葭津に着いた時、足の下はまだ船だった。
止まったのに、膝が揺れていた気がしたのを覚えている。
誰かが吐いた匂いが髪について、指先でこそいでも消えない。
女衒の一人が早くしろと言った。
早くと言われても、どこへ行けばよいのか知らない。
行李に詰めた物とてない、ただ着の身着のまま辿り着いた。もう帰る家もない。
前の子が降りたから、深朱も降りた。
そうしなければ、後ろの子に押される。
水際には葦が生えていた。
陽の落ちた暗闇の中でも近くで見れば風に揺れて、手招きしていた。帰れと言っているのか、来いと言っているのか。
潮、泥、葦、濡れた縄。
何もかもが知らない匂いだった。
ただ一つ丈、知っている匂いがある。
皆の袖に染みる貧しさの匂い。
あれ丈は、ここまでついて来た。
葦原の先に、都の高い屋根と居留地の煉瓦塀が見えた。
何もかもが朱い国の端の向こうに異国の色が混じっている。
どこか行く場所が選べるものなら。
ずっとずっと遠くへ行って了いたい。
綺麗で、やけに美味しそうだった。
灯りを含んだ煉瓦の壁は、照柿に熟れて、手を伸ばせば欠片くらい齧れそうに見えた。
そのときから、妾には異国への憧れが芽生えたのだと思う。
この海の向こうには、知らない色の壁があり、知らない灯りがあり、知らない名で生きられる場所があるのだと。
――そんなもの、どこにも在りはしないのに。
深朱は、親に売られて都へ来た。
船に載せられたのはまだ名を変える前のことだった。
親に呼ばれていた元の名は、もう覚えてもいない。
親の顔も、覚えていない。
潮と吐瀉と泣き腫らした顔の満ちた船底。
女衒たちは面倒そうに煙管を鳴らし、連れて来た娘たちを眺めていた。
「新帝が践祚されたんだってね。売れるかねえ」
「莫迦いってらァ。側室であろうと帝のお妃は華族の姫でねえと、なれねぇやい」
「なら、尚いいだろうさ。行き場のない男の欲望は、こっちの懐へ流れらァ」
誰に買われようと、銭になればよい。
売られた娘の行く先など、その程度の胸先三寸の勘定で決まる。
大きな小早の船が方々へ着いて、最後は猪牙に似た飫肥杉のちょろ舟に乗せられた。
そうして深朱は、右京の外れ、居留地の煉瓦塀の灯を遠くに見やる右京朱籬廓へ入った。
その色街は居留地の南に位置し、一丁目から五丁目までの町割を持ち、大門から廓の奥へは桜並木の大華通が真っ直ぐに延びている。
西は葭海に面し、その船着き場である葭津には、葦の群生する水際へ女衒の舟がしばしば漕ぎ着けた。
東には西河岸があり、廓は水と塀と籬と門とによって、都の内にありながら全く別の世界を形作っていた。
逃げようと思えば逃げられぬこともない。
朱籬廓は四方のうち三方を籬に囲われ、出入り口は大門のみ、残る一方が葭海へと開かれている。
ならば船に乗せられて海から来たように、どこかの船底に潜り込めばいい。
けれど誤って女衒の船に転がり込もうものなら、今度こそ、からゆきさんにされて了う。
海の向こうへ渡る女の噂には、いつも暗い銭の匂いがした。からゆきと呼ばれるなら、朱籬から朱籬へ売られたのと何も変わらない。遠くへ行きたい癖に、それは厭だと思う。
荷車に押し込められたまま、深朱は朱籬廓の端を、どぶ溝のある塀に沿って運ばれていった。
溝に溜まっているのは、水というより黒い泥だった。
紙屑や折れた箸、腐った菜っ葉、誰かの吐いたものまで浮いている。
泡が一つ浮かび、ぷつりと潰れるたび、深朱は息を止めた。
あれへ落ちたら、もう洗っても落ちない気がした。
その黒さから逃げるように、深朱は少し上へ目をやった。
どぶ溝を囲む塀の向こうに、それより遥かに高い煉瓦塀が覗いている。
荷車がその外れへ差しかかると、通りの匂いが変わった。
異国めいた言葉。
嗅ぎ慣れぬ香。
それらが、どぶの臭いに混じって流れてくる。
その先、水戸尻と呼ばれる端で、男たちに手招きしている女がいた。
