その日、珠璃は畑の端で立ち尽くしていた。
何を、どこから、どう手伝えばよいのか、皆目判らない。
動いていないので九郎助に借りた金巾を羽織っているものの、珠璃の露わな足は寒さに赤くなっている。
黒い土に、畝が並んでいた。
枯れた草の切れ端がところどころに刺さっているが、何も咲いていない、何も実っていない。綺麗でもないものだ。
だが妖狐の里の手伝いの者たちは、朝からせっせと働いていた。
狐は本来、夜のものだと聞く。
昼の光の下では、皆どこか眠たげで、眩しそうに目を細めており、尻尾の先も、いつもより少し重そうだ。
遊女を狐に喩えるのは、夜に生きるからだという。
ふいに、皆で興じた狐拳や花札を思い出した。
負けた者が帯を解かれ、くるくる回され笑われ、酒を飲まされることもあった。
珠璃は生来の気の強さに計算の速さもあり、勝負事は大概負け知らずだった。
――珠璃に馴染み深いのは、そういうものばかりだった。
里の者はこうして一声掛かれば、眠い目を擦りながら互いの畑を手伝って回るものらしい。
普段は草庵周りの雑事をこなす団吾さえも、今日は陽の下に借り出されている。
葛葉は袖をたすき掛けにして、籠いっぱいの種袋を抱え、何やら整頓している。
他の者たちも、土を返す者、堆肥を運ぶ者、霜除けの覆いを掛ける者と、皆、当たり前のように手際がよい。
「そこの藁は柿ではなく梅へ回すのじゃ。柿は兄さまが見るゆえ、手を出すでないぞ。誤って畑を踏むなよ。五穀の種は眠っておるのじゃ。そこは、水をやり過ぎじゃ。寝ている子の布団を水びたしにする阿呆があるか」
幼い外見に如何にも偉そうな態度だが、誰も笑わない。
みな、はいはいと返事をしてきびきびと作業をこなしている。
「冬なのに、畑の世話をするの」
珠璃が思わず言うと、葛葉が振り向いた。
「何じゃ、お前も暇なら手伝え」
葛葉は種袋を一つ、珠璃の前に差し出した。
口を麻紐で結ばれた、薄茶の袋だった。
墨で何か書かれていたが、土の名なのか、穀の名なのか、珠璃にはすぐ読めなかった。
「これは粟じゃ」
「粟」
「食べたことはあるであろう」
「……多分」
「多分とは何じゃ。地続きに食ったものも分からぬのか」
「廓では、何を食べたかより、誰の膳へ上がったものかの方が……」
言いかけて、珠璃は自分で嫌になった。
もう、全く縁のない場所なのだ。
――紅扇姐さんを除けば。
葛葉は少し黙って様子を窺って来ている。
それから、種袋を更に珠璃の手に乗せた。
「ならば、今日から覚えるのじゃ。これは粟。こちらは黍。向こうの蔵にあるのが稲。麦と豆は兄さまが分けたものがあそこじゃ。五穀は腹を満たし、里を整え、妖力を養うものじゃ」
「……息を」
「木、火、土、金、水。巡りを欠けば、妖も土地も荒れる。五穀はその巡りを妖にも人間にも等しく分ける。ゆえに冬でも手を抜かぬ」
珠璃は種袋を見下ろした。
小さく、軽い。
こんなものが里を整え、妖力を養う。
「あーもう。兄さまのところへ行こうぞ。冬の木を見せてもらうがよい。そなたは不器用そうじゃからのう。あれが一番よかろう」
花魁候補として叩き込まれた、書道、華道、茶道、琴に三味線。
果ては男相手の、囲碁、将棋。――そしてまだ聞きかじりの房中術の手練手管だ。
そうした知識はどれもこれも、この里には無縁のもので、ならば不器用と言われても仕方がないのだった。
「兄さま」
葛葉が声を張ると、九郎助がこちらに来た。
「珠璃に木の衣を見せるのじゃ」
「構わぬが……」
「この娘は畑を知らぬ。だが衣なら分かる。ならば藁巻きは衣で教えればよい」
「成程」
九郎助は納得したように頷いた。
