「平気、ではないです」
そう答えた自分の声が、放送室の中では思ったより普通に響いた。
四階で名前を呼ばれたときも、教室で名前を飛ばされたときも、もっと自分の声は薄かった気がする。ここではまだ、自分の言葉がちゃんと机や壁に当たって返ってくる。
「正直でよろしい」
香坂が言って、椅子の背に肩を預けた。
朝倉は「それで褒めるんだ」と少しだけ笑ったが、視線はすぐにしずるへ戻る。
「水瀬、今日はもう一人で帰るなよ」
「……はい」
返事をしたあとで、自分がまた“はい”と言ったことに気づく。
あの四階で、怪異に向かって返してしまったのと同じ一言。けれど今は、意味がまるで違う。朝倉の声に返すぶんには、まだ怖くない。それどころか、返したあとのほうが呼吸がしやすい。
朝倉がパソコンの画面を閉じ、椅子ごと半回転してこちらへ向き直る。
「とりあえず、何かあったらすぐ言えよ。旧校舎も、しばらく近づくな」
「近づきたくて近づいたわけじゃないです」
しずるが言うと、朝倉は「それはそう」と苦笑した。
香坂は机の端に置いてあった紙コップを片づけながら、「でも気を抜くと行きそう」と淡々と言う。
「行きません」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「たぶんがいちばん信用ならないのよ」
会話は続いているのに、放送室の外は少しずつ静かになっていた。
放課後のざわめきが遠のいて、職員室の気配も薄くなる。窓の外の光は、さっきより青みに寄っていた。夕方が、校舎の中にゆっくり入り込んでくる。
その静けさの中で、不意にスピーカーが小さく鳴った。
ノイズ、というほどでもない。
通電している機材がときどき立てるような、きい、とかすかな擦れ音。三人ともほとんど同時に顔を上げた。
「今の、何」
朝倉が眉をひそめる。
「回線切ってないの?」と香坂。
「切ってる」
朝倉は短く答え、機材のランプを確認しようと身を乗り出した。
その瞬間だった。
「水瀬」
しずるの名前を呼ぶ声がした。
一拍遅れて、しずるの背中に冷たいものが走る。
その声は、朝倉のものによく似ていた。放送越しではなく、今この放送室のどこかから直接聞こえたみたいな距離感で、妙に近い。
「……え」
返事はしなかった。
けれど身体が反応しかけた。反射でそちらを向きそうになる。助かった、と一瞬思ってしまったのは、その声があまりにも自然だったからだ。
「水瀬。ひとりで来て」
今度ははっきりしていた。
放送室の空気が、一気に冷えた気がした。
しずるは椅子の縁を掴んだまま固まる。
その声は朝倉に似ている。似ているだけじゃない。呼び方も、声の高さも、少しだけ雑な語尾までよく似ている。だからこそ余計に、頭では違うとわかるのに身体が追いつかない。
「今の、俺じゃない」
すぐ横から、本物の朝倉の声がした。
しずるははっとして隣を見る。
朝倉は機材の前にいた。顔色が少し悪い。さっきまでと同じ姿勢で立っているのに、その表情だけが固くなっていた。香坂も目を細めてスピーカーを見ている。
「わかってる」と香坂が低く言う。
「でも似せ方が悪趣味」
その言い方に、しずるはようやく息を吸えた。
本物がここにいる。さっきの声は違う。わかっていたはずなのに、実際に朝倉の顔を見るまで、自分の中の何かが決定できずにいた。
「……朝倉の、声でした」
自分でも声が少し掠れているのがわかった。
朝倉が舌打ちするみたいに小さく息を吐く。
「だから嫌なんだよ」
たったそれだけの言葉だった。
けれど、しずるにはその“嫌”が思った以上に重く響いた。怖いとか不気味とかではなく、自分のものを勝手に使われたことへの、本気の嫌悪に近い響きだったからだ。
香坂が腕を組み直す。
「だんだん近づいてるわね」
「近づいてるっていうか、手口増えてるだろ」
朝倉はそう言ってから、しずるを見た。
「水瀬」
その呼び方だけで、さっきまで凍っていた胸の奥が少しほどける。
似ていたはずなのに、まるで違う。そう思えること自体が不思議だった。
しずるは小さく返す。
「……はい」
返事をすると、ようやく自分がまだここにいるとわかった。
