「……手を」
草庵に戻って来た九郎助に言われ、珠璃は一瞬身を強張らせた。
けれど九郎助は、それ以上近付かない。
ただ、掌を上にして待っている。
「身体へ触れる契りではない」
「……」
「嫌なら、今ここで断れ」
「……」
「飯の対価でもないぞ」
断ってよい。
その一言で、珠璃は余計に息が苦しくなった。
断ってよい契りなど、今まで一度もなかった。
九郎助の指先から解けた金の狐火が、そろりと手首を撫でてきた。
細い糸のように伸び、珠璃の手首へ絡んで輪を形作り始める。
火は熱くなく、縛るのでもなく、ただ結ぶのだと何故かしら判った。
「これで、そなたには俺の名が係る」
名が係る。
それは帳面に書きつけられることとは、どう違うのだろうか。
「里にも、野狐にも、物の怪にも係累だと判る」
九郎助は、そこで言葉を切り上げ、やや言いにくそうになった。
いつもはまっすぐぴんと立った狐耳が、やや従容として伏せられている。
「妖の言葉で言えば、眷属になった、ということだが……」
その先が、珠璃の中で勝手に形を取った。
眷属。
つまり、この人のものになったということなのだろうか。
金で縛られるのと、妖の狐火で結ばれるのと、何が違うのだろう。
朱籬廓では、身体と時間とて自分のものではなかったので、ますます判らない。
あの朱籬廓の、飯も打掛も快楽も一級品だが、真綿で包まれながら息を奪われていくような追い詰められ方とは、まるで違っていると判るだけだ。
珠璃は、手首に絡んだ金の火を見た。
火は熱くない。 締め付けてもいない。
消えてしまいそうな細さながら、確かにそこにある。
不思議と、奴隷になったような心地はない。
誰かの持ち物になったというより、どんな暗闇の中でも見失われぬよう、目印を結ばれたように思えた。
「……怖いか」
じっと手首の狐火を瞶める珠璃に、九郎助が訊いた。
珠璃はかぶりを振った。
九郎助が怖いのではなかった。
人ならざる妖狐の長が膝をつき、いつの間にか珠璃より低いところから見上げていた。
「俺は、お前を縛らぬ」
金の眼が、まっすぐ珠璃を捉える。
朱籬廓では、珠璃は、この眼ばかり褒められてきた。
値になる眼、客を惑わせる眼、と。
けれど九郎助の金の眼を前にすると、そんな言葉はたちまち色褪せてしまう。
人ならざる妖艶。
夜そのものが、獣耳の人間の形を取ってこちらを見ているようだった。
「俺は、お前に許されるまで、その身体を求めぬ」
――どういうことだろうか。
九郎助は、珠璃の身体が欲しいのだろうか。
「どれほど、お前の身体からいい匂いがしようとも」
珠璃は息の仕方を忘れた。
人間の男なら、見た目を褒める。衣を、髪を、肌を、値踏みする。
けれど九郎助は、もっと内側へ鼻先を寄せるようなことを言う。
あの野狐のように、柔らかい肉を喰らいたいということだろうか。
怖いほど、突然奪われそうな言葉なのに、値踏みされた時のような冷たさがない。
九郎助の手は伸びてこない。
金色の狐火が、手首で淡く細く揺れている。
触れられているのに、触れられてはいない。
不思議なほど、その境は守られていた。
「……許される、とは」
「お前が自分から望む時だ。もう百年ほども待った。今更だ」
それきり九郎助は、珠璃の狐火の尻尾を指先でそっと整えた。
百年も、何を待っていたのだろう。
どうして、わたしなのだろう。
判らない。
判らないのに、手首へ結ばれた金の狐火は、少しも厭ではなかった。
熱が移るわけでもないのに、ひどく大切そうに触れられている気がした。
「兄さま。珠璃との契りが済んだなら、次じゃ」
九郎助は珠璃の手首から指を離した。
「里に狐火を置く」
「大結界ほどにはならぬが、無いよりましじゃ。人間の目も、野狐の鼻も、物の怪の手も、幾らかは迷わせられる」
葛葉は当然のように言って、硝子壺を一つ、九郎助へ放った。