珠璃は少し恥ずかしくなった。
珠璃は種袋置いて、柿の木へ近付いた。
葉は一枚もない。枝は黒く、空に細い筋を引いている。
美しいかと言われたら、よく判らない。
花も実もない木を褒める言葉を、珠璃は持ち合わせていなかった。
「……寒そう」
やっと出たのは、それきりだった。
いつの間にか後ろに追いついていた九郎助は、だがむしろ真剣な顔になる。
「だから着せるのだ」
九郎助は藁を持ち上げた。
「冬の木は裸に見えるが、死んでいるのとは違う。根は土の中で息をしている。枝の先では春の支度をしている。だが霜にやられることもある。幹を冷やしすぎることもある。そのため藁を巻く」
「人に綿入れを着せるようなもの?」
「近い」
「それなら判る」
珠璃は、ようやく肯首した。
九郎助は藁を幹へ当てる。
「巻いてみるか」
「わたしが?」
「お前のほうが衣は判るのだろう」
言われて、珠璃は素直に藁を受け取る。
藁はざらざらして指に引っかかった。
綺麗なものでもないが、束ねると不思議に頼もしい厚みがあった。
確かに温かい空気の層を抱え込むものらしい。
「どこから巻けば……」
「下から。腹を冷やさぬように」
「木にも腹が?」
「あると思って扱えばよい」
思って扱う。
帯も衣も、締めすぎれば苦しく、緩ければ乱れる。
けれど木は、苦しいとも乱れるとも言わない。
「思って、と」
「最初はそれでよい」
珠璃は幹へ手をやった。木の肌が冷たい。
藁を、帯を胴に回すようにして当てた。
「締めすぎ?」
「少し」
「木が言ったの?」
「俺が見た」
そう言って、九郎助は大股に一歩近付いた。
珠璃の肩越しに手を伸ばし、幹へ掌を衝く。
掌と掌が隣同士、僅かに触れ合った。
珠璃の前には柿の木、背には九郎助の気配。
借り物の小袖は丈が足りず、珠璃が幹へ身を寄せた拍子に裾がつれた。
冬気が、ひやりと白い太腿の内へ触れる。
しまったと思うより早く、すぐ背後の気配が止まった。
露わになった脚先へ、ふわりと狐の尾が寄る。
金を溶かしたような毛並みが掠めて、九郎助の尾はそこで固まった。
「……動くな」
「わたし?」
「尾が驚く」
そんなことを言われても、困る。
珠璃の方こそ、背中の近さと掌の熱に驚いているのだ。
九郎助は木を探っているようだ。
判るのに、耳の傍を過ぎる息の温かさに、指が藁を握ったまま止まる。
「……!? ずるい……」
「そのうち見える」
「どうすれば」
「俺の気を、お前の身が受けるようになればな」
受ける。
その言い方が、なぜか肌の奥へ落ちた。
木の話の筈だった。
珠璃は返事を探せず、ただ斜め上へ視線を逃がした。
すぐ傍の九郎助の眼は、そのとき不思議な色をしていた。
いつもの金に浮かぶ瞳孔が冬の枝よりも細くなり、流れるものを追っているように揺れている。
幹に添えた珠璃の手に添えられた、九郎助の手に熱が籠ったように感じられた。
珠璃は慌てて力を抜いた。
すると藁が少し浮き、今度は頼りなくなる。
「……この木は、大切な木なの?」
何気なく聞いた心算だった。
すると、九郎助も、何気なく答えた。
「ああ。百年前に人間の子から頼まれた」
百年前。
珠璃の手から藁が滑りかけた。
謝りながら、珠璃は九郎助を見た。
「百年前……」
「そうだ」
九郎助の顔に、特別な気負いはなかった。
昨日の夕餉の話でもするようだった。
「この里に迷い込んだ子がいた。病がちで長く歩けぬ子だったが、共に遊んだ子ども時代の思い出だ」
その顔には、古い宝物を取り出すような懐かしさがあった。
けれど底には、もう手の届かぬものを見送った者の翳りも混じっている。
