放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 「あら」

 その一瞬の表情に、しずるは足を止めた。

 司書教諭はカウンターの向こうで眼鏡を少し押し上げ、しずるの顔を見てから、机の上の返却本に視線を落とした。笑いかけようとして、その前に何かを思い出そうとするみたいな、ほんの短い間があった。

 昨日までなら気にも留めなかったはずの、ほんの一拍の空白。
 けれど今のしずるには、それが痛いほどわかった。

 「ごめんなさい、どちらのクラスだったかしら」

 やっぱり、と思った。

 胸の奥がすっと冷たくなる。
 司書教諭の声はやわらかい。悪意もない。責める響きもまったくない。だからこそ、その言葉が余計に現実味を帯びてしずるに刺さった。

 「……二年B組です」

 自分の声が少し遅れて出る。
 司書教諭は「ああ」と小さく言って、ようやく表情を整えた。

 「そうだったわね。ごめんなさい。今日はなんだか慌ただしくて」

 しずるはうなずいた。
 本当は、慌ただしいからではないとわかっている。先生が悪いわけでもない。たぶん教室の担任も、隣の席の男子も、同じように“ただ少し認識しそこねた”だけなのだ。

 それがいちばん怖かった。

 しずるは返却期限の紙を差し出す。
 司書教諭はそれを受け取ろうとして、一瞬だけまた動きを止めた。紙ではなく、しずるの手元を見ているような、焦点の合わない視線だった。

 まるで、そこに誰か立っていることはわかるのに、その輪郭だけが曖昧なみたいに。

 「先生」

 思わず自分から声をかける。
 司書教諭は、はっとしたようにまばたきをした。

 「ええ、ごめんなさい。返却ね」

 ようやく紙が受け取られる。
 けれどそのやり取りのあいだじゅう、しずるは足元が少しずつ遠くなる感覚を味わっていた。床に立っているのに、底が抜けていくみたいな不安定さ。まぶたの裏側がじわりと重い。自分がここにいることを、自分以外の誰かが保証してくれないと、すぐにでも薄くほどけてしまいそうだった。

 そのとき、天井のスピーカーが短く鳴った。

 校内放送のチャイムだった。

 図書室の静かな空気の中で、その電子音だけがやけに鮮明に響く。しずるは反射で天井を見上げた。次に流れてきた声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが大きく揺れた。

 『二年B組、水瀬しずるくん。至急、図書室まで来てください』

 明るく、よく通る声だった。
 少しくだけた響きが混じるのに、名前を呼ぶところだけは妙に丁寧で、まっすぐだった。

 朝倉の声だ。

 その一言が耳に入った途端、しずるは息を吸えた。
 さっきまで薄い膜の向こうにあったみたいな世界が、急に近くへ戻ってくる。足の裏に床の固さが返ってきて、手の感覚も、図書室の紙のにおいも、全部が一度に輪郭を持ち直す。

 『繰り返します。二年B組、水瀬しずるくん。至急、図書室まで来てください』

 二度目は、一度目よりも少しだけはっきりして聞こえた。
 フルネーム。
 その四文字と三文字が、今は何より確かなものとして胸の中へ落ちてくる。

 しずるは自分の指先を見下ろした。
 さっきまで少し遠かった指先が、ちゃんと自分のものに見える。手の甲に走る薄い血管の色まで、妙にはっきりしていた。

 司書教諭が目を丸くする。

 「あら、水瀬くん、呼ばれてるわよ」

 今度は迷いなく、名前が呼ばれた。
 さっきまでの小さな空白が、最初からなかったみたいに自然な言い方だった。

 しずるはまたスピーカーを見上げる。
 放送はまだ終わっていない。

 『……って、もういるかもだけど』

 最後だけ、少し声が近くなった。
 原稿にないひと言を、思わず足したみたいな砕け方だった。教師に聞かれたら注意されそうな、でも悪びれない軽さ。そのくせ、しずるにはその一言のほうが、一度目や二度目の正式な呼び出しよりずっと強く届いた。

 もういるかも。
 つまり、朝倉はしずるが今ここにいることを、ちゃんと想像している。

 図書室の窓ガラスに映る自分の顔は、さっきより少しだけ濃かった。
 薄い膜の向こうにいたものが、今はちゃんとガラスのこちら側にいる。そんな気がした。

 司書教諭が受け取った紙を見ながら言う。

 「放送部から何かしら。行ってきたら?」

 「……はい」

 返事をすると、今度は声が掠れなかった。

 しずるは図書室を出る前に、もう一度だけ天井のスピーカーを見上げた。
 名前を呼ばれただけで、こんなふうに呼吸がしやすくなるなんて思っていなかった。

 まるで、あの声だけが自分をこの場所につなぎ止めてくれるみたいだった。