放送室は、管理棟の二階、職員室の向かいにある。
しずるはその前まで来て、一度だけ足を止めた。
白いプレートに「放送室」と黒い文字が並んでいる。それだけのことなのに、扉一枚向こうにある空気が、自分のいる世界とは少し違うように思えた。図書室とも教室とも違う場所だ。機材の音や、マイクを通した声や、校内へ流れていく言葉のための部屋。しずるみたいな人間が、何の用事もなく入る場所ではない気がした。
ノックをしようとした瞬間、扉が内側から開いた。
「うわ」
出てきた男子生徒と、危うく正面からぶつかりそうになる。
相手は咄嗟に扉を押さえ、もう片方の手でしずるの腕を軽く引いた。近い、と思うより先に、聞き覚えのある声が落ちてくる。
「大丈夫?」
朝倉だった。
近くで聞くと、放送越しのときより少しだけ低くて、やわらかい。
さっきスピーカーから流れていた声と同じなのに、同じではない。当たり前のことなのに、その違いが今は妙に鮮明だった。
「……はい」
「よかった」
朝倉はそれで充分みたいに笑って、それからしずるの顔を見た。
「もしかして、さっき呼び出された本人?」
しずるは一拍遅れてうなずく。
「……水瀬です」
「知ってる。今、呼んだから」
あっさりした言い方だった。
しずるが少し言葉に詰まっていると、朝倉は半身で扉を押さえたまま中を顎で示した。
「入る?」
放送室の中は、思っていたより狭かった。
卓上ミキサー、マイク、古いCDプレーヤー、原稿の束、壁には行事予定表と当番表。乾いた機械のにおいと、少しだけ紙のにおいが混じっている。窓際にいた女子生徒がしずるを見て、片手を上げた。
「その子?」
「そう」
「私は香坂。三年。放送部部長」
「……水瀬です」
「それはさっき聞いた」
短くそう言って、香坂は椅子の背に肘を乗せた。
からかわれているというほどではない。けれど、観察されている感じはあった。朝倉とは違う意味で、この人も人をよく見ているのだとわかる。
朝倉が机の上の紙を一枚つまみ上げる。
「で、呼んだ理由なんだけど」
しずるは紙を受け取った。
校内で使われている放送依頼用のメモだった。そこに黒いボールペンで、簡単にこう書かれている。
二年B組 水瀬しずる
至急、図書室へ
それだけだった。
依頼者名を書く欄は、空白のまま。
「……これ」
「放送依頼箱に入ってたやつ」
朝倉が言う。
「昼放送の前に見つけてさ。急ぎっぽかったから、一応読んだ」
「図書室に呼ばれる理由ある?」と香坂が続けた。
しずるは首を振る。
「……ないです」
「字は見覚えある?」
「ないです」
紙を持つ指先に、少しだけ汗がにじむ。
誰が書いたのかわからない。どうして放送で呼び出したのかもわからない。けれど、これがただのいたずらなら、あまりに気味が悪かった。
朝倉が机の端に腰を預ける。
「で、図書室にいたのは当たり?」
「……はい」
「すごいな、それ」
「すごくないでしょ」と香坂が即座に切る。
「当たりってことは、居場所を知ってたってことなんだから」
しずるはもう一度、メモの文字を見る。
癖のない字だ。わざと特徴を消したみたいにも見える。けれど、誰かを思い浮かべられるほどではない。
「何かあった?」
朝倉が今度は少し真面目な声で言った。
しずるは顔を上げた。
説明できる自信はなかった。昨日のことを口にしたら、急に全部が馬鹿らしくなる気もする。旧校舎で名前を呼ばれた。返事をした。礼を言われた。そのあと、存在が少しずつ薄くなっている。文章にしただけで、どこか現実から滑る。
けれど二人とも、笑う気配はなかった。
朝倉は軽く見えて、その実、こちらが言葉を探す間を急がせない。香坂は腕を組んだまま、余計な相槌を打たずに待っている。
しずるは小さく息を吸った。
「……昨日」
それだけで、喉の奥が少し詰まる。
「旧校舎で、名前を呼ばれました」
沈黙が落ちた。
短いけれど、逃げ道のない沈黙だった。
朝倉が先に口を開く。
「旧校舎って、四階の?」
しずるはうなずく。
「はい」
香坂が視線を少し細めた。
「それで?」
しずるは紙の端を見つめたまま言う。
「返事、しました」
今度の沈黙は、さっきよりも重かった。
朝倉が低く息を吐く。
「……それ、かなり嫌なやつじゃん」
大げさに怖がるでも、茶化すでもなく、ただ率直にそう言った。
その言い方のほうが、しずるにはかえって救いだった。変なことを言った人間を前にしているのではなく、本当に“嫌なことが起きた”と受け止めている声だったからだ。
「誰かいたの」と香坂が聞く。
「見えませんでした」
しずるは答える。
「でも……音楽準備室の中に、たぶん」
「たぶん?」
「……いた、気がします」
朝倉と香坂は顔を見合わせた。
それから香坂が口を開く。
「朝倉。昨日の回線ログ、残ってる?」
朝倉はすぐにパソコンのほうを振り返る。
「残ってるはず」
「じゃあ見よう」
しずるはメモを握ったまま立ち尽くしていた。
怖い。
でも、ここまで来たら確かめたい気持ちのほうが少しだけ勝っている。
朝倉が椅子を引きながら、しずるを見た。
「水瀬、座る?」
その声は、放送で呼ばれたときと同じように自然で、まっすぐだった。
しずるは小さくうなずいた。
放送室の中だけが、まだ自分を覚えている場所みたいだった。