前帯はだらしなく崩れ、裾も引かず、誰の許しも受けぬまま壁に凭れかかっている。
銘々の見世から出て来る、重い衣を纏い、髪飾りを揺らして歩く遊女たちとは全く違って見えた。
「あれは、浮かれ女だ」
女衒の一人が吐き捨てるように言った。
「ああなりゃァ抱える見世もなく、間もなくくたばるぜ」
その言葉の意味を、深朱はまだ知らなかった。
女衒は足元の葦をよし、葦原をよしわらと呼んだ。
訊けばもとは葦という名だったが、悪しに通じるから葭と呼び替えたのだという。
悪しをよしと言いくるめる。
この土地に似つかわしい名だと、ずっと後になって深朱は思った。
程なくして辿り着いたのは、美しい大華通から一本奥へ入った中見世だった。
大見世ほどの格はなく、かといって端女郎ばかりを並べる格下の見世でもない。
深朱を抱えたその交り見世には、有名花魁を華々しく輩出する夢を捨てきれぬ、中途半端な欲が淀んでいた。
紅籬楼は一頻り繁盛している中見世で、大華通から一本奥へ入った道筋に、肩肘張らぬ気楽さが売りだ。
煮売りの湯気が立ち、団子屋の焦げた醤油の匂いが漂い、夜になれば小店の灯りが遊女たちの入れられた籠のような格子の隙間まで届く。
客は馴染みの遊女に通い、ついでに煮物で小腹を満たし、小店で酒を一合引っかけて帰るといった具合だ。
引手茶屋との付き合いも始まり、中見世から大見世へ、あと一歩で格も上がろうかという頃、いちばん年若く器量もよい深朱が転がり込んできた。
ただ、それ丈のことだった。
見世は深朱に惜しみなく手をかけた。
飯も衣も、芸の師匠も、仰ぐべき姐やも、全て同じ年頃の禿よりは良いものを与えられた。
その代わり躾も折檻も、他人よりずっと厳しかった。
小さな中見世が大見世に並ぶには、一人の娘を大輪の花に仕立て上げる外なかったのだ。
紅籬楼へ運ばれて入ったその夜、深朱は就寝前に奥の帳場へと連れて行かれた。
畳は古く、墨と錆びた銭と伽羅の匂いが染みついている。
番頭新造が帳面に覆い被さるようにして文机に向かっていた。
遣り手婆は畳に座って、遊女たちの猩々緋の襦袢のほつれを繕いながら、人を刺すように見ている。
楼主は火の落ちた煙管を膝の上で転がしながら、深朱に聞いた。
「元の名は」
問われても、すぐには出てこなかった。
船底で泣いて、青菜のように荷車に揺られ、ここへ来るまでの間に何度か呼ばれたはずの名だった。
けれど口にしようとすると、喉の奥で濁って了う。
何とはなしに名前を渡したくない感じもあった。
「覚えていなんすなら、恰度ようござんす」
番頭新造がこちらを振り返り、鉛筆の先をちろちろと舐めながら、廓詞で言った。
すぐ脇の遣り手婆が上体を伸ばし、深朱の顎を針を下向けに持ったままの指先で持ち上げた。
「肌は白い。眼も悪くない。この子にするかねェ」
器を選ぶ時のように、疵の有無を確かめる響きだった。
楼主までもが器量検分しようと、煙草と脂の匂う顔を寄せて来る。
逃げる間もなく、目元、鼻筋、口元を順に眺められ、やがて満足げに頷かれた。
「ほう。眼がいい。泣き腫らせば半値だな」
深朱はその言葉を舌の上で転がした。
半値。自分の悲しみにまで、値がつくのだと思った。
「深い朱と書いて、深朱。どうだい」
「よかろう。この紅籬楼の朱を背負わせる」
楼主がそう言うと、番頭新造は舐った鉛筆で帳面にその名を書きつけた。
その瞬間、親から貰った名を失った。
「今日からお前は、深朱だ」
期待を込めた名だった。
花魁にするため、高く売るため。
大見世に肩を並べる夢を、一人の娘の細い肩へ載せるための名だった。
深朱は返事をした。
その名が自分を呼んでいるのだと、まだ思えぬまま。
「はい」
すると遣り手婆は、満足気に笑った。
「よい返事だ。泣くなら奥で泣きな。客に見せるにも、値のつく涙と値のつかぬ涙がある」
その夜から、深朱は深朱になった。
名ごと朱籬廓へと縛られたのだ。



