放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 朝倉がパソコンの前に座ると、放送室の空気が少しだけ引き締まった。

 さっきまで机の上に無造作に置かれていた原稿の束や、壁際の機材のランプまで、急に意味のあるものに見えてくる。香坂は机の端に腰を預け、腕を組んだまま画面をのぞき込んでいた。しずるは勧められた椅子に浅く座る。座っているのに落ち着かない。膝の上で指先を組むと、爪の先が少し冷たかった。

 「たぶん残ってると思うんだけど」

 朝倉が画面を見たまま言う。

 「昨日の、何時くらい?」

 「……四時半、前後だと思います」

 「了解」

 キーボードを打つ音が短く続く。
 画面の中には、時刻ごとに並んだ録音ファイルが一覧で表示されているらしかった。しずるには細かい文字までは読めない。けれど、朝倉の指が迷いなくその中の一つを選び、再生ボタンの上で一瞬止まるのが見えた。

 「これかな」

 クリック音のあと、スピーカーからノイズが流れた。

 ざら、と乾いた音。
 校内回線をずっと開けていたときに混じるらしい、電気の薄いざらつき。その向こうに、遠くの足音のようなものや、ドアの軋みのようなものがごく小さく埋もれている。

 何もない。
 そう思った瞬間だった。

 ノイズの奥で、自分の名前だけが浮いた。

 「……水瀬、しずる」

 しずるの背中が強張る。

 その声は、昨日四階で聞いたものと同じだった。
 若いようで、古い。男とも女ともつかないのに、しずるの名前だけはためらいなく知っている声。昨日は廊下の空気そのものが喋ったみたいに聞こえたそれが、今度は機械のノイズの中からそのまま現れた。

 「っ、これ」

 朝倉が小さく息を呑む。
 香坂は表情を変えないまま言った。

 「巻き戻して」

 朝倉がすぐに再生位置を戻す。
 もう一度、ざらついたノイズが流れる。しずるは今度は耳をそらさなかった。そらしたら、逆に取り残される気がした。

 「……水瀬しずる」

 二度目は、さっきよりもはっきり聞こえた。
 一度聞いてしまったせいかもしれない。あるいは本当に、今の再生のほうが声の輪郭を拾っていたのかもしれない。どちらでもよかった。問題は、確かにそこに残っていることだった。

 「……これです」

 自分でも驚くほど平坦な声が出た。
 昨日のことを説明したときより、よほど現実味があった。怪異を見た、聞いた、と言うのではなく、録音データとしてここにある。それが救いなのか、逆に逃げ場を失うことなのか、しずるにはまだわからなかった。

 「そのあとも」

 香坂が短く言う。

 朝倉が無言で再生を続ける。
 ノイズ。
 一拍の空白。
 それから、昨日と同じように、ほっとしたみたいな声。

 「ありがとう」

 放送室の空気が止まった。

 しずるは自分の喉が乾くのを感じた。
 昨日、あの暗い音楽準備室の奥で聞いた声とまったく同じだった。何に対する礼なのか、いまだにわからない。わからないまま、こうして機械の中にまで残っている。

 朝倉が画面から目を離さずに言う。

 「これ、俺じゃない」

 「当たり前」

 香坂が即座に返す。
 その言い方には少しだけ緊張が混じっていた。

 「昨日の放課後、放送マイク使ってないし。回線に音声残すなら、普通はこっちで操作してる」

 「でも乗ってる」

 「だから気持ち悪いの」

 二人のやり取りを聞きながら、しずるは膝の上の指先をほどいた。
 怖い。
 それは間違いない。昨日のことが夢でも勘違いでもなかったと証明されたのだから、怖くないはずがない。けれど、その怖さの奥で、奇妙に静かな安心があった。

 自分だけがおかしいわけではなかった。

 四階で聞いた声も、返事をしたことも、「ありがとう」と言われたことも、全部が自分の頭の中だけで起きたことではない。
 録音に残っている。
 朝倉も香坂も、同じものを聞いている。

 信じてもらえた、と言うより先に、同じ場所を見ている感覚があった。
 それが救いになること自体、しずるには少し意外だった。

 「水瀬」

 朝倉が画面から目を上げる。

 「平気?」

 昨日の今日で、平気なわけがない。
 でもその問い方には、気休めでも同情でもなく、本当に確認している感じがあった。しずるは少しだけ息を吸ってから答える。

 「平気、ではないです」

 香坂がそこで小さく鼻で笑った。

 「正直でよろしい」

 その一言だけで、張りつめていた空気がほんの少しゆるむ。
 放送室の中だけは、まだ現実が自分を受け入れている気がした。