しばらく、どちらも何も言わなかった。
放送室の中には、機材の小さな駆動音だけがかすかに残っている。
窓の外はもう夕方の青さへ傾いていて、ブラインドの隙間から細い光が机の端を白く照らしていた。
文化祭前はこの部屋へ逃げ込むように来ていた。
呼ばれないと、自分の輪郭が保てない気がしていた。
でも今は、少し違う。
ここに来たのは、薄くなる前の避難のためではなく、ちゃんと会いに来たからだ。
朝倉は机の上の原稿を脇へ寄せた。
しずるは向かいの椅子へ腰を下ろす。動作はゆっくりだったが、以前みたいなためらいはあまりない。
それでも、こうして二人きりで静かに向かい合っていると、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
放送じゃなくても届く声。
マイクを通さない距離。
それが、今は少しだけ近すぎる気がした。
朝倉が何か言いかけて、やめる。
その仕草がおかしくて、でも笑うほどではなくて、しずるは机の上に視線を落とした。
「水瀬」
不意に名前を呼ばれる。
しずるは顔を上げる。
放送の声ではない。
廊下越しでも、スピーカー越しでもない。
同じ名前なのに、こんなに近くて、やわらかい。
「……」
返事をしようとして、しずるは少しだけ止まった。
最初に四階で呼ばれたときのことが、ほんの一瞬だけ胸をよぎる。
あのときも、自分は名前を呼ばれて返事をした。
たったそれだけで、世界がずれた。
だから一拍ぶんだけ、身体が昔の恐怖を思い出しかける。
けれど今、目の前にいるのは玲音ではない。
ちゃんとここにいて、ちゃんと自分を見ている朝倉だ。
しずるはそのことを確かめるように、視線をまっすぐ返した。
すると朝倉が、少しだけ息を吸ってからもう一度呼ぶ。
「しずる」
その呼び方に、しずるの胸が大きく揺れた。
下の名前。
初めてだった。
名字で呼ばれることにもう慣れていたぶん、その二文字が落ちてきた瞬間、足元の感覚まで少し変わる。
逃げたいわけではない。
でも、受け止めるにはまっすぐすぎる。
しずるは唇を開いて、やっと声を出した。
「……はい」
小さな返事だった。
それでも、今度の「はい」は少しも奪われる感じがしなかった。
呼ばれたから反射で返したのではない。
返したいと思って、自分で選んで返した声だった。
朝倉の目元が少しだけやわらぐ。
「今度は、放送じゃなくても返事して」
しずるは思わず視線を逸らした。
そんなことを言われると、また胸の奥が落ち着かなくなる。
「……努力します」
「そこは、はいでいいだろ」
「努力はします」
「頑固」
「朝倉に言われたくないです」
そう返すと、朝倉が小さく笑った。
その笑い方まで近くて、しずるは少しだけ困る。困るのに、嫌ではない。
むしろその近さのほうへ、自分の輪郭が自然に寄っていくのがわかる。
朝倉は机に置いた手を少しだけ動かした。
触れるか触れないかくらいの距離で止まる。
強引ではない。
でも、そこに手を伸ばしてもいいのだと示されている気がした。
しずるは少しだけ迷ってから、小さく呼ぶ。
「……朝倉」
「何」
「呼んでくれて、よかった」
言ってしまってから、顔が熱くなる。
もっと別の言い方もあったはずなのに、結局いちばんまっすぐな言葉が出てしまった。
朝倉はしばらく何も言わなかった。
それから、照れたようでも冗談めかしたわけでもない声で、ただ静かに返す。
「何回でも呼ぶ」
その一言が、放送室の静かな空気にまっすぐ落ちる。
何回でも。
それは約束みたいで、でも重すぎない。
言葉にすれば簡単なのに、しずるにはそのくらいの強さがちょうどよかった。
しずるはもう一度、今度は少しだけ自然に答える。
「……はい」
呼ばれて、返事をする。
それだけのことが、もう怖くない。
最初の「はい」とは違って、今度はちゃんと自分で選んでいる。
呼ばれて応えることが、消えるためではなく、つながるためのものに変わったのだと、しずるはようやく静かに受け取っていた。