そう答えた自分の声が、放送室の中では思ったより普通に響いた。
四階で名前を呼ばれたときも、教室で名前を飛ばされたときも、もっと自分の声は薄かった気がする。ここではまだ、自分の言葉がちゃんと机や壁に当たって返ってくる。
「正直でよろしい」
香坂が言って、椅子の背に肩を預けた。
朝倉は「それで褒めるんだ」と少しだけ笑ったが、視線はすぐにしずるへ戻る。
「水瀬、今日はもう一人で帰るなよ」
「……はい」
返事をしたあとで、自分がまた“はい”と言ったことに気づく。
あの四階で、怪異に向かって返してしまったのと同じ一言。けれど今は、意味がまるで違う。朝倉の声に返すぶんには、まだ怖くない。それどころか、返したあとのほうが呼吸がしやすい。
朝倉がパソコンの画面を閉じ、椅子ごと半回転してこちらへ向き直る。
「とりあえず、何かあったらすぐ言えよ。旧校舎も、しばらく近づくな」
「近づきたくて近づいたわけじゃないです」
しずるが言うと、朝倉は「それはそう」と苦笑した。
香坂は机の端に置いてあった紙コップを片づけながら、「でも気を抜くと行きそう」と淡々と言う。
「行きません」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「たぶんがいちばん信用ならないのよ」
会話は続いているのに、放送室の外は少しずつ静かになっていた。
放課後のざわめきが遠のいて、職員室の気配も薄くなる。窓の外の光は、さっきより青みに寄っていた。夕方が、校舎の中にゆっくり入り込んでくる。
その静けさの中で、不意にスピーカーが小さく鳴った。
ノイズ、というほどでもない。
通電している機材がときどき立てるような、きい、とかすかな擦れ音。三人ともほとんど同時に顔を上げた。
「今の、何」
朝倉が眉をひそめる。
「回線切ってないの?」と香坂。
「切ってる」
朝倉は短く答え、機材のランプを確認しようと身を乗り出した。
その瞬間だった。
「水瀬」
しずるの名前を呼ぶ声がした。
一拍遅れて、しずるの背中に冷たいものが走る。
その声は、朝倉のものによく似ていた。放送越しではなく、今この放送室のどこかから直接聞こえたみたいな距離感で、妙に近い。
「……え」
返事はしなかった。
けれど身体が反応しかけた。反射でそちらを向きそうになる。助かった、と一瞬思ってしまったのは、その声があまりにも自然だったからだ。
「水瀬。ひとりで来て」
今度ははっきりしていた。
放送室の空気が、一気に冷えた気がした。
しずるは椅子の縁を掴んだまま固まる。
その声は朝倉に似ている。似ているだけじゃない。呼び方も、声の高さも、少しだけ雑な語尾までよく似ている。だからこそ余計に、頭では違うとわかるのに身体が追いつかない。
「今の、俺じゃない」
すぐ横から、本物の朝倉の声がした。
しずるははっとして隣を見る。
朝倉は機材の前にいた。顔色が少し悪い。さっきまでと同じ姿勢で立っているのに、その表情だけが固くなっていた。香坂も目を細めてスピーカーを見ている。
「わかってる」と香坂が低く言う。
「でも似せ方が悪趣味」
その言い方に、しずるはようやく息を吸えた。
本物がここにいる。さっきの声は違う。わかっていたはずなのに、実際に朝倉の顔を見るまで、自分の中の何かが決定できずにいた。
「……朝倉の、声でした」
自分でも声が少し掠れているのがわかった。
朝倉が舌打ちするみたいに小さく息を吐く。
「だから嫌なんだよ」
たったそれだけの言葉だった。
けれど、しずるにはその“嫌”が思った以上に重く響いた。怖いとか不気味とかではなく、自分のものを勝手に使われたことへの、本気の嫌悪に近い響きだったからだ。
香坂が腕を組み直す。
「だんだん近づいてるわね」
「近づいてるっていうか、手口増えてるだろ」
朝倉はそう言ってから、しずるを見た。
「水瀬」
その呼び方だけで、さっきまで凍っていた胸の奥が少しほどける。
似ていたはずなのに、まるで違う。そう思えること自体が不思議だった。
しずるは小さく返す。
「……はい」
返事をすると、ようやく自分がまだここにいるとわかった。



