翌朝、目が覚めた瞬間から、何かがずれている感じがあった。
熱があるわけではない。体調が悪いわけでもない。
けれど、眠りが浅かった日の朝特有の鈍さが、頭の奥に薄く残っている。カーテンの隙間から差し込む光はいつも通りなのに、それを見ている自分のほうが少し遅れているようだった。
しずるは布団の中で一度だけ目を閉じ、昨夜のことを思い出しかけてやめた。
思い出せば、またあの声の響きまで一緒に蘇る気がしたからだ。
台所へ行くと、母はいつも通り朝食の支度をしていて、妹は眠そうな顔で牛乳を飲んでいた。
「おはよう」と言われて、「おはよう」と返す。
そのやり取りが普通に成立したことに、しずるは少しだけ安心した。昨日のことは疲れから見た変なものだったのかもしれない。そう思いたかった。
けれど、その安心は学校へ着くまでしかもたなかった。
教室は文化祭前らしい浮ついた空気に満ちていた。
後ろの棚には色画用紙の束と飾りつけ用のリボンが積まれ、黒板の端には係分担のメモが雑に貼られている。朝のホームルーム前なのに、もう数人が机を寄せて相談を始めていた。窓際では誰かがペンキのついた手を振って、「それ昨日の続き?」と笑っている。
しずるは自分の席に鞄を置き、椅子を引いた。
隣の席の男子が一瞬こちらを見たような気がしたが、何も言わずに前を向く。別に珍しいことではない。いつもの朝だ。そう自分に言い聞かせながら、しずるは教科書を机の端に揃えた。
担任が教室へ入ってくる。
ざわついていた空気が少しだけ落ち着き、出席簿を開く音がした。
「じゃあ、出席取るぞ」
いつもと同じ、気の抜けた声。
一人ずつ名前が呼ばれていく。短い返事が教室のあちこちから返る。しずるは何となく、自分の番を待った。昨日の夜からどこか落ち着かないままだったからこそ、こういう決まりきった朝の手順にすがりたい気持ちがあった。
「宮本」
「はい」
「森下」
「はーい」
その次に、自分の名前が来るはずだった。
けれど担任は出席簿をめくったまま、そのまま次の名前を呼んだ。
「山口」
「はい」
しずるは一瞬、自分が聞き逃したのかと思った。
けれど違う。いま、たしかに飛ばされた。頭の中で名簿の並びをなぞっても、間違いではない。
喉の奥がひやりと冷える。
「あの」
思わず声が出た。
担任が出席簿から顔を上げる。
「ん? どうした」
教室の何人かもつられてこちらを見る。
しずるは口を開いたまま、一拍だけ止まった。
呼ばれていません。
そう言えばいいだけだ。たったそれだけのことなのに、声が続かなかった。自分からその事実を指摘してしまったら、本当に“そこにいなかった”みたいになる気がした。
「……いえ」
結局、そう返してしまう。
担任は「そうか」とだけ言い、何事もなかったように出席確認を続けた。
教室の視線もすぐに前へ戻る。
しずるはゆっくり息を吐こうとしたが、うまくいかなかった。
胸のあたりが浅くつまる。机の下で指先を握ると、冷えているのがわかった。
そのとき、隣の席の男子がしずるを見て、ほんの少し驚いた顔をした。
「え、水瀬いたんだ」
軽い口調だった。冗談でもからかいでもない。本当に今この瞬間まで気づいていなかった、という顔だった。
しずるはその顔を見たまま、小さく言う。
「……います」
「いや、なんか今日ぜんぜん気づかなかったわ」
男子は悪びれた様子もなく、そう言って前を向いた。
それで会話は終わりだった。
たぶん彼にとっては、本当にそれだけのことなのだろう。しずるが少し薄かった、ただそれだけ。すぐ忘れる程度の違和感。
けれどしずるにとっては違った。
昨日、旧校舎で返事をしたこと。
「ありがとう」と言われたこと。
そのあと資料が消えたこと。
