放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 その日の夕方、しずるは家の玄関を開けた瞬間、少しだけ立ち止まった。

 靴箱の上には母が買ってきたらしいスーパーの袋が置かれていて、台所からは炒めものの匂いが流れてくる。リビングではテレビの音がして、妹が何かに文句を言っている声も混じっていた。
 どれも、前と変わらない家の音だ。
 なのに今日は、その“変わらなさ”が妙にやさしく感じられた。

 「ただいま」

 しずるが声をかけると、母が台所から顔を出した。

 「おかえり。ちょうどよかった、味噌汁よそって」

 「……はい」

 何でもないやり取りだった。
 でも、その何でもなさのまま名前を呼ばれ、返事をして、会話が流れていくことが、しずるにはまだ少し不思議だった。

 食卓にはすでに三人分の箸と茶碗が並んでいた。
 最初から、当然みたいに。
 母の分、妹の分、そしてしずるの分。
 たったそれだけのことなのに、視界の端でその並びを認識した瞬間、胸の奥に小さくあたたかいものが広がる。

 妹が椅子に座ったまま振り向く。

 「今日、早いね」

 「放課後、少し寄るところあるから」

 言ってから、しずるは少しだけ言葉の残りを意識した。
 自分から予定を口にしたのは、案外久しぶりかもしれない。これまでは「図書室の当番」とか「委員会」とか、必要があれば言う程度で、わざわざ誰かに伝えるほどの用事があること自体があまりなかった。

 母はそれを特別なこととして受け取らずに、鍋の火を弱めながら言う。

 「遅くなるなら連絡してね」

 「わかった」

 「また図書室?」

 妹が箸を持ったまま首を傾げる。

 しずるは一瞬だけ考えてから、首を振った。

 「……今日は、違う」

 妹は「ふうん」とだけ言って、それ以上は追及しなかった。
 本当にそれで終わる。
 何でもない会話の中に、しずるがちゃんと混ざっている。途中から足された感じも、うっかり思い出された感じもない。最初からここにいて、普通に返事をして、普通に次の話題へ流れていく。

 それだけのことが、今のしずるにはまだ少し眩しかった。

 夕食を食べながら、母が文化祭の話をした。

 「無事終わってよかったわね。準備、けっこう大変そうだったもの」

 「……うん」

 しずるがそう返すと、母は少しだけ目を丸くした。

 「何、その返事。珍しく素直」

 「どういう意味」

 「いつももっと短いでしょ」

 妹がそこで笑う。

 「たしかに。“別に”とか“普通”とかばっかり」

 「……言ってない」

 「言ってるよ」と妹が即座に返す。

 しずるは少しだけ言い返そうとして、でも結局やめた。
 やめた代わりに、ふっと肩の力が抜ける。
 こういうやり取りの中に自分がちゃんといることを、前よりずっと自然に受け取れるようになっている気がした。

 食べ終わって席を立つと、母が後ろから声をかける。

 「出るなら上着着ていきなさいよ。夜は冷えるから」

 「うん」

 「あと、帰るとき連絡」

 「わかった」

 返事をしながら、自室で鞄を取り直す。
 机の上にはノートとペンが置いたままで、窓の外はもう夕方の青さへ傾き始めていた。鏡の前に立つ。
 そこに映る自分は、ちゃんと自分の輪郭を持っていた。
 写真の中で薄く見えた肩も、曖昧だった目元も、今日はきちんとこちら側にある。
 もちろん、完全に忘れられたわけではない。あの四階の暗さも、玲音の声も、全校放送も、まだ胸のどこかに残っている。
 けれど今はもう、それだけが自分の全部ではなかった。

 玄関で靴を履く。
 母が台所から顔だけ出した。

 「気をつけてね」

 「行ってきます」

 その言葉が、前よりずっと自然に出た。
 しずるは自分で少し驚きながら、でもその驚きを表には出さずに扉を開ける。

 外の空気は思ったより冷たかった。
 住宅街の窓には明かりがともり始め、遠くで自転車のベルが鳴る。
 しずるは駅と反対の道へ歩き出した。向かう先はもう迷わない。図書室でも、旧校舎でもない。放送室だ。

 以前は、そこへ向かう足を自分でごまかしていた。
 避難するため。
 薄くなった輪郭を一時的に戻すため。
 名前を呼ばれないと不安だから。
 どれも本当だった。
 けれど今日は、それだけではない。

 会いに行くのだ、としずるは思う。
 朝倉に。
 あの声に。
 マイクを通さない、放送じゃない場所で、それでも自分の名前をちゃんと呼んでくれる人に。

 歩きながら、しずるは小さく息を吐いた。
 逃げ込むためではなく、会いに行くために放送室へ向かうのは、たぶん今日が初めてだった。