手首を指さした。
「それに寿命など、兄さまの気を受ければよいだけじゃ」
「だけ、とは」
「だけはだけじゃ。番となり、房事を通し、身の内へ気を通じ合えば、人間は多少、妖に寄る。病にも冷えにも強くなる。時の流れも緩む」
珠璃の指が止まった。
また別の怖さが顔を覗かせた。
それは――、九郎助が握れるものの多さだ。
気も、契りも、寿命も。
珠璃の知らないところで、珠璃の身体に関わるものが動いていく。
珠璃が名を知らぬものまで、九郎助は知っている。
珠璃が仕組みを知らぬものまで、九郎助は扱える。
ならば、それを預けてよい相手なのだろうか。
契りとは、ただ肉体的に結ばれることではなく、本当はそうしたものなのかもしれない。
身も、気も、命の行く末さえ、少しずつ相手へ預けること――。
「それは、九郎助さまが決めることになるの……?」
「ん?」
「気を与えるかどうかを。わたしが若い間は多少は与えて、気に入らなくなれば止めることも……」
葛葉の目が丸くなった。
それから、心底思いもよらなかったというような顔をした。
「そなた、兄さまを何だと思っておるのじゃ」
「……妖狐かと」
「彼奴は、律儀すぎて面倒な妖狐じゃ。己の番に気を惜しむくらいなら、あの兄さまは先に自分の尾を噛む」
尾を噛む。また、独特な表現だ。
珠璃は思わず、火の向こうの葛葉を見た。
「それほどのことじゃ。番に気を通すとは、相手に自分を与えることに近い。房中の法、とも言うがの」
「……」
「陰の気と陽の気とを合わせ、互いの巡りを預け合うことじゃ。そなたは兄さまの糧になる」
「糧……」
葛葉は、きっぱりと言った。
ああ、やはり何かを預け合うことなのだ。
「うむ。金狐は長く修めれば尾を増す」
まるで難しいことではないと言うように。
珠璃の戸惑いなど、少しも勘定に入っていない。
「兄さまほどの器なら、いずれ九尾に至ろう。千年を経れば、やがて天狐にも至る」
葛葉は、そこで珠璃を見た。
「そなたがその巡りへ入れば、兄さまの情欲は満たされる。尾の増す時も、なお早まるやもしれぬ」
種の蒔き時でも語るような口ぶりだった。
炉の赤が、幼い横顔を照らしている。
珠璃は膝の上で袖口を握りしめる。
確かに九郎助と葛葉にとっては何でもない、生まれたときから背負う宿命なのだろう。
九郎助から気を受けると、珠璃もまた九郎助へ何かを預けて渡す。
――身の内にあるものを。
名も知らぬ、けれど女であることと切り離せない何かを。
「それは……わたしが、九郎助さまを九尾にすると?」
「一人で成すのではない。互いに成すのじゃ」
珠璃は顔を伏せた。
そんなことを言われると、怖さより先に顔に熱が上がってしまう。
「でも、気を受けるというのは……その」
「房のことか?」
「……」
「なぜじゃ。番の話であろう」
葛葉は本当に悪びれない。
珠璃は両袖で手首を隠し、火の赤を見つめた。
「まだ、そういう話は……」
「まだ、のう」
葛葉はにやりと笑った。
「兄さまと同じことを言うようになった」
「同じこと?」
「そなたも兄さまも、まだ、まだ、と門の前で足踏みしておる。ならばそれでよい。門前でも、手を取り合うことはできる」
「……」
「気を受けるのも、いきなり深く交わるばかりではない。手首の狐火に息を通す。掌を重ねる。木の気を共に浴びる。そうして少しずつ、そなたの身が兄さまの気を怖がらなくなる」
珠璃は左手首に触れた。
狐火はまだ熱い。
けれど、先ほどよりも荒れていなかった。
「さあ、火に当たったなら戻るがよい。人間の身には、冬の夜は冷える」
「はい」
「今夜のことは黙っておいてやる。門前嫁は眠るがよい」
「門前嫁、だなんて」
「では、狐火つきの仮嫁じゃ」