ばらばらだったものが、今ようやく一本の線でつながり始めていた。
じわりと、嫌な汗が背中ににじむ。
一時間目の内容はほとんど頭に入らなかった。
教師の声は聞こえているのに、意味だけが薄い膜の向こうへ流れていく。ノートを取る手は動いているが、自分が本当にここに座っているのか、ときどき確信が持てなくなる。黒板の文字を写していても、教室の中の誰も、自分がいなくても何も変わらないような気がした。
休み時間、前の席の女子が後ろを振り向いて、提出物の話をし始めた。
その会話はしずるの机の上を通り過ぎ、まるで最初から一席分空いているみたいに隣へ流れていく。
「これ、先生に出した?」
「まだー」
「やばくない?」
誰も、しずるには聞かない。
別に仲が悪いわけではない。ただ、そこに会話の起点として数えられていないだけだ。
昼休みが近づくころには、しずるは自分の輪郭がまた少し薄くなっているような気がしていた。
昨日の夜より、今朝より、確実に。
何かをしていないと落ち着かないのに、逆に動けば動くほど、自分の足音まで曖昧になっていく気がする。
チャイムが鳴ると同時に、しずるは席を立った。
図書室に返却期限の紙を出さなければならないのを思い出したからだ。実際には急がなくてもいい用事だったが、教室の中にこのままいるのがつらかった。
廊下に出る。
すれ違う生徒の肩が何度か近くをかすめた。避けられているわけではなく、見えていないのだと考えると、ぞっとする。
図書室の扉を開けると、いつもの少し乾いた紙のにおいがした。
カウンターの向こうにいた司書教諭が顔を上げる。
「あら」
その一瞬の表情に、しずるは足を止めた。
先生は笑いかけようとして、ほんの少しだけ考えるような顔をした。
誰だろう、と言うほどではない。
けれど、すぐに名前へたどり着けない空白が、たしかにそこにあった。
熱があるわけではない。体調が悪いわけでもない。
けれど、眠りが浅かった日の朝特有の鈍さが、頭の奥に薄く残っている。カーテンの隙間から差し込む光はいつも通りなのに、それを見ている自分のほうが少し遅れているようだった。
しずるは布団の中で一度だけ目を閉じ、昨夜のことを思い出しかけてやめた。
思い出せば、またあの声の響きまで一緒に蘇る気がしたからだ。
台所へ行くと、母はいつも通り朝食の支度をしていて、妹は眠そうな顔で牛乳を飲んでいた。
「おはよう」と言われて、「おはよう」と返す。
そのやり取りが普通に成立したことに、しずるは少しだけ安心した。昨日のことは疲れから見た変なものだったのかもしれない。そう思いたかった。
けれど、その安心は学校へ着くまでしかもたなかった。
教室は文化祭前らしい浮ついた空気に満ちていた。
後ろの棚には色画用紙の束と飾りつけ用のリボンが積まれ、黒板の端には係分担のメモが雑に貼られている。朝のホームルーム前なのに、もう数人が机を寄せて相談を始めていた。窓際では誰かがペンキのついた手を振って、「それ昨日の続き?」と笑っている。
しずるは自分の席に鞄を置き、椅子を引いた。
隣の席の男子が一瞬こちらを見たような気がしたが、何も言わずに前を向く。別に珍しいことではない。いつもの朝だ。そう自分に言い聞かせながら、しずるは教科書を机の端に揃えた。
担任が教室へ入ってくる。
ざわついていた空気が少しだけ落ち着き、出席簿を開く音がした。
「じゃあ、出席取るぞ」
いつもと同じ、気の抜けた声。
一人ずつ名前が呼ばれていく。短い返事が教室のあちこちから返る。しずるは何となく、自分の番を待った。昨日の夜からどこか落ち着かないままだったからこそ、こういう決まりきった朝の手順にすがりたい気持ちがあった。
「宮本」
