深朱は紅籬楼へ戻り、包みを差し出した。
紅扇姐さまは礼も言わず、先ず深朱の顔を見た。
「余計なことを覚えて来た顔だね。そういう子ほど、長くここに残るだんす」
深朱は返す言葉がなかった。
長く残る。
それは褒め言葉ではない。呪いにも似ていた。
その夜、紅扇姐さまは、本来なら深朱などに構っている暇はなかった。
夜見世の支度は終わっている。
鏡の前には、紅の皿と櫛と、畳んだ文が置かれていた。
客へ返す文は、まだ残っている。
明日の座敷に掛ける打掛も選ばねばならない。
遣り手婆に呼ばれれば、すぐ立つ身でもあった。
忙しないものに囲まれているのに、灯りの下で、紅扇姐さまの横顔のみが涼しい。
その人が、ふいと立ち上がった。
どこからか、冷やし飴の入った硝子の杯を持って来る。
幼い深朱の手に、黙って渡した。
冷えた杯が、掌に触れる。
甘い匂いが、ひと筋だけ澄んでいた。
「そこにお座りんす」
鏡台の前を指され、深朱は言われるままに腰を下ろした。
「髪が乱れておりんす」
紅扇姐さまは背後へ回り、櫛を取った。
結い残した髪の先から、ゆっくりと梳いていく。
深朱は両手で硝子の杯を持ち、一口含んだ。
冷やし飴の甘さが、口いっぱいに広がる。
紅扇姐さまは、紅籬楼でただ一人の座敷持昼三だった。
名こそ昼三でも、昼きりで済む身ではない。
この中見世で唯一、花魁と呼ばれる高位遊女である。
その姐やが、髪結へ命じるのではない。
夜の座敷へ茶を運る禿の髪を、手ずから直している。
それ丈で、見世の者には意味が通じた。
この子は、紅扇付きの禿になる。
いずれ振袖新造となり、紅扇の後に続く。
紅籬楼の次の花として、仕立てられる。
髪を強く引かれて少し痛かったが、深朱は動かなかった。
髪油は使わない。
横兵庫でこそない。
それでも一通り結い終えると、紅扇姐さまは簪を一本、深朱の髪に当てた。
灯に、飾りの先が僅かに光る。
けれど、すぐに外された。
「桃栗三年、柿八年。あんたには、まだ早いだんす」
それは叱責ではなかった。
芸を覚え、所作を磨き、いつか深朱の髪にも挿す日が来る。
紅扇姐さまは、そんな先のことを見ているようだった。
「座敷に煙草盆をやったら、もう寝るだんす」
それ丈言って、簪は箱へ戻された。
深朱は鏡の中の自分を見る。
髪を整えられただけで、知らない娘のように見えた。
この廓では、綺麗にされることが身を堕とし切らないことに繋がる。
優等の総牡丹になることが、死と隣り合わせの貧しさから、一等遠ざかる道となっている。
怖い。
けれど、少し嬉しい。
そして嬉しいと思うよう、既に躾けられて了ったことが、また少し怖かった。
紅扇姐さまは礼も言わず、先ず深朱の顔を見た。
「余計なことを覚えて来た顔だね。そういう子ほど、長くここに残るだんす」
深朱は返す言葉がなかった。
長く残る。
それは褒め言葉ではない。呪いにも似ていた。
その夜、紅扇姐さまは、本来なら深朱などに構っている暇はなかった。
夜見世の支度は終わっている。
鏡の前には、紅の皿と櫛と、畳んだ文が置かれていた。
客へ返す文は、まだ残っている。
明日の座敷に掛ける打掛も選ばねばならない。
遣り手婆に呼ばれれば、すぐ立つ身でもあった。
忙しないものに囲まれているのに、灯りの下で、紅扇姐さまの横顔のみが涼しい。
その人が、ふいと立ち上がった。
どこからか、冷やし飴の入った硝子の杯を持って来る。
幼い深朱の手に、黙って渡した。
冷えた杯が、掌に触れる。
甘い匂いが、ひと筋だけ澄んでいた。
「そこにお座りんす」
鏡台の前を指され、深朱は言われるままに腰を下ろした。
「髪が乱れておりんす」
紅扇姐さまは背後へ回り、櫛を取った。
結い残した髪の先から、ゆっくりと梳いていく。
深朱は両手で硝子の杯を持ち、一口含んだ。
冷やし飴の甘さが、口いっぱいに広がる。
紅扇姐さまは、紅籬楼でただ一人の座敷持昼三だった。
名こそ昼三でも、昼きりで済む身ではない。
この中見世で唯一、花魁と呼ばれる高位遊女である。
その姐やが、髪結へ命じるのではない。
夜の座敷へ茶を運る禿の髪を、手ずから直している。
それ丈で、見世の者には意味が通じた。
この子は、紅扇付きの禿になる。
いずれ振袖新造となり、紅扇の後に続く。
紅籬楼の次の花として、仕立てられる。
髪を強く引かれて少し痛かったが、深朱は動かなかった。
髪油は使わない。
横兵庫でこそない。
それでも一通り結い終えると、紅扇姐さまは簪を一本、深朱の髪に当てた。
灯に、飾りの先が僅かに光る。
けれど、すぐに外された。
「桃栗三年、柿八年。あんたには、まだ早いだんす」
それは叱責ではなかった。
芸を覚え、所作を磨き、いつか深朱の髪にも挿す日が来る。
紅扇姐さまは、そんな先のことを見ているようだった。
「座敷に煙草盆をやったら、もう寝るだんす」
それ丈言って、簪は箱へ戻された。
深朱は鏡の中の自分を見る。
髪を整えられただけで、知らない娘のように見えた。
この廓では、綺麗にされることが身を堕とし切らないことに繋がる。
優等の総牡丹になることが、死と隣り合わせの貧しさから、一等遠ざかる道となっている。
怖い。
けれど、少し嬉しい。
そして嬉しいと思うよう、既に躾けられて了ったことが、また少し怖かった。