放送室の中には、機材の小さな駆動音だけがかすかに残っている。
窓の外はもう夕方の青さへ傾いていて、ブラインドの隙間から細い光が机の端を白く照らしていた。
文化祭前はこの部屋へ逃げ込むように来ていた。
呼ばれないと、自分の輪郭が保てない気がしていた。
でも今は、少し違う。
ここに来たのは、薄くなる前の避難のためではなく、ちゃんと会いに来たからだ。
朝倉は机の上の原稿を脇へ寄せた。
しずるは向かいの椅子へ腰を下ろす。動作はゆっくりだったが、以前みたいなためらいはあまりない。
それでも、こうして二人きりで静かに向かい合っていると、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
放送じゃなくても届く声。
マイクを通さない距離。
それが、今は少しだけ近すぎる気がした。
朝倉が何か言いかけて、やめる。
その仕草がおかしくて、でも笑うほどではなくて、しずるは机の上に視線を落とした。
「水瀬」
不意に名前を呼ばれる。
しずるは顔を上げる。
放送の声ではない。
廊下越しでも、スピーカー越しでもない。
同じ名前なのに、こんなに近くて、やわらかい。
「……」
返事をしようとして、しずるは少しだけ止まった。
最初に四階で呼ばれたときのことが、ほんの一瞬だけ胸をよぎる。
あのときも、自分は名前を呼ばれて返事をした。
たったそれだけで、世界がずれた。
だから一拍ぶんだけ、身体が昔の恐怖を思い出しかける。
けれど今、目の前にいるのは玲音ではない。
ちゃんとここにいて、ちゃんと自分を見ている朝倉だ。
しずるはそのことを確かめるように、視線をまっすぐ返した。
すると朝倉が、少しだけ息を吸ってからもう一度呼ぶ。
「しずる」
その呼び方に、しずるの胸が大きく揺れた。
下の名前。
初めてだった。
名字で呼ばれることにもう慣れていたぶん、その二文字が落ちてきた瞬間、足元の感覚まで少し変わる。
逃げたいわけではない。
でも、受け止めるにはまっすぐすぎる。
しずるは唇を開いて、やっと声を出した。
「……はい」
小さな返事だった。
それでも、今度の「はい」は少しも奪われる感じがしなかった。
呼ばれたから反射で返したのではない。
返したいと思って、自分で選んで返した声だった。
朝倉の目元が少しだけやわらぐ。
「今度は、放送じゃなくても返事して」
しずるは思わず視線を逸らした。
そんなことを言われると、また胸の奥が落ち着かなくなる。
「……努力します」
「そこは、はいでいいだろ」
「努力はします」
「頑固」
「朝倉に言われたくないです」
そう返すと、朝倉が小さく笑った。
その笑い方まで近くて、しずるは少しだけ困る。困るのに、嫌ではない。
むしろその近さのほうへ、自分の輪郭が自然に寄っていくのがわかる。
朝倉は机に置いた手を少しだけ動かした。
触れるか触れないかくらいの距離で止まる。
強引ではない。
でも、そこに手を伸ばしてもいいのだと示されている気がした。
しずるは少しだけ迷ってから、小さく呼ぶ。
「……朝倉」
「何」
「呼んでくれて、よかった」
言ってしまってから、顔が熱くなる。
もっと別の言い方もあったはずなのに、結局いちばんまっすぐな言葉が出てしまった。
朝倉はしばらく何も言わなかった。
それから、照れたようでも冗談めかしたわけでもない声で、ただ静かに返す。
「何回でも呼ぶ」
その一言が、放送室の静かな空気にまっすぐ落ちる。
何回でも。
それは約束みたいで、でも重すぎない。
言葉にすれば簡単なのに、しずるにはそのくらいの強さがちょうどよかった。
しずるはもう一度、今度は少しだけ自然に答える。
「……はい」
呼ばれて、返事をする。
それだけのことが、もう怖くない。
最初の「はい」とは違って、今度はちゃんと自分で選んでいる。
呼ばれて応えることが、消えるためではなく、つながるためのものに変わったのだと、しずるはようやく静かに受け取っていた。



