ピロロロロ、ピロロロロ。
ズボンのポケットより鳴る音。足を止めた俺は衝動的に手を突っ込み取り出そうとするが、そんなわけねーだろと、また奥にグイッと押し込む。
あれだけ着信音に一喜一憂していたのに、この変わりよう。
……もう、どうでもいいんだよ。
だが、そんな俺の耳に残る、あの言葉。
『自分の人生を生きてね』
『ほら、あの子は。……生きられない運命にあるから。だけど藤城くんは違う。これからの人生がある。だからお願い。あの子の為に、自分を捨てないで』
あいつの母親の声が。娘が大変な時に告げられた、あの言葉が。
『なおきくん。べんきょうは?』
前に一度、生死の境を彷徨ったあいつが帰ってきた時。震える指先で紙に書いた、俺への文面。
その文字はブレていて、あの原稿用紙に書かれた美しい文章は戻ってこないのだと思い知らされた。
紙を眺めたあいつの目元が一瞬曇ったが、また俺に柔らかな笑顔を浮かべてくれた。
あいつは一つずつ大切なものを失っても、生きている。
闘って、闘い続けて。今も生きることを諦めてなんかいねぇ。
……なのに俺は逃げんのか? あいつが生きれるかも分からねー、明日から。
そんな思いから俺は歩道の端に寄り、スマホをしっかり握り締めて、視線の元に持ってくる。
「……えっ」
心臓がキュッと縮こまり、目は逆に見開き、咄嗟に開いた口からは情けねーほどの間抜け声を漏らしてしまう。
この名前を見るのは四年振りと言いたいところだが、一週間前に見たばかり。
この文字列を見るだけで胸がざわついて、詰めつけられて、どこか温かなものを沁み込ませてきて。気付けば俺は応答ボタンに指を触れ、耳元にスマホを押し当てていた。
『……っ!』
四年振りに聞いた第一声は、息を呑む声だった。
かけてきたくせに何言ってんだと怒鳴りつけてやろうかと思ったが、まあ無理もない。相手も、応対してくるなんて思っていなかっただろうから。
『な、直樹、か……?』
受話器より聞こえる声は、あまりにも細々しくて、車道を走る車の音に今にも掻き消されそうで。だが、風邪でも引いたのかと思うぐらいに、声は低くなっていた。
「ああ。久しぶりだな……」
俺がそう声を掛けると、電話越しでも分かるぐらいに重い反応を返してきやがる。
……まあ、仕方がねぇ。この四年で変わったのは、コイツだけではないからな。
聞こえてくるのは、アイツの息遣いのみ。
おそらく向こうも、同じだろう。
恨み辛み、憤り、不信感、嫌悪。
あの頃、腹の中でごった煮していたギトギトの感情は、自分でも驚くほどにない。
茜色に染まる町並みを眺め、強風に揺れる制服のネクタイを抑え、大きく息を吸い込んで僅かな潮の香りを感じる。
ただ、その言葉を聞きこぼさないようにと全神経を張り巡らせていた。
『……あの場所に、来てくれないか?』
息を吐くように漏れた、小さな、あまりにも小さな声。
ハッキリと聞き取れたわけではなく、普段なら確認の意味を込めて聞き返すだろう。
しかし。
「待ってるから」
そう告げスマホを耳元から外し、そっと指に触れる。一方に、通話を終了させた。
声を放った途端にヒリつく喉からは、たった一言しか出せなかった。
ザザーン。ザザーン。
桜の並木道より脇道に逸れると、広がるのは茜色の空と同色に染まる広大な海。
満潮の時間が近い為か、海風が強い為か。波は大きく荒ぶっており、白浜の砂地が波によって色を変える。
そんな海水の飛沫が舞う場所に立ち尽くしている、一つの影。逆光で顔が見えないとか、四年振りとか、関係ねぇ。
背中をやや曲げた立ち方、ズボンのポケットに片手ずつを押し込む癖、俯くとより身を小さく見せてしまう姿勢。
あの頃と変わっていない、かつての友人。……いや、俺は親友だと信じていた。
亡くなった母親に募らせていた淋しさも。あの人に言われた忘れられない言葉も。そんな自分を救ってくれたのは小説であることも。惨めな自分を曝け出せたのは達也だけだったことも。
全てを出せた、相手だった。俺の物語に存在しないなんてありえない、唯一無二の存在。
距離を詰めていくうちに太陽の位置が変わり、俺の瞳にはその顔が鮮明に映し出される。
あどけなかった顔は面長になり、弱々しい目はこちらをしっかり見据える凛々しいものに変わり、見上げられていたはずの視線はほぼ同じになっていた。



