放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 「……はい」

 返事をしたあともしばらく、しずるの鼓動は速いままだった。

 放送室の中は狭い。
 机の上の機材も、壁際のラックも、窓にかかったブラインドも、数分前と何ひとつ変わっていないはずなのに、今はどこも少し緊張を含んで見えた。さっき流れた声は、ここに残っていない。録音データのように再生して確認できる形でもない。ただ三人とも、たしかに聞いたとわかっている。

 その「わかっている」が、逆に厄介だった。

 朝倉はしばらく機材を見ていたが、やがて諦めたように椅子を引いて座った。
 香坂は机の端に置いた紙コップをひとつに重ね、少し考えるように黙っている。

 最初に口を開いたのは香坂だった。

 「で」

 短い一言が、静かな部屋の真ん中に落ちる。

 「このまま放流するのは、かなりまずい」

 朝倉が顔をしかめる。

 「言い方」

 「意味は合ってるでしょ」

 「合ってるけど」

 会話の調子はいつも通りに近い。
 でも、その軽いやり取りの下にある緊張は消えていなかった。しずるは膝の上で握った指先をほどき、もう一度組み直す。何か言わなければと思うのに、言葉の選び方がわからない。

 「……すみません」

 口をついて出たのは、結局それだった。

 朝倉がすぐに眉を寄せる。

 「なんで謝るの」

 「いや、でも……」

 「でもじゃなくて」

 朝倉はそこで一度言葉を切った。
 言い方を選び直したように見えたのが少し意外だった。彼はもっと勢いで言ってしまう人だと思っていたからだ。

 「水瀬が悪いわけじゃないだろ」

 しずるは返事をしなかった。
 悪いわけではない、と言われても、原因が自分にまとわりついている感覚は消えない。旧校舎で返事をしたのは自分だ。名前を呼ばれたからといって、あんなふうに簡単に「はい」と返してしまったのも。

 香坂がしずるを見た。

 「水瀬」

 「……はい」

 「今日、このあと予定ある?」

 質問の意味が一瞬つかめなかった。
 予定、と言われても、放課後のしずるに特別なものはほとんどない。図書室の手伝いがなければ、そのまま帰るだけだ。

 「……ないです」

 「じゃあ、しばらくここにいなよ」

 しずるは顔を上げた。

 香坂は当然みたいな顔で言葉を続ける。

 「少なくとも、一人でうろうろさせるよりはまし。呼ばれても、すぐ反応しなくて済むし」

 「それ、俺も思ってた」と朝倉が重ねる。
 「ていうか、しばらく放課後はここ来て」

 しずるは二人の顔を見比べた。
 放送室に。毎日。放課後に。

 頭の中でその言葉だけが少し遅れて形になっていく。ここは自分の場所ではない。放送部の部屋で、機材があって、原稿があって、校内に声を流す人たちが使う場所だ。自分はただ図書委員で、昨日までなら、この扉の前を通っても中をのぞくことさえなかった。

 「……でも」

 遠慮のほうが先に口をついた。

 「迷惑じゃ」

 「迷惑なら最初から言ってる」

 朝倉はほとんど間を置かずに言った。
 その返しの速さに、しずるは少し息を呑む。

 「それに、呼ばれてるのに一人にしとくほうがやばいだろ」

 「だいたい、こういうのは一人のときがいちばん面倒なの」と香坂も続ける。
 「私がいない日もあるけど、朝倉一人よりはマシだし」

 「一言多いな」

 「事実でしょ」

 朝倉は不服そうに口を曲げたが、否定はしなかった。
 そのやり取りを聞きながら、しずるは胸の奥に小さく広がるものを意識していた。安心に近い。けれど、安心と呼んでしまうにはまだ落ち着ききらない感覚。居場所を渡されることに慣れていないせいかもしれない。受け取っていいものなのか、まだ判断がつかない。

 「水瀬?」

 朝倉に呼ばれて、しずるははっと顔を上げる。

 「聞いてる?」

 「……聞いてます」

 「じゃあ、来る?」

 あまりにも簡単な言い方だった。
 来るか、来ないか。行き場を失ったものに差し出すというより、明日の放課後、コンビニに寄るかどうかを決めるみたいな軽さで朝倉は聞く。たぶん、そのくらいの軽さで言ってもらわないと、しずるは余計に身構えてしまうのだろう。

 しずるは喉の奥で小さく息を整えた。

 「……来ます」

 言ったあとで、その答えが思っていたよりずっと自然に出たことに驚く。
 断れなかったのではない。たぶん本当に、来たいと思っていた。

 香坂が「よし」と短く言って、壁際の時計を見た。

 「じゃあ今日は、先生に見つからない程度の時間まで。朝倉、適当に仕事分けて」

 「はいはい」

 朝倉は立ち上がり、机の上の紙束を軽く叩く。

 「水瀬、こういうの揃えるの得意そう」

 「イメージで決めてませんか」

 「決めてる」

 「雑ですね」

 「でも外してないだろ」

 しずるは思わず言葉に詰まり、それから小さくうなずいた。
 たしかに、嫌ではなかった。ページのずれた原稿を揃えるとか、クリップを付け直すとか、そういう単純な作業は落ち着く。誰かの役に立っている実感がなくても、少なくとも“ここにいていい理由”くらいにはなる。

 しずるが椅子を引いて机の端に寄ると、朝倉はその様子を一瞬だけ見て、すぐ自分の席へ戻った。
 香坂は機材ラックのチェックを始める。放送室の中に、紙をめくる音とキーボードを叩く音が落ち着いて重なり始めた。

 特別な会話はなかった。
 けれど、その時間は妙に静かで、呼吸がしやすかった。四階で名前を呼ばれたときの、あの底が抜けるような感覚とは正反対の静けさだった。自分のいる位置が、ここだとわかる静けさ。

 外がさらに暗くなったころ、香坂が先に立ち上がった。

 「私は職員室寄ってから帰る。朝倉、ちゃんと戸締まりして」

 「了解」

 「水瀬も、今日はもう寄り道しないで帰りなよ」

 「……はい」

 香坂が出ていき、扉が閉まる。
 狭い部屋の中に、機材のランプと夕方の残り光だけが残った。

 しずるも立ち上がろうとすると、朝倉が先に声をかける。

 「水瀬」

 その呼び方だけで、胸の奥が少しほどける。
 しずるは振り向いた。

 「また明日」

 たったそれだけだった。

 けれど、しずるはその一言に、さっきの「来ます」よりもはっきりと頷ける気がした。

 「……はい」

 返事をした瞬間、今日一日まとわりついていた薄い不安が、少しだけ遠のく。
 また明日。
 それはただの挨拶なのに、今のしずるには、それだけでここに戻ってきていいと言われた気がした。

 放送室を出て廊下を歩きながらもしずるは、その一言を何度も思い返していた。

 また明日、と言われた一言が、その日は何より心強かった。