「はい」
「森下」
「はーい」
その次に、自分の名前が来るはずだった。
けれど担任は出席簿をめくったまま、そのまま次の名前を呼んだ。
「山口」
「はい」
しずるは一瞬、自分が聞き逃したのかと思った。
けれど違う。いま、たしかに飛ばされた。頭の中で名簿の並びをなぞっても、間違いではない。
喉の奥がひやりと冷える。
「あの」
思わず声が出た。
担任が出席簿から顔を上げる。
「ん? どうした」
教室の何人かもつられてこちらを見る。
しずるは口を開いたまま、一拍だけ止まった。
呼ばれていません。
そう言えばいいだけだ。たったそれだけのことなのに、声が続かなかった。自分からその事実を指摘してしまったら、本当に“そこにいなかった”みたいになる気がした。
「……いえ」
結局、そう返してしまう。
担任は「そうか」とだけ言い、何事もなかったように出席確認を続けた。
教室の視線もすぐに前へ戻る。
しずるはゆっくり息を吐こうとしたが、うまくいかなかった。
胸のあたりが浅くつまる。机の下で指先を握ると、冷えているのがわかった。
そのとき、隣の席の男子がしずるを見て、ほんの少し驚いた顔をした。
「え、水瀬いたんだ」
軽い口調だった。冗談でもからかいでもない。本当に今この瞬間まで気づいていなかった、という顔だった。
しずるはその顔を見たまま、小さく言う。
「……います」
「いや、なんか今日ぜんぜん気づかなかったわ」
男子は悪びれた様子もなく、そう言って前を向いた。
それで会話は終わりだった。
たぶん彼にとっては、本当にそれだけのことなのだろう。しずるが少し薄かった、ただそれだけ。すぐ忘れる程度の違和感。
けれどしずるにとっては違った。
昨日、旧校舎で返事をしたこと。
「ありがとう」と言われたこと。
そのあと資料が消えたこと。
ばらばらだったものが、今ようやく一本の線でつながり始めていた。
じわりと、嫌な汗が背中ににじむ。
一時間目の内容はほとんど頭に入らなかった。
教師の声は聞こえているのに、意味だけが薄い膜の向こうへ流れていく。ノートを取る手は動いているが、自分が本当にここに座っているのか、ときどき確信が持てなくなる。黒板の文字を写していても、教室の中の誰も、自分がいなくても何も変わらないような気がした。
休み時間、前の席の女子が後ろを振り向いて、提出物の話をし始めた。
その会話はしずるの机の上を通り過ぎ、まるで最初から一席分空いているみたいに隣へ流れていく。
「これ、先生に出した?」
「まだー」
「やばくない?」
誰も、しずるには聞かない。
別に仲が悪いわけではない。ただ、そこに会話の起点として数えられていないだけだ。
昼休みが近づくころには、しずるは自分の輪郭がまた少し薄くなっているような気がしていた。
昨日の夜より、今朝より、確実に。
何かをしていないと落ち着かないのに、逆に動けば動くほど、自分の足音まで曖昧になっていく気がする。
チャイムが鳴ると同時に、しずるは席を立った。
図書室に返却期限の紙を出さなければならないのを思い出したからだ。実際には急がなくてもいい用事だったが、教室の中にこのままいるのがつらかった。
廊下に出る。
すれ違う生徒の肩が何度か近くをかすめた。避けられているわけではなく、見えていないのだと考えると、ぞっとする。
図書室の扉を開けると、いつもの少し乾いた紙のにおいがした。
カウンターの向こうにいた司書教諭が顔を上げる。
「あら」
その一瞬の表情に、しずるは足を止めた。
先生は笑いかけようとして、ほんの少しだけ考えるような顔をした。
誰だろう、と言うほどではない。
けれど、すぐに名前へたどり着けない空白が、たしかにそこにあった。