「秋にこの柿を食わせたら、旨いと言ってくれてな。……それから毎年、境の石まで来るようになった」
「毎年……」
「十年ほど続いた。最後の年は、もう自分では歩けなかったらしい。兄に背負われて来た」
先ほどまでの穏やかな懐かしさが消え、目元が伏せられた。
遠いところに置き去りにした何か淡いものを、今も探しているというような、少し夢みる表情だ。
珠璃は、とうとう藁を取り落としてしまった。
十年。
苦界十年という言葉が、ふと浮かぶ。
廓での十年は長い。
娘が娘でなくなり、値が変わり、客の目が変わるには十分過ぎる時間だ。
けれど九郎助にとっては、百年前の、十年間なのだ。
「その子が言った。自分はもう来られないが、この木が実るなら、来年も秋が来る気がすると」
「それで、守っているの?」
「頼まれたからな」
「百年も?」
「まだ百年だ」
まだ。
人間なら、寿命が尽きるのに十分な時間だ。
子どもだった者は老い、老いた者は土へ返り、その名を呼ぶ者も減っていく。
けれど九郎助は変わらず、この柿の木に藁を巻く。
であれば、珠璃は――。
この人の傍にいても、先に老いるのは自分ではないか。
朱籬廓で一等怖れられていたものが、違う形で顔を出した。
若さが過ぎること。見られなくなること。選ばれなくなること。
衣をどれほど整えても、男の目が若い娘へ移ること。
九郎助も、いつかそうなるのだろうか。
――もしも、九郎助とずっと共にあることを選ぶのであれば。
九郎助は百年後も今のままで、珠璃のみが変わるのだろうか。
「珠璃」
九郎助が呼んだ。
今は返事をしたくなかった。
けれど、黙るほうが不自然だった。
「はい」
「手が止まっている」
「あ……」
足元の藁を拾う。
「済みません」
「謝らずともよい」
「でも」
「考えごとをする時は、手が止まるものだ」
見抜かれている。
珠璃は目を伏せた。
問いかけたいことはあった。
百年は長くないのか。
人間が老いるのは、あなたにとってどう見えるのか。
若くなくなった女も、柿の木のように守る価値があるのか。
――けれど、どれも口にすると惨めだった。
心変わりを責めたとて、心が戻ることはないのだ。
妻問いの夜を重ね、やがて通って来なくなった男をそれでも待ち続けた女なら、みな知っている道理だ。
その足音を待ち、几帳の陰で夜を数え、恨み、泣き、なお待つ。
そうした女たちが、千年も前から骨身に刻んできた道理だった。
「この木を頼んだ子は、もう居ない。だが、あの子の秋はここに残っている。短いものは、消えるのが早いのではない。残し方が違うのだ」
すぐには信じられなかった。
信じられないまま、聞いていた。
「お前が今日、この木に藁を巻いたことも残る。春に芽が出る時、夏に葉が茂る時、秋に実がつく時、この木は今日の冬を使う」
「わたしが巻いたものでも?」
「そうだ」
「下手なのに」
「下手なら、俺が直す」
その余りに平然とした答えに、珠璃は今度こそ少し笑った。
「それでは、わたしがしたことにならない」
「なる。直されながら覚えたことも、その者の手柄じゃ」
横合いから、満足そうな息が聞こえた。
様子を見に来た葛葉が、どうやら今のやり取りを聞き齧っていたらしい。
小さな姫は、腕を組んでうんうんと頷いた。
「そうじゃ。兄さまは良いことを申した。さすが番じゃ」
藁を結ぶ珠璃の指が、再度ぴたりと止まった。
番。
聞き間違いではない。
男女、夫婦よりももっと獣めいた、逃げ場のない結びつきの名だった。
「……つがい?」
思わず聞き返すと、葛葉はきょとんとした。
「そうじゃ。契りを結んだろう」