しずるはその前まで来て、一度だけ足を止めた。
白いプレートに「放送室」と黒い文字が並んでいる。それだけのことなのに、扉一枚向こうにある空気が、自分のいる世界とは少し違うように思えた。図書室とも教室とも違う場所だ。機材の音や、マイクを通した声や、校内へ流れていく言葉のための部屋。しずるみたいな人間が、何の用事もなく入る場所ではない気がした。
ノックをしようとした瞬間、扉が内側から開いた。
「うわ」
出てきた男子生徒と、危うく正面からぶつかりそうになる。
相手は咄嗟に扉を押さえ、もう片方の手でしずるの腕を軽く引いた。近い、と思うより先に、聞き覚えのある声が落ちてくる。
「大丈夫?」
朝倉だった。
近くで聞くと、放送越しのときより少しだけ低くて、やわらかい。
さっきスピーカーから流れていた声と同じなのに、同じではない。当たり前のことなのに、その違いが今は妙に鮮明だった。
「……はい」
「よかった」
朝倉はそれで充分みたいに笑って、それからしずるの顔を見た。
「もしかして、さっき呼び出された本人?」
しずるは一拍遅れてうなずく。
「……水瀬です」
「知ってる。今、呼んだから」
あっさりした言い方だった。
しずるが少し言葉に詰まっていると、朝倉は半身で扉を押さえたまま中を顎で示した。
「入る?」
放送室の中は、思っていたより狭かった。
卓上ミキサー、マイク、古いCDプレーヤー、原稿の束、壁には行事予定表と当番表。乾いた機械のにおいと、少しだけ紙のにおいが混じっている。窓際にいた女子生徒がしずるを見て、片手を上げた。
「その子?」
「そう」
「私は香坂。三年。放送部部長」
「……水瀬です」
「それはさっき聞いた」
短くそう言って、香坂は椅子の背に肘を乗せた。
からかわれているというほどではない。けれど、観察されている感じはあった。朝倉とは違う意味で、この人も人をよく見ているのだとわかる。
朝倉が机の上の紙を一枚つまみ上げる。
「で、呼んだ理由なんだけど」
しずるは紙を受け取った。
校内で使われている放送依頼用のメモだった。そこに黒いボールペンで、簡単にこう書かれている。
二年B組 水瀬しずる
至急、図書室へ
それだけだった。
依頼者名を書く欄は、空白のまま。
「……これ」
「放送依頼箱に入ってたやつ」
朝倉が言う。
「昼放送の前に見つけてさ。急ぎっぽかったから、一応読んだ」
「図書室に呼ばれる理由ある?」と香坂が続けた。
しずるは首を振る。
「……ないです」
「字は見覚えある?」
「ないです」
紙を持つ指先に、少しだけ汗がにじむ。
誰が書いたのかわからない。どうして放送で呼び出したのかもわからない。けれど、これがただのいたずらなら、あまりに気味が悪かった。
朝倉が机の端に腰を預ける。
「で、図書室にいたのは当たり?」
「……はい」
「すごいな、それ」
「すごくないでしょ」と香坂が即座に切る。
「当たりってことは、居場所を知ってたってことなんだから」
しずるはもう一度、メモの文字を見る。
癖のない字だ。わざと特徴を消したみたいにも見える。けれど、誰かを思い浮かべられるほどではない。
「何かあった?」
朝倉が今度は少し真面目な声で言った。
しずるは顔を上げた。
説明できる自信はなかった。昨日のことを口にしたら、急に全部が馬鹿らしくなる気もする。旧校舎で名前を呼ばれた。返事をした。礼を言われた。そのあと、存在が少しずつ薄くなっている。文章にしただけで、どこか現実から滑る。
けれど二人とも、笑う気配はなかった。
朝倉は軽く見えて、その実、こちらが言葉を探す間を急がせない。香坂は腕を組んだまま、余計な相槌を打たずに待っている。
しずるは小さく息を吸った。
「……昨日」
それだけで、喉の奥が少し詰まる。
「旧校舎で、名前を呼ばれました」
沈黙が落ちた。
短いけれど、逃げ道のない沈黙だった。
朝倉が先に口を開く。
「旧校舎って、四階の?」
しずるはうなずく。
「はい」
香坂が視線を少し細めた。
「それで?」
しずるは紙の端を見つめたまま言う。
「返事、しました」
今度の沈黙は、さっきよりも重かった。
朝倉が低く息を吐く。
「……それ、かなり嫌なやつじゃん」
大げさに怖がるでも、茶化すでもなく、ただ率直にそう言った。
その言い方のほうが、しずるにはかえって救いだった。変なことを言った人間を前にしているのではなく、本当に“嫌なことが起きた”と受け止めている声だったからだ。
「誰かいたの」と香坂が聞く。
「見えませんでした」
しずるは答える。
「でも……音楽準備室の中に、たぶん」
「たぶん?」
「……いた、気がします」
朝倉と香坂は顔を見合わせた。
それから香坂が口を開く。
「朝倉。昨日の回線ログ、残ってる?」
朝倉はすぐにパソコンのほうを振り返る。
「残ってるはず」
「じゃあ見よう」
しずるはメモを握ったまま立ち尽くしていた。
怖い。
でも、ここまで来たら確かめたい気持ちのほうが少しだけ勝っている。
朝倉が椅子を引きながら、しずるを見た。
「水瀬、座る?」
その声は、放送で呼ばれたときと同じように自然で、まっすぐだった。
しずるは小さくうなずいた。
放送室の中だけが、まだ自分を覚えている場所みたいだった。



