放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 その頃、朝倉は放送室でひとり、机の上の原稿を意味もなく整えていた。

 文化祭が終わってから、放送室の中は少し静かになった。
 行事用の進行表は片づけられ、机の端に積まれていた注意事項の束も減っている。機材のランプはいつも通り点いているのに、部屋全体から抜けた熱だけがまだ戻りきっていない気がした。
 文化祭当日の全校放送のことは、もちろん職員室でも問題になった。朝倉はしっかり怒られたし、香坂には「まあ当然」と冷たく言われた。
 それでも後悔はしていない。
 していないのに、思い出すたびに喉の奥が少しだけ熱くなる。

 あの放送は、ほとんど勢いでやった。
 勢いというより、しずるを失いかけた焦りに押し出されたと言ったほうが近い。
 名前を呼ばなければ届かないと思った。
 呼び続けなければ、四階の暗がりにしずるが引き込まれてしまうと思った。
 だから呼んだ。
 放送の形なんて途中からどうでもよくなって、ただ自分の声が届くことだけを考えていた。

 「今日も来るの」

 香坂が机の向こうで書類を綴じながら聞いた。
 帰り支度の途中らしく、鞄はすでに椅子の背にかけてある。

 朝倉は原稿の角を揃えながら、なるべく普通の調子で答える。

 「来るだろ」

 「自信あるね」

 「……まあ」

 本当は自信というより、そうであってほしいだけだ。
 しずるはもう大丈夫かもしれない。学校でも家でも、元通りに名前を呼ばれるようになったのかもしれない。
 それならそれでいい。
 よかったと思う。
 でもその“よかった”の先に、自分が呼ばれなくなる未来までつながると考えると、少しだけ落ち着かなくなる。

 香坂はその微妙な顔を見逃さなかったらしい。

 「来たら、ちゃんと普通に話しなよ」

 「何で説教」

 「だってあんた、変に意識すると雑になるから」

 「雑って」

 「言わなくていいことは言って、言えばいいことは黙る」

 朝倉は眉を寄せた。

 「ひどくない?」

 「事実でしょ」

 香坂はそこでファイルを閉じ、時計を見た。
 「私は職員室寄ってから帰るから。戸締まりお願いね」

 「了解」

 「あと、変な空気にしないでよ」

 「それさっきも聞いた」

 「何回でも言う」

 そう言い残して、香坂は出ていった。
 扉が閉まると、放送室の中は急に静かになる。機材のかすかな駆動音と、窓の外から届く夕方の風の音だけが残った。

 朝倉は椅子に座り直す。
 机の上には、昼放送で使った短い原稿と、連絡用のメモがいくつか。どれももう片づけていいものばかりだった。
 それでも手を止めると、考えなくていいことまで考えてしまいそうで、意味もなく紙の端を揃え続ける。

 文化祭の日、しずるに向かって言ったことを思い出す。

 誰が忘れても、俺は呼べる。
 俺が呼んでる。

 思い返すと、さすがに少し恥ずかしい。
 いや、少しではない。かなりだ。
 放送室のマイク越しに校舎中へ流した言葉としては、どう考えてもやりすぎだった。
 しずる本人がどう受け取ったのかも、ちゃんと聞けていない。
 届いたのは事実だろう。そうでなければ戻ってこられなかった。
 でも、届いたことと、それをどう思ったかは別だ。

 扉の向こうで小さく足音が止まった。

 朝倉は顔を上げる。
 この足音は、たぶんもう聞き分けられる。急ぎすぎず、でも迷っている気配も少しだけ残した止まり方。
 文化祭前なら扉の前で一拍、もっと長く立ち止まっていたはずだ。けれど今日は、その間が少し短い。

 朝倉は思わず口元をゆるめた。

 「入れば?」

 扉の向こうで、ほんの少しだけ気配が動く。
 次に扉が開いて、しずるが顔をのぞかせた。夕方の光を背にして立つその姿は、以前みたいに背景へ溶けそうな薄さをもう帯びていない。ちゃんとそこにいて、ちゃんとこちらを見ている。

 「来た」

 朝倉がそう言うと、しずるは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく返した。

 「……来ました」

 前にも聞いた返しだと思って、朝倉は少し笑う。

 「それ、前も聞いたな」

 「便利なので」

 しずるはそう言って、扉を閉めた。
 その答え方が少しだけ前より柔らかい。
 たったそれだけの違いなのに、朝倉は胸の奥がわずかにほどけるのを感じた。

 しずるは机のそばまで来て、鞄を椅子の横へ置く。
 何か手伝うことありますか、といつものように言いそうな気配があった。
 でも今日は、その前に朝倉のほうが口を開いた。

 「その、文化祭の放送」

 しずるが顔を上げる。

 「……はい」

 「悪かった」

 言ってから、朝倉は自分でも少し変な顔になる。
 謝るつもりは、たぶんなかった。
 後悔しているわけではない。
 でも、あれをどう受け取ったのかを聞く前に、勢いだけで押しつけた部分があったことも否定できなかった。

 「何がですか」

 しずるは本気でわかっていないみたいな顔で聞き返す。

 「いろいろ言いすぎた」

 そう答えると、しずるはしばらく黙った。
 朝倉は少しだけ落ち着かなくなる。
 やっぱり重かったのかもしれない。困るとか、いなくなるなとか、俺が呼んでるとか。
 放送室の中へ沈黙が落ちる。
 機材の小さなランプだけが、変わらず点っていた。

 やがて、しずるが静かに言う。

 「……助かりました」

 朝倉は思わず顔を上げた。

 しずるは視線を机の上に落としたまま続ける。

 「届いたので」

 たったそれだけだった。
 けれど、その一言で、文化祭の日に放った自分の声が初めてちゃんと戻ってきた気がした。
 届いた。
 しずるに。
 あの暗がりの奥まで。
 そして、しずるはそれを“助かった”と言う。

 朝倉は喉の奥の熱を、うまく言葉にできなかった。

 「……そっか」

 結局、出てきたのはその程度の返事だけだ。
 でも今は、それで充分だった。

 放送室の夕方は静かだった。
 文化祭前の避難所としてではなく、もう少し別の意味を持った場所として、二人のあいだに同じ静けさが流れていた。