受け取った九郎助の掌で、青い狐火が金に返る。
「珠璃も来るか」
「兄さま」
「俺の後ろだ。結んだばかりの縁を、里へ馴染ませる」
葛葉は不満そうに眉を寄せたが、反対はしなかった。
三人は庭へ出た。
午前に霧はまだ薄く残り、濡れた土の匂いがする。
見えなかった筈の遠い人道が、葦原の向こうに細く白んでいた。
その道の方へ向けて、葛葉が狐火の壺を掲げる。
「まずは東。木の端」
「次に南、火の口」
「西は金の蔵。北は水門。中央は草庵」
二人のやり取りに無駄はなかった。
九郎助が火を放つと、金の玉が地を走り、屋敷の軒、井戸の縁、木戸の柱、葦の橋のたもとへ次々と宿っていく。
置かれた狐火は、見えぬ獣が丸くうずくまったように、じっとその場を抱く。
珠璃は九郎助の後ろを歩いた。
狐火が一つ置かれるたび、手首の火も小さく応じる。
結ばれた糸が、里のあちらこちらへ伸びていくようだった。
この場所の東西南北に、少しずつ縁が濃く張られ出している。
葛葉は井戸の石組みと、傍らに立つ榎の根元との間を手で示した。
濡れた土の上には、狐火を置いたばかりの金の筋が、薄く輪を描いている。
「珠璃。そこへ立て」
「はい」
「そなたが目印じゃ」
珠璃は言われた場所へ立った。
九郎助が手首の狐火へ指をかざす。
「痛ければ言え」
「……はい」
狐火の尾がほどけ、細い金の筋となって地へ落ちた。
土の上を這い、井戸の石へ触れ、そこでふわりと立ち上がる。
次の瞬間、井戸の周りに淡い火の輪ができた。
「上出来じゃ」
葛葉が満足そうに頷く。
九郎助は珠璃を見た。
「怖くないか」
「……少し」
正直に答えると、九郎助の金の眼がやや緩んだ。
「少しならよい。怖れろ。騒げ。何も怖がらぬ者は、すぐ喰われてしまう」
そう言って、九郎助は最後の狐火を草庵へ放った。
金の火が屋根を走り、里全体を薄い輪で包む。
珠璃の手首の狐火が里と同じ色で揺れていた。
草庵に戻って来た九郎助に言われ、珠璃は一瞬身を強張らせた。
けれど九郎助は、それ以上近付かない。
ただ、掌を上にして待っている。
「身体へ触れる契りではない」
「……」
「嫌なら、今ここで断れ」
「……」
「飯の対価でもないぞ」
断ってよい。
その一言で、珠璃は余計に息が苦しくなった。
断ってよい契りなど、今まで一度もなかった。
九郎助の指先から解けた金の狐火が、そろりと手首を撫でてきた。
細い糸のように伸び、珠璃の手首へ絡んで輪を形作り始める。
火は熱くなく、縛るのでもなく、ただ結ぶのだと何故かしら判った。
「これで、そなたには俺の名が係る」
名が係る。
それは帳面に書きつけられることとは、どう違うのだろうか。
「里にも、野狐にも、物の怪にも係累だと判る」
九郎助は、そこで言葉を切り上げ、やや言いにくそうになった。
いつもはまっすぐぴんと立った狐耳が、やや従容として伏せられている。
「妖の言葉で言えば、眷属になった、ということだが……」
その先が、珠璃の中で勝手に形を取った。
眷属。
つまり、この人のものになったということなのだろうか。
金で縛られるのと、妖の狐火で結ばれるのと、何が違うのだろう。
朱籬廓では、身体と時間とて自分のものではなかったので、ますます判らない。
あの朱籬廓の、飯も打掛も快楽も一級品だが、真綿で包まれながら息を奪われていくような追い詰められ方とは、まるで違っていると判るだけだ。
珠璃は、手首に絡んだ金の火を見た。
火は熱くない。 締め付けてもいない。
消えてしまいそうな細さながら、確かにそこにある。
不思議と、奴隷になったような心地はない。
誰かの持ち物になったというより、どんな暗闇の中でも見失われぬよう、目印を結ばれたように思えた。
「……怖いか」
じっと手首の狐火を瞶める珠璃に、九郎助が訊いた。
珠璃はかぶりを振った。
九郎助が怖いのではなかった。
人ならざる妖狐の長が膝をつき、いつの間にか珠璃より低いところから見上げていた。
「俺は、お前を縛らぬ」
金の眼が、まっすぐ珠璃を捉える。
朱籬廓では、珠璃は、この眼ばかり褒められてきた。
値になる眼、客を惑わせる眼、と。
けれど九郎助の金の眼を前にすると、そんな言葉はたちまち色褪せてしまう。
人ならざる妖艶。
夜そのものが、獣耳の人間の形を取ってこちらを見ているようだった。
「俺は、お前に許されるまで、その身体を求めぬ」
――どういうことだろうか。
九郎助は、珠璃の身体が欲しいのだろうか。
「どれほど、お前の身体からいい匂いがしようとも」
珠璃は息の仕方を忘れた。
人間の男なら、見た目を褒める。衣を、髪を、肌を、値踏みする。
けれど九郎助は、もっと内側へ鼻先を寄せるようなことを言う。
あの野狐のように、柔らかい肉を喰らいたいということだろうか。
怖いほど、突然奪われそうな言葉なのに、値踏みされた時のような冷たさがない。
九郎助の手は伸びてこない。
金色の狐火が、手首で淡く細く揺れている。
触れられているのに、触れられてはいない。
不思議なほど、その境は守られていた。
「……許される、とは」
「お前が自分から望む時だ。もう百年ほども待った。今更だ」
それきり九郎助は、珠璃の狐火の尻尾を指先でそっと整えた。
百年も、何を待っていたのだろう。
どうして、わたしなのだろう。
判らない。
判らないのに、手首へ結ばれた金の狐火は、少しも厭ではなかった。
熱が移るわけでもないのに、ひどく大切そうに触れられている気がした。
「兄さま。珠璃との契りが済んだなら、次じゃ」
九郎助は珠璃の手首から指を離した。
「里に狐火を置く」
「大結界ほどにはならぬが、無いよりましじゃ。人間の目も、野狐の鼻も、物の怪の手も、幾らかは迷わせられる」
葛葉は当然のように言って、硝子壺を一つ、九郎助へ放った。
受け取った九郎助の掌で、青い狐火が金に返る。
「珠璃も来るか」
「兄さま」
「俺の後ろだ。結んだばかりの縁を、里へ馴染ませる」
葛葉は不満そうに眉を寄せたが、反対はしなかった。
三人は庭へ出た。
午前に霧はまだ薄く残り、濡れた土の匂いがする。
見えなかった筈の遠い人道が、葦原の向こうに細く白んでいた。
その道の方へ向けて、葛葉が狐火の壺を掲げる。
「まずは東。木の端」
「次に南、火の口」
「西は金の蔵。北は水門。中央は草庵」
二人のやり取りに無駄はなかった。
九郎助が火を放つと、金の玉が地を走り、屋敷の軒、井戸の縁、木戸の柱、葦の橋のたもとへ次々と宿っていく。
置かれた狐火は、見えぬ獣が丸くうずくまったように、じっとその場を抱く。
珠璃は九郎助の後ろを歩いた。
狐火が一つ置かれるたび、手首の火も小さく応じる。
結ばれた糸が、里のあちらこちらへ伸びていくようだった。
この場所の東西南北に、少しずつ縁が濃く張られ出している。
葛葉は井戸の石組みと、傍らに立つ榎の根元との間を手で示した。
濡れた土の上には、狐火を置いたばかりの金の筋が、薄く輪を描いている。
「珠璃。そこへ立て」
「はい」
「そなたが目印じゃ」
珠璃は言われた場所へ立った。
九郎助が手首の狐火へ指をかざす。
「痛ければ言え」
「……はい」
狐火の尾がほどけ、細い金の筋となって地へ落ちた。
土の上を這い、井戸の石へ触れ、そこでふわりと立ち上がる。
次の瞬間、井戸の周りに淡い火の輪ができた。
「上出来じゃ」
葛葉が満足そうに頷く。
九郎助は珠璃を見た。
「怖くないか」
「……少し」
正直に答えると、九郎助の金の眼がやや緩んだ。
「少しならよい。怖れろ。騒げ。何も怖がらぬ者は、すぐ喰われてしまう」
そう言って、九郎助は最後の狐火を草庵へ放った。
金の火が屋根を走り、里全体を薄い輪で包む。
珠璃の手首の狐火が里と同じ色で揺れていた。



